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「十二座神楽」「木内大神」(香取市)
 本日二つ目にご案内するのは、となりまち「香取市」「木内大神」で明明後日(しあさって)の3月3日(土)に開催されます「十二座神楽」です。

 「木内大神」は、「香取市木内地区」にある「神社」です。
 「木内大神」は、大同年間の創建で、「豊受姫命(とようけびめのみこと)」を「伊勢神宮」「外宮」から勧請しました。
 古くは「大納言」「四条隆房」がこの地を「領地」とした時に保護し、「木内胤朝」(「東胤頼」の子)が「社殿」を造営、「神領」を納め一族の「祈願所」としました。
 「千葉氏」や「北条氏」の「崇敬」が厚く「伏見天皇」の「直筆書」が献ぜられています。

 天正7年(1589年)「粟飯原氏」が「社領」を、天正9年(1591年)「徳川家康」が「朱印地」の一部を寄付、慶長7年(1602年)「土井利勝」が「馬具一式」を納めています。
 寛永16年(1639年)にこの地を領した「内田氏」も崇敬し、元文元年(1736年)「関宿城主」「久世大和守」も「祈願所」と定めていました。
 「木内大神」は、天明7年(1787年)に「正殿」を改造、大正9年(1920年)に「本社」、「拝殿」、「社務所」を改造しています。

 「木内大神」「十二座神楽」の起源は明確ではありませんが、江戸後期の文化年間(1804〜1818年)に執行されたこと、文政12年(1829年)に「神楽面」11面(個)を修理を加えること等記録にあり、それ以前から行われていたと伝えられています。
 明治以前は、最寄りの「神職」が相会して奉仕し、明治初期頃から「氏子の青年」により行われるようになったそうです。
 現在は、「地元の有志」で組織する「木内神楽保存会」によって「十二座神楽」が継承され、「氏子の安泰」と「五穀豊穣」・「商売繁盛」を祈願し、3月3日の「祭礼」に奉納されています。
 「木内大神」「十二座神楽」は、「神楽」の「古格」をよく保存するとともに、独特の「郷土色」が加わった「神楽」なのだそうです。

 「木内大神」「十二座神楽」の伝わる「木内地区」は、「正倉院」に伝わる天平20年(748年)の文書に「下総国海上郡城内(木内)郷」と記述され、奈良時代から今日まで残されている「地名」です。
 「木内地区」の中心部に、「豊受姫命」を「御祭神」とする「木内大神」が鎮座し、「例祭」は毎年3月3日に執り行われています。
 その際に奉納されてきたのが、「十二座神楽」(「木内神楽」)です。

 「木内大神」「十二座神楽」当日は、「神社」でお祓(はら)いした後、正午過ぎから「神楽殿」で行われます。
 「猿田彦命」(天狗の舞)から始まり、「三宝荒神」(かまど神)・「天鈿女命」・「天児屋根太王命」・「天乙女命」・「手刀男命」(岩戸開)・「榊葉」・「受持命」・「八幡」・「恵比寿」(鯛釣り)・「稲荷大明神」(種子蒔)・「素戔鳴命」(〆切り)の「順」に「12演目」を演じ、最後の「演目」が終わるのが17時頃になるそうです。

 「古事記」や「日本書紀」の「神話」を題材に、舞踏化した「岩戸神楽」・「神代神楽」の系譜にあるといわれ、「舞」の構成は、「仮面神」による「一人舞」を基本とし、さまざまな「持ち物」を使い、「お囃子」は「横笛」と「太鼓」などが用いられています。

 古来より続く「木内大神」「十二座神楽」。
 歴史ある「伝統芸能」を見に「香取市木内地区」に訪れてみませんか?

 「十二座神楽」「木内大神」詳細

 開催日時 3月3日(土) 12時〜17時

 開催会場 木内大神 香取市木内1166

 問合わせ 香取市生涯学習課 0478-50-1224

 備考
 「農村」の「信仰」とも融合した「地域的特色」をもつ「十二座神楽」は、「愛宕神社」(府馬・2月下旬)、「稲葉山神社」(長岡・2月下旬)、「八重垣神社」(新里・3月20日)、「山倉大神」(のブログ参照)(山倉・4月上旬)、「境宮神社」(一ノ分目・3月下旬・4月3日)、「須賀神社」の「祭礼」(4月3日)でも奉納されているそうです。
 また「香取市」では、「十二座神楽」を「市」の「無形民族文化財」に指定しています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=970 |
| 地域情報::香取 | 10:05 AM |
「浅間山古墳(せんげんやまこふん)」(栄町)
 本日ご紹介するのは、近隣市「栄町」の「浅間山古墳(せんげんやまこふん)」です。

 「浅間山古墳」は「印旛郡栄町」にある「竜角寺古墳群」(2月25日のブログ参照)に属します。
 「浅間山古墳」は、7世紀前半に築造されたと考えられる「前方後円墳」です。

 「浅間山古墳」が属する「龍角寺古墳群」は、「古墳時代」後期の6世紀第二四半期に「古墳」の造営が始まりました。
 「古墳群」は現在までに114基の「古墳」の存在が確認されていますが、「浅間山古墳」は「古墳群」内最大の「前方後円墳」で「墳丘長」は78mとされています。

 「浅間山古墳」には「復室構造」の「横穴式石室」があり、「石室」は「筑波山」付近から運ばれた「片岩」の「板石」を用いて築造されており、「石室」内からは「金銅製冠飾」、「銀製冠」、「金銅製の馬具」や「挂甲」などが出土しています。

