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「節分祭」「香取神宮」(香取市)
 本日ご案内するのは、となりまち「香取市」「香取神宮」で2月3日(金)に開催されます「節分祭」です。

 「香取神宮」(2010年11月5日・6日のブログ参照)は、「関東地方」を代表する「神宮」で「日本屈指」の「名社」です。
 「香取神宮」「御祭神」は、「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)」で、「出雲の国譲り」の「神話」で活躍した「神様」として知られています。

 また「香取神宮」は「国家鎮護」の「神様」として「皇室」からの「御崇敬」が最も篤く、特に「神宮」の「御称号」(明治以前は「伊勢」・「香取」・「鹿島」のみ)を以て奉祀されており、中世以降は「下総国」の「一宮」、明治以後の「社格制」では「官幣大社」に列し、昭和17年「勅祭社」に治定され今日に至っています。

 「香取神宮」「節分祭」は、古式に則った「節分祭」・「節分追儺式(せつぶんついなしき)」が行われます。

 「節分追儺式」は、明治時代の「初期」から伝わる「香取神宮」独特の「厄払い」の「行事」です。
 「節分追儺式」では、「御祓い(おはらい)」、「祝詞奏上(のりとそうじょう)」の後、「剣」を「手」に舞う「神人追儺の儀」、「本殿」で「鬼」が嫌うとされる「弓の弦」を打ち鳴らす「鳴弦(めいげん)の儀」、「音」に驚いた「赤鬼」、「青鬼」が飛び出してくると「福娘」に扮した二人の「巫女(みこ)」が「鬼は外」と「豆」をぶつけ「拝殿」の外へ追い出す「福娘追儺の儀」が行われます。

 「香取神宮」「節分祭」では、平成18年、「儀式」(節分追儺式)が終わると「大相撲」の「伊勢ノ海部屋」の「力士」・「土佐ノ海」関や「年男」、「年女」が「拝殿」「廊下」に登場して「豆まき」をしていたそうです。

 現在も「節分追儺式」後に、「年男」「年女」や「大相撲」の「力士」らが並び、待ち構える「参拝客」に「福豆」・「福銭」や「景品」の「引き替え券」などがまかれます。

 「香取神宮」で開催される「節分追儺式」を見に「香取市」にお出かけしてみてはいかがでしょうか?

 「香取神宮」「節分祭」「節分追儺式」詳細

 開催日時 2月3日(金) 13時半〜

 開催会場 香取神宮 香取市香取1697

 問合わせ 香取神宮 0478-57-2804

 備考
 「香取神宮」「節分祭」では、平成19年・20年・21・22年は「特別年男」として「錣山親方(しころやまおやかた)」(元「寺尾」関)と「豊真将」関が訪れ、「豆まき行事」に参加されたそうです。
 また「香取神宮」では1月中旬頃から、「拝殿」の「檜皮屋根葺き替え工事」が始まり、「覆い屋根」を設営するそうです。
 「殿内」での「御祈祷」には支障はありませんが、表からの「社殿」風景が変わります。
 また、「屋根替え修復工事」への「奉賛金」「受付」を設置しているので、御奉賛方よろしくお願いしますとのことです。














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| 地域情報::香取 | 07:40 AM |
「小野田周斎」(銚子市)
 本日二つ目にご紹介するのは、地元「銚子市」の偉人「小野田周斎」です。

 「小野田周斎」は、「銚子病院」「院長」、「千葉県会議員」を歴任し、「濱口吉兵衛」(1月23日のブログ参照)・「今井健彦」とともに「銚子港」改修(1月24日のブログ参照)に尽力した「人物」です。

 また「銚子遊覧鉄道」の廃止をうけて、大正11年(1922年)に開業した「銚子鉄道」(開通は大正12年)の「初代社長」に就任。
 現在の「銚子電鉄」の前身である「銚子鉄道」に「力」を尽くしたことで知られています。

 「小野田周斎」は、1865年(慶応元年)1月に「紀州宮原村」(現在の「和歌山県有田市」)に生まれました。
 若くして「御前(みさき)家」に入り、「千葉県立医学校」で学び、1891年(明治24年)に創設された「私立銚子病院」に招かれて「院長」に着任したそうです。

 「小野田周斎」は、1898年(明治31年)に「小野田耕斎」の「養子」となります。
 1904年(明治37年)、「日露戦争」に「赤十字社医員」として「従軍」。
 その前年の1904年(明治36年)に「海上郡会議員」に当選、続いて1909年(明治42年)に「千葉県会議員」に当選し、以来「四期15年」にわたり、「地方行政」の「振興発展」に尽力されました。

 その当時に「地元有志」間で「銚子漁港」修築の「議論」が起こると、「衆議院議員」(当時)「濱口吉兵衛」を助けて東奔西走(とうほんせいそう)した結果、1925年(大正14年)に「千葉県営事業」としての「工事」が実現となったそうです。

 「小野田周斎」は、「海上郡医師会長」、「海上郡会議長」、「千葉県会正副議長」等を歴任し、「地方開発」に大きく貢献されました。

 また、1917年(大正6年)11月3日に「営業廃止」となった「銚子遊覧鉄道」を、1921年(大正10年)10月13日に「銚子鉄道」の「敷設願」を「鉄道省」に提出、1922年(大正11年)6月20日に「免許」取得、同年9月29日に「銚子鉄道株式会社」を設立し、1923年(大正12年)7月5日に開通しました。

 開通した「銚子鉄道株式会社」の「初代社長」に「小野田周斎」が就任したそうです。

 「銚子鉄道」の「沿革」ですが、「銚子」から「犬吠埼」、「外川」方面まで至る「鉄道」の敷設は「総武鉄道株式会社」(総武本線を敷設した会社)が、「外川」まで路線を延長したもので、1901年(明治34年)5月1日に「免許」を取得しましたが、「利用者」の増加が見込めないなどの理由(用地買収に失敗し、予定路線の土地が値上がりした為という報道もあったそうです)で「敷設」を断念しました。