 「墳丘」からは「埴輪」は検出されておらず、「前方後円墳」最末期の「古墳」であることは間違いないとされるが、「石室」の構造や「出土品」から「浅間山古墳」の「造営」を7世紀第二四半期という新しい時期を想定する「研究者」もあり、一般的には6世紀末から7世紀初頭と考えられている「前方後円墳」の「終焉時期」との関係で論議を呼んでいる「古墳」なのだそうです。

 「龍角寺古墳群」を造営した「首長」は「印波国造」と考えられており、「浅間山古墳」の造営以前は、同じ「印旛沼」北東部にある「公津原古墳群」を造営した「首長」の勢力が「龍角寺古墳群」を造営した「首長」を上回っていたと考えられていますが、6世紀末以降、勢力を強めた「龍角寺古墳群」を造営した「首長」は、周辺地域で最も大きい「前方後円墳」の「浅間山古墳」を造営し、その後、日本最大級の「方墳」である「岩屋古墳」(2月27日のブログ参照)を造営し、更には7世紀後半には「龍角寺」を創建したと考えられています。

 「浅間山古墳」を含む「龍角寺古墳群」は、「古墳時代」後期から「龍角寺」の創建に代表される「飛鳥時代」にかけての「地方首長」のあり方を知ることができる重要な「遺跡」と評価されています。
 「古墳群」のうち、「岩屋古墳」は1941年に単独で「国の史跡」に指定されていましたが、2009年2月12日付けで、「浅間山古墳」を含む周辺の「古墳群」が追加指定され、「指定史跡名称」は、「龍角寺古墳群・岩屋古墳」と改められました。
 また、「浅間山古墳」の「出土品」は2009年3月4日、「千葉県」の「有形文化財」に指定されています。

 「龍角寺」が造営されたのとほぼ同時期に、「香取神宮」(2010年11月5日・6日のブログ参照)と「鹿島神宮」(2010年11月8日・9日・10日のブログ参照)の「社殿」が造営されたとの見方もあり、これもやはり「香取海」を通して「常陸」、そして「東北方面」へ向かうルートを「ヤマト王権」が重要視していたことの表れと見られています。
 「龍角寺古墳群」を作った「印波国造」と考えられる「首長」は、「ヤマト王権」が重要視する「交通路」を押さえることにより「王権」との結びつきを強め、「浅間山古墳」に示されるようにその力を強めたとされています。

 また「龍角寺古墳群」の近くには「植生郡衙」跡とされる「大畑遺跡群」があります。
 これは6世紀の「古墳時代」後期以降、「龍角寺古墳群」を造った「首長」は、7世紀後半の「龍角寺」建立、そして「律令制」が成立した後も「郡司」となってその勢力を保ったことを示唆(しさ)しており、「龍角寺古墳群」の画期である「浅間山古墳」の持つ意味は大きいといえます。

 往時をしのぶ「古墳群」の中、異彩をはなつ「浅間山古墳」。
 古代の歴史散策のできる「印旛郡栄町」にお出かけしませんか?

 備考
 「浅間山古墳」の「石室」と「石棺」に使用された「片岩」は、「筑波山」周辺からもたらされています。
 これは「金鈴塚古墳」の「石棺」が「埼玉県」の「長瀞」付近から運ばれた「石材」を用い、一方、「埼玉古墳群」の「将軍山古墳」では、「石室」に「千葉県富津市」の「海岸」から運ばれた「石」を用いているのと同様の現象であり、「浅間山古墳」の「披葬者」も「関東地方」の「他地域」の「首長」との連携を深めていたことがわかります。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=969 |
| 地域情報::成田 | 10:04 AM |
「道の駅オライはすぬま」「オープン7周年記念創業記念感謝祭」(山武市)
 本日二つ目にご紹介するのは、近隣市「山武市」の「道の駅オライはすぬま」で今週末の3月3日(土)・4日(日)の2日間「オープン7周年記念創業感謝祭」です。

 「蓮沼海浜公園」(2011年7月23日のブログ参照)からも程近い人気の「道の駅」「オライはすぬま」(2010年8月23日のブログ参照)。
 「道の駅オライはすぬま」が7周年を記念して今年も「感謝祭」を開催するそうです。

 「道の駅オライはすぬま」は、「山武市」(旧「山武郡蓮沼村」)の「主要地方道」「千葉県道58号」「松尾蓮沼線」上にある「道の駅」です。
 また「成田空港」と「九十九里海岸」を結ぶ「はにわ道路」沿いに位置し、「九十九里の観光スポット」へ訪れたが多く立ち寄る「施設」です。
 ちなみに「オライはすぬま」の「オライ」とは「銚子」「九十九里地方」の「方言」で「私(おら)の家」という「意味」です。
 「道の駅オライはすぬま」は、2004年8月9日に「第20回」に「道の駅」登録、2005年3月6日に「開駅」しました。

 「道の駅オライはすぬま」の「施設概要」ですが、「駐車場」普通車73台、大型車4台、身体障害者用3台、「トイレ」、「情報コーナー」、「物産館」「喜太陽(きたいよう)」、「レストラン」「蓮味」となっています。

 今回開催される「オープン7周年記念創業感謝祭」では、「野菜の詰め放題」や「つきたて餅」の「無料サービス」に加え、3月3日(土)には、「和太鼓演奏」・「歌謡ショー」を行い、3月4日(日)には、「よさこいソーラン」・「歌謡ショー」などのイベントを開催し、会場を盛り上げるそうです。
 また両日(3月3日・4日)とも「テント販売」や「大抽選会」を行うそうです。