 その後、「濱口吉兵衛」や「13代目田中玄蕃」、「小野田周斎」など「銚子」の「有力者」の間で「鉄道敷設」の議論が起こり、1909年(明治42年)12月9日に「銚子人車鉄道」の計画を「政府」に申請したそうです。
 計画によれば、「銚子駅」から「外川」までの「本線」と、途中で「犬吠埼灯台」までの「支線」を「敷設」するものでしたが、結局は実現しませんでした。
 ちなみに「人車鉄道」とは、「線路」上の「小型」の「車輌」を「人間」が押して走らせる「トロッコ」なのだそうです。

 1912年(明治45年)になって「銚子人車鉄道」の「発起人たち」は、改めて「銚子」から「外川」間に「蒸気鉄道」の「敷設」を申請、1913年(大正2年)1月15日に「銚子遊覧鉄道株式会社」を設立、同年12月28日に「銚子」〜「犬吠」間が開業し、途中に「仲ノ町」、「観音」、「本銚子(もとちょうし)」、「海鹿島(あしかじま)」の「駅」を設置しました。

 しかし「銚子遊覧鉄道」は経営不振であったため、4年後の1917年(大正6年)に廃止となったそうです。

 1921年(大正10年)10月13日、旧「銚子遊覧鉄道」の「発起人」などによって、「銚子鉄道」の「敷設願」を「鉄道省」に提出、1922年(大正11年)6月20日に「免許」取得し、同年9月29日に「銚子鉄道株式会社」を設立し、「路線」も「外川」まで延伸され、1923年(大正12年)7月5日に開通したそうです。
 こうして開業した「銚子鉄道株式会社」の「初代社長」が「小野田周斎」であったそうです。

 また「小野田周斎」は、「濱口吉兵衛」(1月23日のブログ参照)「今井健彦」とともに「銚子漁港」改修に尽力された人物でもあります。

 幾多の「困難」があり、難航を極めた「銚子漁港」改修は頓挫寸前になりながらも、「濱口吉兵衛」らと共に「関係各省庁」へ働きかけた結果、工事認可が下り着工、40数年かかり「日本有数」の「漁港」となりました。

 「小野田周斎」は、その功績を讃えられ、「新生浜公園」の一角に「頌徳碑」が建立されています。

 現在の「銚子漁港」「銚子電鉄」の為に尽力された「小野田周斎」は、「濱口吉兵衛」とともに、今も「銚子市」を見守っています。

 備考
 「小野田周斎頌徳碑」と「濱口吉兵衛像」のある「新生浜公園」には、「永照稲荷神社」や「水神宮」が鎮座しています。
 「永照稲荷神社」は、寛永12年(1635年)に「豊後」の「佐伯」氏が「銚子浦」「利根川」沿いに祀ったことに始まります。
 亨保19年(1734年)に「者殿」遷座、昭和46年に「現在地」に遷座し「永照稲荷大明神」と改称しました。
 「新生浜公園」では、「鎮座地」に南面して、「永照稲荷」が鎮座し、その隣に北面して「水神宮」が鎮座しています。













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| 地域情報::銚子 | 08:30 AM |
「東庄町公民館まつり」(東庄町)
 本日ご紹介するのは、となりまち「東庄町」「東庄町公民館」で明明後日(しあさって)の1月29日(日)に開催されます「東庄町公民館まつり」です。

 「東庄町公民館まつり」の行われる「東庄町公民館」は、昭和59年4月に「社会教育施設」として開館しました。
 「東庄町公民館」「建物延べ面積」は3173平方メートルで、350人収容の「ホール」や「会議室」・「和室」・「調理実習室」などを備えています。

 「東庄町公民館」および「公民館」内に併設の「東庄町図書館」は、「老朽化」に伴う「改修工事」を実施し、一昨年(おととし)の平成22年12月1日にリニューアルオープンしました。

 「東庄町公民館」の「特色」ですが、「社会教育活動」の「拠点」として、「生涯学習の場」、「町民の憩いの場」、「仲間づくりの場」として、「町民」の誰もがいつでも気軽に利用できる「施設」です。
 なお、「東庄町公民館」で開催される各種「学習講座」、「文化講演会」、「文化祭」、「公民館まつり」などは、「教育課生涯学習係」が担当しています。

 「東庄町公民館まつり」では、「公民館」を中心に活動している「サークル活動」「教育・講座」などの「作品展示」や「てづくりもぎ店」、「おはなし会」、「きりえ同好会」・「茶道教室」・「子ども料理教室」・「ハニービー」(パッチワーク)などの「体験コーナー」、「ラッピング体験」などを開催。

 また「東庄町公民館」では「芸能」の披露も行い、「大正琴」、「舞踏教室」、「合唱団」、「フラダンス」、「ジャズダンス」、「歌謡愛好会」、「ピアダンス」などが披露されるそうです。

 「東庄町」で行われる「町民」の「公民館活動」の「理解」と「生涯学習」への「参加意欲」を促す「催し」を見にお出かけしてみてはいかがでしょうか?

 「東庄町公民館まつり」詳細

 開催日時 1月29日(日) 9時半〜15時

 開催会場 東庄町公民館 香取郡東庄町笹川イ4713-11

問合わせ 0478-86-1221

 備考
 「東庄町公民館まつり」の「駐車場」ですが、「公民館駐車場」・「町役場駐車場」・「水防倉庫駐車場」(町民体育館向かい)をご利用下さいとのことです。

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| 地域情報::香取 | 07:39 AM |
「伊藤左千夫」「伊藤左千夫の生家」(山武市)
 本日二つ目にご紹介するのは、近隣市「山武市」にゆかりのある「歌人」「文化人」「伊藤左千夫」、「伊藤左千夫の生家」です。

 「伊藤左千夫」氏(1864年9月18日生(元治元年8月18日)〜1913年(大正2年)7月30日没)は、「日本」の「歌人」、「小説家」で、「上総国武射郡殿台村」(現在の「山武市」)の「農家」出身で、「伊藤重左衛門」家の「末子」として生まれました。
 父「良作」は、「上総道学」の流れをくむ、この地方ですぐれた「漢学者」であり、同時に「和歌」にも通じていました。
 母「なつ」は「伊藤家」と同じく、「武士」を先祖とする「三木家」の出身らしく、気が強く「躾(しつけ)」などには特にきびしい、「激情型」の「女性」だったそうです。

 その後「伊藤左千夫」は、「明治法律学校」(現「明治大学」)中退。
 1898年(明治31年)に「新聞」「日本」に「非新自讚歌論」を発表。
 「歌よみに与ふる書」に感化され、「正岡子規」に師事。
 「子規」の没後、「根岸短歌会」系歌人をまとめ、短歌雑誌「馬酔木」「アララギ」の中心となって、「斎藤茂吉」、「土屋文明」などを育成しました。

 また1905年(明治38年)には、「子規」の「写生文」の影響を受けた「小説」「野菊の墓」を「ホトトギス」に発表。
 「夏目漱石」に評価されたそうです。
 「代表作」に「隣の嫁」、「春の潮」など。
 この頃、「東京帝国大学」学生の「三井甲之」や「近角常観」とも知遇を得て、「常観」が主宰していた「雑誌」「求道」(求道発行所)に「短歌」を寄稿しました。
 その後「伊藤左千夫」は、1913年(大正2年)に「脳溢血(のういっけつ)」のために死去しました。

 「伊藤左千夫」は享年50歳で没しており、「歌人」としての「寿命」は僅か13年でありました。
 この短い期間に「馬酔木」を経て「アララギ」を創始し、「門下」から「赤彦」、「茂吉」、「千樫」、「憲吉」、「文明」などの「大歌人」を輩出されました。
 自らは「正岡子規」の「写生歌」を超えて「全精神」を傾倒した「生の叫び」を基調とする「万葉調」の「写生歌」を達成しました。

 さらに、「短歌連作論」をはじめ「言語のひびき」「言語の声化」から「叫び」に至る「彼独特」の「歌論」を確立しました。
 「伊藤左千夫」は、「短歌」の他に多くの「小説」、「随筆」、「写生文」などを書いています。
 この間「新仏教」の同人となって「宗教」と「哲学」の世界に遊び、「茶人」としても「玄人」の「域」に達したそうです。
 僅か13年間に「文化的業績」は超人的なものであったと言えます。

 「伊藤左千夫」が生まれ育った「山武市」の「山武市歴史民族資料館」の横には「伊藤左千夫」の「生家」があります。
 「資料館」には「伊藤左千夫」に関する「資料」が多く展示されています。
 また「山武市内」の「山武市役所」のすぐ脇には「伊藤左千夫記念公園」があり、「公園」には「野菊の墓」の「主人公」である「政夫」と「民子」の「像」と「野菊の歌」、「アララギ派八歌人」の「歌碑」があります。

 「山武市歴史民俗資料館」ですが、「郷土」の「民族」・「考古学資料」の他、「野菊の墓」の「初版本」や「自筆の原稿」など、「伊藤左千夫」に関する多くの「資料」が展示されています。

 「伊藤左千夫の生家」ですが、「山武市歴史民俗資料館」の「裏手」にあり、「伊藤左千夫」が「少年時代」をすごした「藁葺き」の「母屋」や「東京都茅場町時代」の「茶室」(唯真閣)も移築されています。

 「唯真閣」ですが、「伊藤左千夫」は「文学」の「傍(かたわ)ら」終生「茶の湯」を愛好したことで知られています。
 「伊藤左千夫」が「和歌の道」に入ったのは明治26年30歳のときですが、たまたま「茶道」の「手ほどき」を受けていた「同業者」の「伊藤並根」という人が「和歌」もよくしたからといわれています。

 「伊藤左千夫」は「正岡子規」から「茶博士」と呼ばれたほどで、「本所茅場町」の「左千夫」の「自宅」を「無一塵庵」と名付けたそうです。
 自他共に「茶人」をもって任じ「一戸建ての茶室」を持つことを念願していました。
 そして同郷の「歌友蕨真」の協力を得て「郷里」の「山武杉」(2011年11月25日のブログ参照)を用いて明治43年5月に待望の「茶室」が「本所茅場町」の「左千夫」の邸内に完成し、「唯真閣」と名付けました。

 「左千夫」の死後、「甥(おい)」の「伊藤芬」氏の「手」で「亀戸」の「芬氏宅」に移築され、後に昭和16年「成東町」(当時)の「生家」に移され現在に至ります。
 「唯真閣」は「歌人」であると共に「茶人」であった「伊藤左千夫」の「風姿」を後世に伝える貴重な「建物」です。

 郷土が誇る「歌人」「文化人」「伊藤左千夫」の「生涯」に触れに、ゆかりの地「山武市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 備考
 「山武市」の「本須賀」には「伊藤左千夫」の「歌碑」があります。
 「歌碑」には「天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の浜に玉拾ひ居り」と書かれているそうです。

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| 地域情報::九十九里 | 09:50 AM |
「いちごの里さんむS1グランプリ」「苺一会(いちごいちえ)」(山武市)
 本日ご紹介するのは、近隣市「山武市」「山武市成東文化会館のぎくプラザ」で明明後日(しあさって)の1月28日(土)に開催されます「いちごの里さんむS1グランプリ」「苺一会(いちごいちえ)」です。

 「いちごの里さんむS1グランプリ」「苺一会」が行われる「山武市」は「いちご」の「生産地」として有名で、「いちご狩り」が盛んに行われていて、人気の観光スポットとなっています。
 また「いちご狩り」できる「山武市成東観光苺組合」所属の「いちご園」が20軒が軒(のき)を連ねる「国道126号線」一帯は「ストロベリーロード」(1月8日のブログ参照)といわれています。

 「山武市」で行われている「山武市いちごフェア」は、地域資源の活用により「地域の活性化」を図るため、「特産品」である「苺」を使用した新商品を市内外から募集し、「苺」本来の「味」を活かした「美味しさ」を競うイベントを行うとともに、「完熟苺」や、既に商品化されている「苺」を使用した「商品化」に寄与することを目的としているそうです。

 また「いちご(Strawberry)の里」「さんむ(Sammu)」にて「いちごスイーツ(Sweets)」で競う「S」の「頂点」を目指せ!ということで、今年度より「苺」の「スイーツNo.1」を決めるイベント「S1(エスワン)グランプリ」を開催するそうです。
 ちなみに「S1」の「S」は、「さんむ(山武)」、「ストロベリー」、「スイーツ」の「頭文字(かしらもじ)」をとったものなのだそうです。