 「道の駅オライはすぬま」の人気の「物産館」「喜太陽」では、「旬」の「野菜」をはじめとする「地場産品」や「九十九里土産」が揃うほか、「レストラン」「蓮味」では名物「いわし丼」など人気のレパートリーを用意。
 また「道の駅オライはすぬま」では、毎週土日には定期的にイベントも開催されるなど、「九十九里」の「観光拠点」として「役割」を果たしています。

 「九十九里随一」の「観光拠点」「道の駅オライはすぬま」で行われる「7周年イベント」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「道の駅オライはすぬま」「オープン7周年記念創業感謝祭」詳細

 開催日時 3月3日(土)・4日(日) 9時〜18時

 開催会場 オライはすぬま 山武市蓮沼ハ4826

 問合わせ 道の駅オライはすぬま 0475-80-5020

 備考
 「道の駅オライはすぬま」は、原則第一月曜日を「休館日」としていたそうですが、4月より「休館日」を廃止し、原則無休の体制に移行するそうです。













| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=968 |
| 地域情報::九十九里 | 08:40 AM |
「木曽義昌(きそよしまさ)」と「東漸寺(とうぜんじ)」(旭市)
 本日ご紹介するのは、となりまち「旭市」ゆかりの人物「木曽義昌(きそよしまさ)」公と「東漸寺(とうぜんじ)」です。

 「木曽義昌」公は、天文9年(1540年)、「木曾福島城主」「木曾義康」の嫡子(長男)「宗太郎」として誕生し、「信濃国木曾谷」を領有していた「朝日将軍」として「勇名」を馳せた「木曽義仲」の子孫となる「戦国武将」です。

 「木曾氏」は、豊富な「美林」と「交通の要衝」を押さえていたものの、「山国」のため、「水田」と「領民」が少なく周辺「隣国」はいずれも「強国」で、「義昌」公の「生涯」は「隣国」との「駆け引き」と「戦い」に明け暮れたたいへんな日々だったといわれています。
 「木曽家」の「主(あるじ)」として、「武田信玄」・「武田勝頼」・「織田信長」・「徳川家康」、後に「太政大臣」となり、「豊臣」の「姓」を称する「豊臣秀吉」などの間で「勢力」をつけました。

 その後の天正18年(1590年)「豊臣秀吉」の「北条氏征服」のための「小田原城攻め」に、「息子」の「義利」を代理として参加させたことで「豊臣秀吉」から「疑惑の目」で見られることとなり、同年8月に「豊臣秀吉」に命じられ、「山国」である「信濃国木曾谷」から「潮騒の地」である「下総蘆戸城」(旭市網戸)へ「一万石」で移封されこの地方を治めることになりました。
 (この時「木曽義昌」公は、「木曾谷」の「領地」は失いました。)

 その5年後の文録4年(1595年)3月17日に、「病」のため56歳で「木曾の地」に帰ることなく波乱に富んだ「生涯」を「旭の地」で終えました。
 (その後、「木曾氏」はその子、「木曾義利」の時に廃絶されてしまったそうです。)
 「木曽義昌」公の「遺体」は、「城」の北西方の「椿湖」に水葬されたそうです。

 わずか5年の在世でしたが、「木曽義昌」公の「網戸」での「徳政」に満ちた「まちづくり」は、400年以上経た現在でも「旭市内」で語り継がれているそうです。
 そして「水葬」された「椿湖」は、後に干拓されてしまいましたが、「墓」のある一帯であるこの地は、「木曽義昌公史跡公園」となり「国道」の喧騒(けんそう)の中、「憩いの場」になっており、「木曽義昌公史跡公園」横には、「名所旧跡」として「木曽義昌」公の「石碑」、「銅像」も建立されています。

 「石碑」には、次のように記されています。

 (原文まま)
 木曽左馬頭兼伊豫守源義昌公は朝日将軍木曽義仲公19代の子孫にして奥方は武田信玄の息女万里姫なり、天正18年8月義昌公はその子義利と共に徳川氏の武将として遠く木曽福島から下総網戸城に移り来り1万石を領せらる。
 木曽氏の宿将山村甚兵衛、千村平右衛門、馬場半左衛門等の屋敷は城の屋敷は城の東南西南に配置され、城下を画して街づくりを行い、ために網戸村繁栄す。
 木曽義昌公は木曽家累代の菩提所として城の一隅に東漸寺を建立し木曽より随身の悦道和尚によって開基せらる。
 義昌公は戦国の武将なれども頗る奉佛祟祖の念篤く領民に善政に施せり領民その徳を偲び公を当地興隆の祖と仰ぎ参拝の絶ゆる事なし。
 文禄4年3月17日義昌公薨じ遺言に依り城の亜北の江中に葬り奉る。
 其砌は漫々たる椿湖の入江なりしが元禄年間椿湖開発され御水葬の辺りも干潟と成りし故御墓を改修し今に至る。
 とあります。

 「東漸寺」は、「旭市」にある「真言宗智山派」の「寺院」で「殿玉山西徳院」と号し、「御本尊」は「愛染明王」です。
 「東漸寺」は永禄2年(1593年)「下総国網戸」1万石の「領主」「木曽義昌」公の開基、「悦堂」の開山により創建された「寺」です。

 「東漸寺」は、「木曽義昌」公が天正18年(1590年)に「下総網戸城」に入場した後、城内の一部に「木曽家累代」の「菩提所」として建立された「寺」で、「木曽義昌」と夫人「万里姫」の「供養塔」があるそうです。
 「東漸寺」では、静かなたたずまいの中に、中世武将の悲劇を物語っているようです。