 「いちごの里さんむS1グランプリ」「苺一会」では、「山武市産いちご」を使用した「スイーツ」を、「先着20名」、「食品衛生法に則り調理可能な方」、「イベント当日に出席できる方」の「応募条件」で「募集」。
 「応募規定」として「交通費・宿泊費の自己負担」、「使用する材料費は10000円で主催者が用意」、「苺使用の料理をイベント当日、一口サイズで200食用意」、「有料販売となるので、1食300円を上限価格に設定」と規定しました。
 「応募」は昨年(平成23年)12月15日(木)まで募集しており(既に締め切り)、「審査」は「イベント」当日に行われるといった「内容」になっています。

 「いちごの里さんむS1グランプリ」「苺一会」当日には、「山武市」の「特産品」である「苺」を使用した「スイーツ」が「和・洋」問わず勢ぞろいするそうで、是非ご賞味下さいとのことです。
 なお「いちごの里さんむS1グランプリ」「苺一会」に来場された際は、各「出店者」の「スイーツ」を食べた後、11時30分〜14時00分までに指定された「投票箱」に投票、また「スイーツ」は「有料販売」(300円以内)となっており、「スイーツ」は「数」に限りがあるため、時間終了が早まる場合がありますので、ご注意下さい。

 「いちごの里さんむS1グランプリ」「苺一会」の「賞品」ですが、「グランプリ」は「蓮沼ガーデンハウスマリーノ」「ペア宿泊券」、「準グランプリ」は「苺まるごとセット」1点だそうです。

 「いちごの里」「山武市」で行われる「苺」の「スイーツ」の「祭典」に足を運んでみてはいかがでしょうか?

 「いちごの里さんむS1グランプリ」詳細

 開催日時 1月28日(土) 11時〜15時

 開催会場 山武市成東文化会館のぎくプラザ 山武市殿台290-1

 問合わせ 山武市農商工・観光課観光係 0475-80-1202

 備考
 「いちごの里さんむS1グランプリ」「苺一会」では、「山武市」の「特産品販売会」も同時開催するそうです。

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「銚子漁港」の「歴史」(銚子市)
 本日ご紹介するのは、地元「銚子市」「銚子漁港」の「歴史」です。

 「銚子漁港」は、全国屈指の「水揚げ高」を誇る「漁港」で、「沿岸・沖合・遠洋漁業」の基地として「全国」から「漁船」が集まります。

 「魚市場」に水揚げされる「魚」は、「カニ類」から「マグロ」まで多種多様ですが、「イワシ」・「サバ」・「サンマ」・「カツオ」・「マグロ」などが中心で、主に「首都圏」へ出荷される他、地元で「缶詰」や「干物」などの「水産加工物」に加工されます。

 「銚子港」の「歴史」は、1654年(承応3年)に「利根川」が「東」へ流れを変えられてから始まります。
 「東廻り海運」として「東北地方」から出港した「お蔵米船」や物資が「銚子」へ入港した後、「高瀬船」に積み替えて、「利根川」と「江戸川」を使い「江戸」へ運ぶ輸送方法の確立により、「銚子湊」は「江戸」と「東北地方」をつなぐ「ターミナル都市(港)」として位置付けられるようになったそうです。

 明治時代に入り、「東廻り海運」が衰退すると「銚子の湊(みなと)」は「商港」から「漁港」へと転換していきました。

 しかし「銚子漁港」は、嘗(かつ)て「日本」の「三大海難所」のひとつに数えられていました。

 「利根川」の河口付近に「千人塚」(銚子市川口町)というところがありますが、1616年(慶長19年)10月25日「銚子沖」に吹いた「突風」によって亡くなった千人以上の「漁民」を葬った場所といわれています。

 昔の「利根川」河口付近は「川幅」が狭く、「川底」には大きな「岩」があり、その上「水深」が浅く、「干潮時」と「満潮時」の「潮の流れ」は急で、一年中「風」が強く吹き「波」が荒い場所であったそうです。

 1910年(明治43年)3月12日にも、「漁船」80隻、「漁民」千人以上が遭難しました。
 当時の「船頭歌」でも「阿波の鳴門か 銚子の川口、伊良湖渡合が恐ろしや」 などと諷されていました。

 何度も「遭難」が繰り返される中、「銚子の町民」や「漁民」らの間から「河口」を広げ「水深」を深くし、「安心・安全な漁港」を造って欲しいという「要望」が上がったそうです。

 しかし「銚子漁港」は、大正時代になっても「港」の形態は昔のままで、わずかに「防波用の施設」や「桟橋(さんばし)」がある程度でした。

 「銚子港」を本格的、また近代的に改造する工事が始まったのが、1925年(大正14年)開始の「千葉県営事業」として行われた「銚子漁港修築工事」いわゆる「銚子築港(ちょうしちっこう)」です。

 当初の計画では、現在の「銚子港」に近い「外港(がいこう)」と「運河」を持つ「港」にするもので、「銚子漁港」の規模は、「外港・中港・内港」を有する「壮大な構想」であったそうです。

 「構想」では、「外港」はいずれも1000m前後の「防波堤」を「外洋」に突き出して「港域」を形成し、その内部にさらに「防波堤」を出して「内港」を形成するようになっており、「中港」と「内港」は「陸地」を掘削した「人工の航路」つまり「運河」で結ぶようになっています。

 そして「内港」は「第一漁船渠(ぎょせんきょ)」(「第二市場」・銚子市川口町)と「第二漁船渠」(「第一市場」・銚子市新生町)に分けられるというものでありました。

 ですが「港湾工事」の「技術・工法・機材等」が格段に進歩した時代と違って、人力がまだ相当の比重を占めていたこの時代に、これだけの工事を構想したことは、壮大でありすぎたようです。

 このような「銚子漁港」の工事にたどり着くまでには、「濱口吉兵衛」(1月23日のブログ参照)や「今井武彦」、「小野田周斎」の尽力が多大であったようです。

 しかし、「技術的な問題」や「工事費の問題」が発生。
 特に「工事費」については、「国」と「銚子港」を利用すると思われる「関係府県」(東京府・神奈川県・静岡県・愛知県・三重県・宮城県・福島県・茨城県・千葉県)で負担する方向で進んでいましたが、関係府県のうち半分が拒否した為、結果的には半額の「国庫補助」を受けて「千葉県」単独で建設することになりました。

 ところが今度は、「利根川」河口に「堤防」の「建設」や「埋め立て」を行うことは「治水」上、重大な影響があるとして、「国」から「工事認可」が下りないという問題が出て、計画は頓挫寸前までなってしまったそうです。

 ここで危機感を持った「銚子」は「地元選出議員」の「濱口吉兵衛」や「香取郡」選出の「今井健彦」を動かし、「関係各省庁」へ働きかけたそうです。

 その結果、1925年(大正14年)8月、ようやく「国」から工事認可が下り、同年11月21日に「起工式」が行われました。
 ただ「認可申請」した「設計」通りでは無く、「第二漁船渠」(第一市場)の「護岸・埋め立て・浚渫(しゅんせつ)」だけであったそうです。

 しかし「銚子漁港」はその後、「第三次」(昭和38年〜44年)、「第四次」(昭和45年〜47年)、「第五次」(昭和48年〜51年)、「第六次」(昭和52年〜56年)、「第七次」(昭和57年〜62年)、「第八次」(昭和63年〜平成5年)、「第九次整備計画」(平成6年〜13年度)の実施により、念願であった「運河」の建設や「外港」の建設、「堤防」や「港湾道路」及び「港湾施設」の設置、「黒生地区」の埋め立て、「漁港」内の「浚渫」などが行われたことで今の「日本」を代表する「漁港」になりました。

 現在は、「広域漁港整備計画」(平成14年〜23年度)の実施により、「大消費地」である「首都圏」を控えた「水揚げ拠点港」として「水産物」を安定供給する「総合漁業基地」の確立を目指して、更なる「整備」が進められています。

 尚「銚子漁港」は、1951年(昭和26年)7月10日に、「漁港」の「利用範囲」が全国的なものを表す「第三種漁港」に指定され、次いで1960年(昭和35年)3月21日に、「第三種漁港」の中で、「水産業」の「振興」上、特に重要な「漁港」を現す「特定第三種漁港」に指定されたそうです。

 備考
 「銚子漁港」には1944年10月1日に「日本国有鉄道」(国鉄)「総武本線」の「貨物駅」であった「新生駅」からの「引き込み線」が開通しました。
 引き込まれた「専用線」は、「銚子漁港」で水揚げされた「魚介類」を「東京都民」に提供するために、戦時中に建設されたものだそうです。
 後に「専用線」は「トラック輸送」への転換が進み、廃止となり、現在「中央市場前」まで延びていた「構内」の「線路の跡地」は「駐車場」として利用されています。













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| 地域情報::銚子 | 10:19 AM |
「濱口吉兵衛」(銚子市)
 本日ご紹介するのは、地元「銚子市」の「偉人」「濱口吉兵衛」です。

 「濱口吉兵衛」は、「ヒゲタ」を「ヤマサ印」、「亀甲萬印」と共に「醤油界」における「ブランド」としての地位を確立、明治後期「中央財界」で活躍し、「矢野恒太」とともに「第一生命」を興した「人物」として知られています。
 「銚子醤油」(現「ヒゲタ醤油」)・「千葉県水産社長」、「濱口理事」、「武総銀行取締役」、「第一相互貯蓄銀行」・「東京護謨工業」・「第一生命」・「豊国銀行」・「利根織物監査役」等歴任されました。

 「濱口吉兵衛」は、1868年(慶応4年)7月「紀州広村」(現在の「和歌山県有田郡広川町」)に生まれます。
 8代目「濱口吉右衛門」(熊岳(ゆうがく))の「第四子」で「名」は「茂之助」。
 「東京帝国大学」卒業。
 卒業後、兄の「9代目濱口吉右衛門」が、「政界・経済界」で活躍して多忙であった為、しばらくの間、兄を助けて「家業」に携わりました。

 1892年(明治25年)、「濱口儀兵衛」(悟洞)と一緒に「海外視察」したが、その際に「儀兵衛」から「醤油醸造」について様々なことの「教え」を受けることが出来たそうです。

 1901年(明治34年)「武総銀行」を設立して「取締役」となり、翌年から3年間は「第一生命保険相互会社」の「監査役」も務めました。

 1904年(明治37年)に、兄の「濱口吉右衛門」家から分家し、初代「濱口吉兵衛」を名乗りました。

 1906年(明治39年)、「田中玄蕃」の「出蔵(でぐら)」が売りに出た時、「儀兵衛」の勧めで買い取ったそうです。
 この時、「儀兵衛」が以前に廃業した「醸造元」から譲り受けていた「ジガミサ」という「商標」を譲渡されました。

 1907年(明治40年)、「豊国銀行」設立に参加して「監査役」になる他、「東京護謨工業」や「第一相互貯蓄銀行」の「監査役」などを歴任しました。

 1913年(大正2年)、「銚子遊覧鉄道株式会社」(「銚子電気鉄道」の前身)及び「銚子ガス株式会社」の「社長」に就任。

 1914年(大正3年)に「家業」を、「田中玄蕃」や「深井吉兵衛」とともに「銚子醤油合資会社」(「ヒゲタ醤油」の前身)として発展させました。
 そして、4年後に「株式会社化」した時に「初代社長」となりました。

 1920年(大正9年)から「衆議院議員」(二期8年)となった後は、「銚子港」の修築を関係各方面に訴え続けたことで、「国庫補助」による「県営工事」が実現しました。

 「濱口吉兵衛」が「初代社長」を務めた「銚子遊覧鉄道(ちょうしゆうらんてつどう)」は、「観光開発」を目論んで建設され、「銚子駅」から「犬吠埼」を結んでいました。

 「銚子遊覧鉄道」の「沿革」ですが、1891年6月1日に開通した「総武鉄道」の開通と、「漁業」・「醤油醸造業」・「石材業」の繁栄に支えられた「銚子」界隈では、その貨物運搬と「犬吠埼」への「観光客」に応える「交通基盤」の「整備」が求められていましたことに始まりました。

 「総武鉄道」が「延長計画」を1900年5月10日に「外川」までの「延長建設」を認可されましたが、1904年5月12日に「免許」を返納。
 1909年には、当時「木更津」・「野田」等に進められていた「県営軽便鉄道」の流れを受けて、「銚子人車鉄道」が再び「県営鉄道」としての実現を試みましたが「千葉県」の「資金的援助」を得るに至らず断念となってしまいました。