 また「桜」の好きな「木曽義昌」公のために「桜」が植えられ「桜」の「名所」として知られています。
 「木曽義昌」公の「墓」の前や周りには「桜並木」の「参道」ができていて、4月には、多くの「参拝者」や「花見客」で賑わいます。

 2月20日のブログ「旭の花」「椿(つばき)」の備考でも紹介しましたが、「旭市」の「市名」の「旭」という「名前」の「由来」は、「木曽義昌」公(「朝日将軍」・「木曽義仲」の19代子孫)からきているそうです。

 時代に翻弄されながらも、波乱の生涯を遂げた「木曽義昌」公。
 僅か5年の在世でありましたが、「桜木」を愛し、「城下町」をつくり、「新田開発」などに力を尽くした「旭」にゆかりのある「武将」「木曽義昌」公を偲ぶ「東漸寺」に訪れてみませんか?

 「東漸寺」詳細

 所在地  旭市イ2337

 問合わせ 東漸寺 0479-62-2564

 備考
 「下総網戸城」の「居城」跡に建つ「東漸寺」では、「木曽義昌」公の「命日」である3月17日に毎年供養を行っています。
 また「東漸寺」には、「旭市」の「指定文化財」として「懸仏」、「木曽義昌公史跡」が指定されています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=967 |
| 地域情報::旭 | 08:33 AM |
「木下駅南骨董市(きおろしえきみなみこっとういち)」(印西市)
 本日二つ目にご紹介するのは、近隣市「印西市」「木下(きおろし)南口商店街」で今週末の3月3日(土)に開催されます「木下駅南骨董市」です。

 「印西市」「木下地区」は、江戸期以降栄えた歴史ある「宿場町」です。
 「JR成田線」「木下駅」を中心に、徒歩10分圏内にありとあらゆる生活に必要なものが揃っています。
 また隣の「茨城県」までも約2kmと、自転車で行ける距離になっています。

 「木下」周辺は「利根川」をはじめ、「弁天川」、「六軒川」、「手賀川」など、「水」の豊富な環境にあります。
 「木下の街」を歩いていると、たくさんの「橋」を見ることができます。
 近年、川岸の「遊歩道」が整備され、ゆっくりと散歩もできるようになったそうです。

 「JR成田線」「木下駅」は、107年以上の歴史をもつ「駅」で、東京近郊ではほとんど見られなくなった「木造風」のほのぼのした「田舎駅」だったそうです。
 長く「木下地区」の歴史を見つめてきた古い「駅舎」は、2008年12月に新しい「橋上駅」として生まれ変わり、その際「木下駅」の南北を結ぶ「自由通路」が開通し、「利用者」は便利になったそうです。

 「木下駅」の北口の細い道路を歩いていくと、昔ながらの「古い家屋」や「蔵」がいくつもあります。
 「家屋」が密集していて、懐かしいもの、見るとほっとする空間が「木下地区」にはたくさんあるそうです。

 「木下駅南骨董市」の会場ですが、「木下駅」「南口ロータリー」前のスーパー「ライフ」の南側に伸びる「木下南口商店街」が会場となります。
 平成15年から「地域の活性化」を目指して「木下駅南骨董市」が始まりました。

 「木下駅南骨董市」は「木下駅南骨董市実行委員会」が主催し、「木下南口商店街」が共催、「印西市」・「印西市商工会」・「印西市観光協会」の後援で開催されており、「木下南口商店街」の約200mの「通り」の両側には、「陶磁器」や「置物」、「古民具」から「おもちゃ」、「貴金属」に「着物」と出店が連なり、その数は60店以上で、県内だけでなく県外(茨城・埼玉・栃木・群馬・東京)の「業者」も参加する「骨董市」としては大きなものです。
 毎月第1土曜日に行われていて、毎月5000人もの人達でにぎわうそうです。
 また、「骨董市」に午前中に行くと、「抽選会」で「景品」がもらえることもあるようです。

 「木下駅南骨董市」では、「開催日」当日は「商店街」が歩行者天国となり安心して買い物ができ、「産地直送」の「野菜」、「弁当」や「炊き込みご飯」なども出品、「季節」によって店頭に並ぶラインナップが変わっていき、四季折々の「産物」や「実用品」、「掘り出し物」探しと盛り沢山だそうです。

 歴史ある「木下地区」「木下駅南口商店街」で行われる人気の「骨董市」。
 昔懐かしい雰囲気の中、自分だけの「逸品」を探してみませんか?

 「木下駅南骨董市」詳細

 開催日時 3月3日(土) 7時〜15時頃

 開催会場 木下南口商店街 印西市木下1521

 問合わせ ホームショップマツシタ 0476-24-7883

 備考
 「木下駅南骨董市」は、荒天中止の「催し」です。
 2月18日のブログで紹介しました「世界一大きなせんべい」は、「骨董市」が開かれる「印西市」「木下地区」の「せんべい」をブラッシュアップして作製、「ギネスブック」に「炭火で世界一大きな手焼きせんべいを焼く」で認定されています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=966 |
| 地域情報::成田 | 10:10 AM |
「龍角寺岩屋古墳(りゅうかくじいわやこふん)」(栄町)
 本日ご紹介するのは、近隣市「栄町」の「龍角寺岩屋古墳(りゅうかくじいわやこふん)」(以降「岩屋古墳」と表記)です。

 「岩屋古墳」は、「印旛郡栄町」にある「方墳」で、114基ある「龍角寺古墳群」(2月25日のブログ参照)の105号古墳であり、「龍角寺古墳群・岩屋古墳」として「国」の「史跡」に指定されています。