 再び1912年に施行された「軽便鉄道補助法」に着目した当時「富士瓦斯紡績株式会社」の「社長」であった「浜口吉右衛門」や「ヒゲタ醤油」の創業者「田中玄蕃」等が「株主」となって1913年1月15日、「蒸気鉄道」としての「運営」を目指した「資本金」15万円の「銚子遊覧鉄道株式会社」を設立、同年12月に念願であった「銚子」から「犬吠」間が開通しました。

 「銚子遊覧鉄道」は「蒸気鉄道」として開業しましたが、「経営不振」で「第一世界大戦」のおり、「鉄」が高騰したため「レール」や「機関車」を売却してしまい「廃止」となってしまったそうです。

 また「濱口吉兵衛」は、「銚子漁港」改修にも力を注ぎました。

 その昔、「銚子漁港」周辺は「日本三大海難所」のひとつとして数えられ、当時の「船頭歌」にも「阿波の鳴門か 銚子の川口、伊良湖渡合が恐ろしや」などと諷されていました。

 特に「利根川」の「河口」付近にある「千人塚」には、1616年(慶長19年)10月25日に「銚子沖」に吹いた「突風」により亡くなった千人以上の「漁民」を葬ったといわれ、また1919年(明治43年)3月12日にも、「漁船」80隻、「漁民」千人以上が遭難したそうです。

 昔の「利根川」「河口」付近は「川幅」が狭く、「川底」には「大きな岩」があり、その上「水深」が浅く、「干潮時」と「満潮時」の「潮の流れ」が急で、一年中「風」が強く吹き「波」が荒い「場所」でありました。

 何度も「遭難」が繰り返される中、「銚子の町民」や「漁民」らの間から「河口」を広げ「水深」を深くし、「安心・安全」な「漁港」を造ってほしいという「要望」が上がり、「銚子醤油株式会社」(現「ヒゲタ醤油」)「社長」の「濱口吉兵衛」を「千葉県水産株式会社」「取締役社長」に抜擢し、「安全な港」に修築できるように、「県」や「国」に訴えて貰うことにしたそうです。

 以後、「県」や「国」が調査し、「川底」の「爆破」をし「水深」を深くする事を試みるものの、返って「流れ」が急になり、やもなく中止、別の案では、「救助砲」(「救助ロープ」を打ち出す「砲台」)を設置するものの、いざ使用してみると、「船」まで届かず全く意味を成さなかったそうです。

 以後、「濱口吉兵衛」は悩み、「漁民」を危険な「状況」から救うため、また「国」へこの実情を訴えるために「国会議員」になる「決意」をしたそうです。

 その後、「国会議員」となった「濱口吉兵衛」は、「千葉県議会議員」であった「小野田周斎」と共に「銚子漁港」改修に全力を注ぎ、「銚子港修築案」がついに「国会」を通過、「国」から援助を得ることが決まったそうです。

 1925年(大正14年)12月「修築工事」が始められ、1932年(昭和7年)11月に竣工しました。

 1937年(昭和12年)「濱口吉兵衛」の「功績」を讃え、「新生河岸公園」に「銅像」が建立されましたが、1943年(昭和18年)、戦時供出されました。
 その後、1955年(昭和30年)「濱口吉兵衛」の「銅像」は再建されました。

 「濱口吉兵衛」の「銅像」は、今も「銚子漁港」の方を向き、「銚子市」の発展を見守っています。

 備考
 「濱口吉兵衛」の兄「濱口吉右衛門(9代)」(容所)は、「慶應義塾」を出て、「醤油醸造販売業」、「植林事業」を営んでおりました。
 のちに「衆議院議員」となり「財政整理国本培養論」を建策して重視されました。
 「濱口吉右衛門」は「鐘淵紡績」重役、「富士瓦斯紡績」・「九州水力電気」・「高砂製糖」社長、「豊国銀行」頭取、「朝鮮銀行」幹事、「濱口」代表社員、「猪苗代水力電気」取締役等を歴任しています。











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| 地域情報::銚子 | 09:56 AM |
「湾岸幕張パーキングエリア」(銚子までのお楽しみ)
 本日ご紹介するのは、「東京」また「千葉県東葛地区」方面から当地「犬吠埼」までの道中、高速道路「東関東自動車道」上り下りの「千葉市美浜区」にあるPA「湾岸幕張パーキングエリア」です。

 「湾岸幕張パーキングエリア」は、「東関東自動車道」「習志野本線料金所」の「宮野木本線料金所」にあります。
 「下り線」のPAを利用する際には、「本線料金所」で「左端」ないし「左から2番目」の「ゲート」を通らないと「進入」は難しいです。
 「上り線」はPA「出口」にも「料金所」が設置されており、「本線」渋滞時にはPA内の「料金所」に向かおうとする「車」が続出するので注意を要します。
 「上り線」のPAからは「京葉線」の「京葉車両センター」が一望できるそうです。

 「湾岸幕張パーキングエリア」の供用開始日は1982年4月27日で、「東関東自動車道」「習志野TB」から0.3km、「湾岸千葉IC」から2.9kmの位置にあります。

 「湾岸幕張パーキングエリア」「上り線」(市川方面)の「施設概要」ですが、「駐車場」「大型」43台、「小型」64台、「車椅子用」1台、「トイレ」「男性」大10・小18、「女性」28、「車椅子用」1となっています。
 「施設内容」ですが、「スナックコーナー」(5時00分〜23時00分)、「ショッビングコーナー」(5時00分〜23時00分)、「自動販売機コーナー」、「ハイウェイ情報ターミナル」となっています。

 「下り線」(潮来方面)の「施設概要」ですが、「駐車場」「大型」47台、「小型」72台、「車椅子用」1台があります。
 「トイレ」は「男性」大10・小18、「女性」28、「車椅子用」1となっています。
 「施設内容」ですが、「スナックコーナー」(5時00分〜23時00分)、「ショッビングコーナー」(5時00分〜23時00分)、「テイクアウトコーナー」(10時00分〜20時00分)、「STARBUCKS COFFEE(スターバックスコーヒー)」(7時00分〜22時00分)、「宝くじ・toto売り場」(8時00分〜17時00分)、「自動販売機コーナー」、「ハイウェイ情報ターミナル」となっています。

 「湾岸幕張パーキングエリア」の「上り線」の次のPAは、「湾岸市川・銀座・横浜方面」「市川PA」(首都高速道路 湾岸線)で、「下り線」の次のPA・SAは「千葉北・成田空港・潮来方面」は「酒々井PA」(2011年12月25日のブログ参照)、「東金・山武成東・横芝光方面」は「野呂PA」(東金有料道路)、「市原・君津・富浦方面」は「市原SA」(館山自動車道)となっています。

 「湾岸幕張パーキングエリア」の「おすすめ」ですが、「上り線」は、「ぴーなっつ最中」だそうです。
 「ぴーなっつ最中」は「成田山表参道」に「暖簾(のれん)」をかまえる「老舗和菓子屋」「なごみの米屋」(2011年1月25日のブログ参照)の人気「お菓子」です。
 「ぴーなっつ最中」の「パッケージ」に描かれている「ぴーちゃん」の中に時々「クローバー」を握りしめた「ハッピーぴーちゃん」が隠れているそうです。
 「下り線」の「おすすめ」は、「mamourS」(株式会社アイアールエフ)で、手軽でスタイリッシュな「東京土産」「資生堂パーラー」プロデュースです。
 女性のお客様中心に大人気な「逸品」なのだそうです。

 新春の「犬吠路」の際のお立ち寄りスポット「湾岸幕張パーキングエリア」。
 お出かけの際に立ち寄ってみてはいかがでしょうか?

 備考
 「湾岸幕張パーキングエリア」の「下り線」の「STARBUCKS COFFEE(スターバックスコーヒー)」には、「テラス席」もあります。













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| 地域情報::銚子 | 09:53 AM |
「絹本著色 両頭愛染明王像」(鹿嶋市)
 本日ご案内するのは、近隣市「鹿嶋市」「長栖地区」にある「龍蔵院」の仏画「掛け軸」「絹本著色 両頭愛染明王像」です。

 「龍蔵院」は、山号が「応城山(おうぎさん)」で「真言宗豊山派」の「寺院」です。
 「龍蔵院」の「敷地」の「字名」は、「城ノ内」で、「下堀合」、「中堀合」、「東堀合」という「字」が隣接し、付近には「屋敷」や「折口」など、「城郭」を彷彿する「字名」が残っています。

 「龍蔵院」「掛け軸」「絹本著色 両頭愛染明王像」は、室町時代(14世紀末〜15世紀初頭)に描かれたものとされ、79×47cmの「全身真紅」の「愛染明王」が斜めに向いた「姿」で、「不動明王」と合体した「形」で描かれているそうです。

 「愛染明王」は、「煩悩(ぼんのう)」のひとつである「愛欲」をしずめ、「悟り」を求める「心」に変える「仏」。
 三つの「目」と6本の「手」を持ち、「煩悩」を振り払う「武具」などを握っています。
 「愛染明王図」は正面の構図のものが多く、斜めの構図で描かれたものは珍しいそうです。

 「愛染明王」は「戦勝」や「息災」のほか、その名の通り「恋愛成就」、「縁結び」などの「御利益」があるとされています。
 「鹿嶋市教育委員会」の調べでは、「龍蔵院」「掛け軸」は「長栖地区」の住民から「信仰の対象」としてあがめられてきたそうです。

 「龍蔵院」のある「鹿嶋市」「長栖地区」では、「東日本大震災」時に「鹿島港」から「内陸部」を襲った「津波」が約120cmの高さまで及び、「長栖地区」の「龍蔵院」の「仏画」、「過去帳」、20世紀後半の「記録資料」が「津波被害」を受けたそうです。

 「龍蔵院」には「鹿嶋市」の「市指定文化財」が6点所蔵されていたため、「鹿嶋市」は「専門機関」に「海水」を浴びた「文化財」の「応急処置」を依頼した際、「杉の木箱」に納められていた「掛け軸」を発見したそうです。

 2011年11月26日に、「津波被害」を受けた「仏画」「掛け軸」の「修復計画」を検討するため、「文化庁」、「東京文化財研究所」、「文化財保存修復学会」の方々が「龍蔵院」に来訪。

 「仏画」の「調査」では、これまで「カビ防止」のため「脱酸処理」を実施してきたものを精査し、「修復の方針」を検討。
 「津波」のためたいへん濡れてしまった「過去帳」は、「茨城大学」で「吸湿処理」をした結果、良好な状態となり、「画像データ」と併せて返還されたそうです。

 以上の活動により「鹿嶋市」の「資料レスキュー活動」はひとつの区切りを迎えたそうです。

 「津波被害」をうけ、復元された「龍蔵院」仏画「絹本著色 両頭愛染明王像」の「掛け軸」は、2012年1月1日付で「鹿嶋市」の「市指定文化財」に登録されたそうです。

 「鹿嶋市教育委員会」は「震災被害に遭った文化財保護活動の中で見つかった貴重な資料。
 修復して後世に伝えていきたい」とコメントしています。

 「津波被害」から「発見」された「貴重な文化財」「絹本著色 両頭愛染明王像」。
 「鹿嶋市」では、今後も「貴重な文化財」の「発掘」や「保存」に努めていくそうです。

 備考
 「鹿嶋市」の「市指定文化財」ですが、「絹本著色 両頭愛染明王像」の登録により、今回の指定で81件目の「市指定文化財」となったそうです。

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| 地域情報::鹿島 | 11:17 AM |
「浜の七福神めぐり」(九十九里町)
 本日ご案内するのは、近隣市「九十九里町」「横芝光町」「山武市」「白子町」「大網白里町」「一宮町」「長生村」の「浜の七福神めぐり」です。

 「九十九里」沿岸の「横芝光町」から「一宮町」にかけて「浜の七福神」と呼ばれる「神様」がいらっしゃいます。
 「浜の七福神めぐり」は、室町時代の末期に始まり当時の庶民性に合致して「民間信仰」の最も完全な形となって育てられました。