 「岩屋古墳」は「印旛沼」北岸の標高約30mの台地上に位置しています。
 「築造年代」は「古墳時代」終末期の7世紀前半頃の説と、7世紀中頃との説があります。
 これはこれまで「岩屋古墳」から検出された「出土品」が全くなく、主に「横穴式石室」の構造で「築造時期」についての議論がなされており、「築造時代」を推定する材料にかける上に、「龍角寺古墳群」内で「岩屋古墳」の前に築造されたと考えられる「浅間山古墳(せんげんやまこふん)」の「造営時期」が7世紀初頭との説と7世紀第二四半期との説があることによります。

 また「岩屋古墳」は、「東日本最大級」の「方墳(方形墳)」です。
 同時期に築造された「大方墳」である「春日向山古墳」(「用明天皇」陵)、「山田高塚古墳」(「推古天皇」陵)をも凌(しの)ぐ規模であり、この時期の「方墳(方形墳)」としては「全国最大級」の規模であり、「古墳時代」を通しても5世紀前半に造営されたと考えられる「奈良県橿原(かしはら)市」の「舛山古墳」に次ぐ、「第二位」の規模の「方墳(方形墳)」となっています。

 昭和初期に「上田三平」氏らの「調査」により、雄大な「方墳(方形墳)」であることが確認されています。
 「岩屋古墳」は一辺約80m(78m)、高さ13.2mを誇り、周囲に「溝」がめぐらされ、「墳丘」は3段になっていて、1段目と2段目が低く3段目が高くなっているそうです。
 「墳丘」周囲には南側を除く三方に約3mの「周溝」がめぐり、「周溝」の外側には「外堤」が見られます。
 「岩屋古墳」はこれらを含めると全体規模は110m四方に達します。
 また、2008年の「測量調査」により、「墳丘」南側の谷側から「墳丘」に向かって、「斜路」が作られていたことが判明しています。

 「岩屋古墳」の「埋葬施設」として、下段の南面には東西2つの「横穴式石室」が10mの間隔で並んでいます。
 西側「石室」は奥行4.23m、奥壁幅1.68m、高さ2.14mです。
 東側の「石室」は西側よりやや規模が大きいですが、現在は崩落しているそうです。

 「岩屋古墳」の沿革ですが、1970年(昭和45年)「明治大学」による、「石室」の実測、「墳丘」の「地形測量」を実施。
 2007年(平成19年)「栄町教育委員会」による「104号古墳」を含む「清掃地形測量」を実施しています。

 「岩屋古墳」は、1941年(昭和16年)1月27日、「国の史跡」に指定されました。
 また2009年(平成21年)には「龍角寺古墳群」および周辺の「地形」を含む広範囲な「地域」が追加指定され、「龍角寺古墳群・岩屋古墳」として「史跡」の「名称変更」が行われました。
 ちなみに「龍角寺古墳群・岩屋古墳」の「管理団体」は、「龍角寺」なのだそうです。

 「国の史跡」に指定されている「龍角寺古墳群・岩屋古墳」。
 古代の歴史を感じる「古墳群」を見に「印旛郡栄町」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 備考
 「龍角寺古墳群」で「岩屋古墳」以降に築造された「みそ岩屋古墳」などの「方墳(方形墳)」では「方岩」は用いられることがなく、「貝の化石」を含んだ「砂岩」のみが用いられたことからも、「古墳」の「築造順」は「浅間山古墳」、「岩屋古墳」、「岩屋古墳」以外の「方墳(方形墳)」という順序であったことが推定できます。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=965 |
| 地域情報::成田 | 10:00 AM |
「温泉ファン感謝デー」(銚子市)
 本日二つ目にご紹介するのは、当館「犬吠埼観光ホテル」で明明後日(しあさって)の2月29日(水)に開催する「温泉ファン感謝デー」です。

 毎月月末(つきづえ)に開催しています「温泉ファン感謝デー」。
 「温泉ファン感謝デー」は、日頃からご愛顧(あいこ)いただいている「地元」「銚子」の「皆様」やご贔屓(ひいき)いただいている「お客様」への「感謝」、「天然温泉」(豊富な「効能」)への「感謝」、「犬吠埼地区」また「先祖代々受け継いでいる土地」への「感謝」といった様々なことに「感謝」してイベントを行っています。

 「温泉ファン感謝デー」利用(営業)時間は、朝10時〜14時(終了)となっていて、「時間内」に当館自慢の「天然温泉」を利用できます。

 「温泉ファン感謝デー」のご利用の手順ですが、「当館ロビー前」「受付」にて、「お名前」、「ご住所」、「ご連絡先」(電話番号、携帯電話番号も可)を記入後、「お履き物」を「スリッパ」に履き替え、そのまま「天然温泉」の「大浴場」「露天風呂」となります。
 なお、「温泉ファン感謝デー」では、「タオル」・「バスタオル」はお客様各自でご持参下さい。

 また「温泉ファン感謝デー」では、「海」の見える「宴会場」2会場を「湯上がり処」「休憩所」として開放。
 さらに「宴会場」「酉明」にて「カラオケ」が「無料」で利用可能。
 楽しいひとときをお過ごしいただけるように準備しています。
 (カラオケを利用される際は順番を守って皆で楽しく歌って下さい。)

 また「温泉ファン感謝デー」当日は、各種「定食」(普段と変わらず「刺身定食」・「天ぷら定食」(1000円)「金目定食」(1500円))をご用意するほか、「温泉ファン感謝デー」当日限定の「500円ランチ」も用意しています。
 また寒さが続いていますが、当館自慢の「ラーメン」(700円)も用意しています。

 「温泉ファン感謝デー」では、「温泉パスポート」の「割安販売」を実施。
 「温泉パスポート」とは、「温泉入浴回数スタンプカード」のことで、「通常温泉料金」1回あたりの「料金」(大人1000円〜)がさらにリーズナブルな「料金」で入(はい)れるため、「常連」の「お客様」や「」「地元客」、「近隣市町村の皆様」に支持されている「温泉入浴回数スタンプカード」です。

 盛り沢山の「犬吠埼観光ホテル」のイベントに皆様のお越しをスタッフ一同お待ちしております。

 備考
 「天然温泉」「大浴場」「脱衣所」内と「湯上り処」には「マッサージ機」があり、皆様に「無料」で利用できます。
 (順番を守ってご利用下さい。)
 なお「温泉ファン感謝デー」の行われる2月29日(水)は、イベント終了後、「休館日」となりますので、ご注意下さい。

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| 地域情報::銚子 | 10:09 AM |
「風土村」(香取市)
 本日ご紹介するのは、となりまち「香取市」にある「風土村」です。

 「風土村」は、「和郷園」関連施設で、「地産地消の推進」を掲げる「地域コミュニティーショップ」です。
 「風土村」の「構成」ですが、「野菜直売所」、「レストラン」、「サンライズファーム」、「風土村のお花屋さん」となっています。

 「風土村」「野菜直売所」は、「地元」の「生産者」に協力して、毎日「採れたて野菜」を出荷しています。
 その他「直売所」では「季節のフルーツ」等も色々取り揃えています。
 「風土村」「野菜直売所」では「和郷園」の「OTENTOバナナ」、「OTENTOマンゴー」、「お米」、「酒ケーキ」、「冷凍野菜」も置いています。

 「風土村」「レストラン」は、「和郷園」を始めとする「地元」の「生産者」が一生懸命作った「新鮮な食材」を使った「料理」を提供しています。
 毎週土・日・祝日は、シェフ自慢の「料理」が1300円で「食べ放題」(バイキング)だそうです。
 (平日は1000円で「食べ放題」)
 また「ドリンク」は200円で「飲み放題」(ソフトドリンクのみ)となっています。

 「サンライズファーム」は、四季折々の「食材」を使い、バラエティー溢れる「お総菜」を真心込めて、手作りで提供。
 人気の「ハム・ソーセージ」や、「にら饅頭」など、「食材」にこだわり、「安心・安全」な「商品」を提供しています。

 「風土村のお花屋さん」は、「地元生産者」の「花」をメインに使った「切り花」や「鉢物」、「小物」などを販売しています。
 「和郷園」が運営する「花屋」、「ナチュール」からの「商品」もあるそうです。
 シーズンに合わせた「植物」・「雑貨」の「癒し系グッズ」や珍しいものなど時々入荷するそうです。

 ちなみに「和郷園」は創業以来、「農業生産者」の「自律」を「合言葉」に活動を続けている「農事組合法人」です。
 時代のニーズを取り入れ、「生産者」の「技術向上」はもちろん、「GAP」の取り組み、「加工事業」、「販売事業」、「リサイクル事業」、「海外」における展開と、「農業」を軸に活動の幅を広げている「組合法人」です。
 「和郷園」は、「活動理念」として「生産者の自律」「健康・環境・調和」を掲げ、「自然循環型農業」を行っているそうです。

 「香取市」「山田地区」の「味覚」や「和郷園」の「旬」の「産直産品」が集まる「風土村」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「風土村」詳細

 所在地  香取市鳩山344-4

 営業時間 9時〜19時半

 レストラン営業時間

 11時〜15時 

 問合わせ 風土村 0478-78-5733

 備考
 「風土村」の「レストラン」(バイキング)の子供料金ですが、3歳以上小学生未満の幼児は平日休日共に500円(2歳以下は無料)、小学生は900円となっています。













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| 地域情報::香取 | 09:11 AM |
「龍角寺古墳群(りゅうかくじこふんぐん)」(成田市)(栄町)
 本日ご紹介するのは、近隣市「成田市」「栄町」にある「龍角寺古墳群(りゅうかくじこふんぐん)」です。

 「龍角寺古墳群」は、「成田市」と「印旛郡栄町」の「印旛沼」北東部の「下総台地」上に、6世紀前半から7世紀にかけて造営された「古墳群」です。

 「龍角寺古墳群」は、現在のところ114基の「古墳」が確認されています。
 「古墳群」の中には、「龍角寺」(1月2日のブログ参照)参道沿いに中世から近世にかけて造られたと考えられている「塚」が数多くあり、見かけ上「古墳」との区別が難しいため、数については不確定な要素が残っています。

 「龍角寺古墳群」は「前方後円墳」が37基、「方墳」が6基、「円墳」71基で構成されています。
 しかし確認されている「前方後円墳」の多くが「円墳」に短小な「方形部」が付く「帆立貝形古墳」に類似したもので、現在「円墳」とされている「古墳」の中からも、今後「発掘調査」などが進めば「前方後円墳」が増える可能性があり、築造当時は「方墳」であった「古墳」の一部も、「墳丘」の改変などで今は「円墳」のようになっているものも考えられ、「方墳」の数も増える可能性があるようです。