 「七福神」のうち「大黒天」、「毘沙門天」、「弁財天」、「布袋尊」は「仏教」で、「寿老人」、「福禄寿」は「中国」の「道教」、「神仙観」、「恵比寿神」は「日本神道」の出身とされています。

 「仏教」を中心として「中国宗教」と混合して出現したのが「七福神」と称されており、「信仰七種」の「徳」を支配する「神」として盛んになり、「中国」より伝来した「思想」と、古来より「日本」で信じられていた「俗信」が、「仏教思想」を「基」に入り混じって生じた「信仰」であると伝えられています。

 「七福神」の「語源」は「仁王教」の中にある「七難即滅七福即生」から称されていたものといわれ、「七福神」をお参りすると「七つの災難」が除かれ「七つの幸福」が授かるといわれております。

 「恵比寿神」は、「九十九里町」の「八坂神社」に祀られています。
 「八坂神社」の創立や年代などは不詳ですが、元来「漁師の町」であることから「信仰」が特に厚い「神社」です。
 「八坂神社」の「御祭神」は「須佐之男命」で、「八坂神社」敷地168坪の「境内」には「本殿」(板葺)、「雨屋」(瓦葺流破風造)、「拝殿」(瓦葺)が建ち並びます。
 1904年に台風で旧「社殿」が倒壊し、同年に再建されています。
 毎年2月7日の「祭礼日」には、「神輿」の「渡御」のほか、「千葉県無形民族文化財」に指定されている「獅子舞」が奉納されています。
 この「獅子舞」は珍しい「女形」の「獅子舞」で、若い世代に受け継がれている。

 「大黒天」は、「山武市」の「五所神社」に祀られています。
 「五所神社」は、承安元年(1171年)の創建といわれ、現在の「本殿」は「桃山風」の「五間社造り」で、「千葉県重要文化財」に指定されています。
 「遠山出雲亮」の寄進による鎌倉時代の「懸沸」を初め、「源頼朝」公、「水戸光國」公、「堀田相模守」等、「領主地頭」の「崇敬」も厚く、数々の寄進があったことが「古文書」により明らかです。
 また「五所神社」は「上総國山辺」の「総社」と称されていたそうです。

 「布袋尊」は、「横芝光町」の「四社神社」に祀られています。
 「四社神社」は、元禄元年(1688年)の造営といわれ、「境内」には「子易神社」、「三峯社」、「浅間社」が合祀されています。
 古来より正月18日の「祭礼」に「里神楽」が奉納され、当時に「湯立て神事」が執り行われるそうです。
 俗に「潮祭り」と呼ばれるこの「神事」は、「大釜」に沖合いから運んだ海水を沸かし「郷内安全」と「豊漁」を祈願するものなのだそうです。

 「毘沙門天」は、「白子町」の「真光寺」に祀られています。
 「真光寺」は、宝永7年(1710年)の開基と伝えられ、「本堂」は平成12年に新築されました。
 「墓地」南方に、幕末「九十九里叛乱」を起こした「眞忠組」の「矢野重五郎」の「墓」があります。
 (白子町指定文化財)
 文久4年、「寺」の位置する「剃金中の台」で討伐され、最後まで抵抗した「矢野重五郎」は、ここで討死し、「真光寺」に葬られたそうです。

 「寿老人」は、「大網白里町」の「要行寺」に祀られています。
 「要行寺」は、徳治元年(1306年)また一説には正和4年(1315年)の開山と伝えられています。
 慶安3年(1650年)現在の地に移りましたが、安政3年(1774年)火災で焼失し、再建されています。
 また江戸時代には、「幕府」から十万石諸候の格式が与えられていたようです。
 「要行寺」「参道」の「朱色」の「山門」が印象的で、「本堂」の前には「梵鐘」と「観音像」があります。

 「福禄寿」は、「一宮町」の「観明寺」に祀られています。
 「観明寺」は、天平6年(734年)の開基と伝えられた「玉前神社」の「別当寺」であったそうです。
 現在の「本堂」は昭和43年の落成で、「堂内」には旧「本堂」の「欄間」が収められており、それには「房州」の「井上円徹」作といわれる「地獄極楽図」が彫刻されています。
 「写実的」に描写されたその「彫刻」は、訪れた「人」の「洗心の糧」として貴重なものとなっているそうです。

 「弁財天」は、「長生村」の「清泰寺」に祀られています。
 「清泰寺」ですが、田園風景の中にあり、赤い屋根が目を引く「本堂」は、天宝14年(1843年)に再建されたもので、弘治3年(1557年)の創立といわれています。
 「境内」「墓地」には文化年中の「漢学者」「松連斎」とその弟子である「東遊」の「碑」があることから、当時「寺子屋」として「村民」の教育に携わっていたことがうかがえます。

 「浜の七福神めぐり」の「御朱印紙」(スタンプ帳)は一枚500円と800円のタイプがあり、「御朱印代」は「皆様」のお気持ちで納めて下さいとのことです。

 「室町時代末期」より始まった「七福神」の「信仰」が今も残る「浜の七福神めぐり」にお出かけしてみてはいかがでしょうか?

 「浜の七福神めぐり」詳細

 所在地

 「八坂神社」

 所在地  山武郡九十九里町片貝3885

 問合わせ 0475-52-3059

 「五所神社」

 所在地  山武市蓮沼イ1904

 問合わせ 五所神社 0475-86-2324

 「四社神社」

 所在地  山武郡横芝光町屋形921

 問合わせ 横芝光町社会文化課 0479-84-1358

 「真光寺」

 所在地  長生郡白子町191

 問合わせ 白子町商工観光課 0475-33-2117

 「要行寺」

 所在地  山武郡大網白里町四天木甲1342

 問合わせ 要行寺 0475-77-2836

 「観明寺」

 所在地  長生郡一宮町一宮3316

 問合わせ 観明寺 0475-42-2342

 「清泰寺」

 所在地  長生郡長生村宮成373-1

 問合わせ 清泰寺 0475-32-0402

 問合わせ 九十九里町産業振興課 0475-70-3176

 備考
 「浜の七福神めぐり」の「恵比寿神」が祀られている「八坂神社」のある「九十九里町」は、「香取の偉人・伊能忠敬」(2011年3月5日のブログ参照)が生誕した地として知られています。

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| 地域情報::九十九里 | 08:08 AM |

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