 「龍角寺古墳群」の立地ですが、「印旛沼」北西部の標高約30メートルの「下総台地」上に位置しています。
 「龍角寺古墳群」がある付近の「下総台地」は幅が比較的狭く、「古墳群」は狭い台地上を北西側から南東側に約1.5キロメートルにわたって帯状に分布します。
 「古墳群」の中で比較的早い時期に造られたと考えられる「前方後円墳」や「円墳」は、「古墳群」の西側である「印旛沼」に面する場所に位置しており、後半に造られた「龍角寺古墳群」を代表する「浅間山古墳」・「岩屋古墳」、そして「岩屋古墳」の後に造られた「みそ岩屋古墳」などの「方墳」は、「古墳群」の北方にかつて存在した「香取海」方面からの「谷」の「源頭部」にあたる丘陵上に築造されています。
 これは「浅間山古墳」や「岩屋古墳」などの「方墳」は、「印旛沼」よりも北側の「香取海」方面を意識して「築造場所」に選んだものと解釈されています。
 「龍角寺古墳群」のすぐ南東側には、「上福田古墳群」、「大竹古墳群」というやはり「古墳時代」後期から終末期にかけて造営された「古墳群」があります。
 また「龍角寺古墳群」の南には4世紀から「古墳」の造営が見られる「公津原古墳群」、そして「印旛沼」東岸には「北須賀勝福寺古墳群」があり、「印旛沼」東岸には多くの「古墳群」が存在します。

 「龍角寺古墳群」の「古墳群」を構成する「古墳」の多くは小型で、「前方後円墳」では全長20〜30メートル、「円墳」では直径10〜20メートルのものが多いようです。
 「龍角寺古墳群」では当初、小型の「前方後円墳」や「円墳」が造られていたと考えられますが、7世紀前半以降「浅間山古墳」と、日本第二位の規模を誇る「方墳」である「岩屋古墳」という「印旛沼」周辺地域で最も大きい「古墳」が造営されています。

 「龍角寺古墳群」は「古墳時代」前・中期の「古墳」は確認されておらず、「古墳時代」の後期にあたる6世紀から「古墳」の築造が開始されたと考えれています。
 「印旛沼」付近を統合する「首長権」は、6世紀半ば頃までは「龍角寺古墳群」の南方にある「公津原古墳群」を造営した「首長」が握っていたと考えられますが、6世紀後半以降、「龍角寺古墳群」を造営した「首長」が強大化し、「首長権」の移動があったと見られています。
 「龍角寺古墳群」を造営した「首長」が強大化した理由は、「古墳群」北方にある「香取海」の「水運」の「要衝」を掌握し、「常陸」、そして「東北方面」へ向かう「交通路」を押さえることに成功したからと考えれています。
 これは「龍角寺古墳群」の「浅間山古墳」までの「古墳」は、「下総台地」の「印旛沼」に近い場所に造営されていたものが、「浅間山古墳」以後は「香取海」方面を意識した立地となったことにも現れています。

 そして6世紀末から7世紀にかけての「ヤマト王権」の変革期にあたり、「関東北部」、そして「東北」へと向かう交通の「要衝」を押さえた「龍角寺古墳群」を造営した「首長」のことを「ヤマト王権」は重要視したと考えられており、「大王家」と直結した「壬生部」の「責任者」となったとの説も唱えられています。
 「ヤマト王権」や「畿内」の「豪族」との関係を深めたことも、「終末期古墳」の時期としては最大の「方墳」である「岩屋古墳」の造営に繋がったものと見られています。

 7世紀前半には、「古墳群」の北隣に「龍角寺」が創建されました。
 そして「古墳群」西北には「植生郡」の跡とみられる「大畑遺跡群」もあり、「龍角寺古墳群」を造営したと考えられる「印旛国営」、最近の研究では「大生部直」氏は、「古墳群」の造営後も「龍角寺」の創建、そして「律令制」成立後も「郡司」としてその勢力を保ったと考えれています。

 「龍角寺古墳群」は「古墳群」を構成する多くの「古墳」が、「房総のむら」内で比較的良好な状況で保存されており、また全国的に見ても最後の「前方後円墳」のひとつである「浅間山古墳」、そして「終末期古墳」の時代では最大の「方墳」である「岩屋古墳」など、学術的に見ても価値が高い「古墳」があります。

 つまり「龍角寺古墳群」は「古墳時代」後期から「終末期古墳時代」の「古墳群」を知る上で貴重な資料であり、7世紀の「寺院」建立、そして「律令制」における「郡司」の時代に至るまで、「関東地方」の「一首長」について知ることのできる貴重な「遺跡」と評価され、以前より「史跡」とされていた「岩屋古墳」に追加される形で、「龍角寺古墳群・岩屋古墳」として2009年2月12日、「国の史跡」に指定されています。
 また「浅間山古墳」の「出土品」は2009年3月4日、「千葉県」の「文化財」に指定されています。

 太古の歴史に思いを馳せる「龍角寺古墳群」。
 太古のロマンを感じに「龍角寺古墳群」散策に訪れてみてはいかがでしょうか?

 備考
 「龍角寺古墳群」の「古墳番号」ですが、現在「専門書」等で用いられている、「深澤」の論文(1988年)によって確定したものだそうです。
 ちなみに「龍角寺古墳群」の主な「古墳」は「24号墳」、「101号墳」、「岩屋古墳」(105号墳)、「みそ岩屋古墳」(106号墳)、「108号墳」、「浅間山古墳」(111号墳)、「112号墳」となっています。

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| 地域情報::成田 | 11:17 AM |
「佐原まちあるき」その4「伊能忠敬旧宅」(香取市)
 本日ご紹介するのは、となりまち「香取市」「重要伝統的建造物保存地区」の「店舗」などを紹介する企画「佐原まちあるき」です。
 第4回の今回は「佐原の偉人」「伊能忠敬」(2011年3月5日のブログ参照)が30年余りを過ごした「伊能忠敬旧宅」です。

 「水運」を利用して「江戸優り(えどまさり)」といわれるほど栄えていた「佐原」。
 「佐原」の人々は、「江戸の文化」を取り入れ、更にそれを独自の文化に昇華していました。
 その面影を残す「町並み」が「小野川」沿岸や「香取街道」に今でも残っています。

 このような「歴史景観」をよく残し、またそれを活かした「まちづくり」に取り組んでいることが認められ、平成8年12月、「関東」で初めて「重要伝統的建造物保存地区」に選定されています。
 「佐原」の「重要伝統的建造物保存地区」には昔から「家業」を引き継いで今も営業を続けている「商家」が多く、「生きている町並み」として評価されています。

 「香取市佐原」の「重要伝統的建造物保存地区」では、「国指定史跡」1件と「県指定文化財」8件(13棟)が残っていて、「歴史」を今に伝えています。
 現在、「佐原の町並み」では「佐原おかみさん会」(2011年2月5日のブログ参照)主催「さわら雛めぐり」(2月2日のブログ参照)が開催中(〜3月25日)で、「観光客」の皆さんで賑わっています。

 そのような中、今回ご紹介するのは、「重要伝統的建造物保存地区」の「佐原の町並み」を代表する「建造物」「伊能忠敬旧宅」です。
 「伊能忠敬旧宅」は、「伊能忠敬」(2011年3月5日のブログ参照)の「佐原在住時代」に過ごした「家」です。

 「伊能家」は、代々「名主」を務める「家柄」で「佐原」でも最も有力な「商人」でした。
 「伊能忠敬」は、宝暦12年(1762年)17歳で「伊能家10代目当主」として「婿養子」で迎えられました。
 「伊能家」の「家業」は主に「酒造業」「米穀売買業」などを営んでおり、当時の「屋敷絵図」には、「酒蔵」がいくつも並び盛んであったことがわかるそうです。
 「伊能忠敬」は、寛政7年(1795年)50歳で「江戸」に出るまで「旧宅」に住んでいました。
 「伊能忠敬」が30年余過ごした「旧宅」は「国の史跡」に指定されています。

 「伊能忠敬」は「伊能家」の「婿養子」となり、「醸酒業」並びに「米穀薪炭販売」に精励すると共に、「村政」(当時は「佐原村」)の中心として活躍しています。
 50歳で「隠居」をして、「天文学」や「地理学」を学び、「大日本沿海海輿地図」を完成させたことで広く知られています。

 「伊能忠敬旧宅」は、「平屋造」の「瓦葺」で、「正門」・「炊事場」・「書院」からなる「母屋」、「店舗」、「土蔵」からなっています。
 「母屋」は「玄関」、「書斎」、「納戸」などの5室、建坪は24坪で、「店舗」は「店」および「居間」などがあって建坪32坪あります。
 なお「店舗」ですが、「醸造業」の「倉庫」を改造したもので、「土間」・「帳場」・「居室」・「台所」等があります。
 また「伊能忠敬旧宅」の南側の奥には「観音開き」の「戸」が広まる以前の「引き戸形式」の「戸」を持つ「土蔵」が建っており、かつては「伊能忠敬」の「遺品」の多くが「土蔵」に納められていたそうです。
 「土蔵」は古い様式を残し、また「店舗」と「正門」は「伊能忠敬」が「婿養子」に入る以前に建てられていたことから、築200年以上経つ「佐原」でも古い時代の「建造物」といえます。
 「土蔵」には、文政4年(1821年)の「修理銘」が残っており、現存する「土蔵」では最も古い時期の「建物」です。

 「伊能忠敬旧宅」の「母屋」ですが、寛政5年(1793年)の48歳の時に「伊能忠敬」自身が設計したもので、「店舗」・「正門」は「伊能忠敬」が「佐原」に来る前から建てられていたといわれています。

 「伊能忠敬旧宅」敷地内には、江戸時代につくられていた「農業用水路」の「一部」が残っています。
 (「旧宅」敷地内から「樋橋(とよはし)」により対岸の「伊能忠敬記念館」方面に「水」渡していた「水路」の一部)
 かつてここを流れた「水」が「小野川」に流れ落ち「ジャージャー」と「音」がしたことから、「樋橋」(2月13日のブログ参照)のことを通称「じゃあじゃあ橋」と呼ばれています。
 現在は、当時の様子を復元して、30分ごとに「水」が流れるようになっています。
 また「小野川」に面した「伊能忠敬旧宅」の正面には「だし」と呼ばれる「荷揚げ場」があり、現在は「観光船」(2011年5月6日のブログ参照)の「乗り場」になっています。

 以前「伊能忠敬旧宅」には隣接して旧「伊能忠敬記念館」がありましたが、現在は「旧宅」前の「小野川」を挟んで向かいに「伊能忠敬記念館」(2011年3月8日・2012年1月29日のブログ参照)が建っています。
 旧「伊能忠敬記念館」は、昭和36年に建築された「鉄筋コンクリート造り」2階建ての「建物」で、「伊能忠敬」の「著書」・「測量図」・「日記」・「書簡」・「遺品」・「遺書」など、およそ1000点の貴重な「資料」が大切に保存されていました。
 旧「記念館」は、建設から相当の年月が経ち、また「展示面積」が狭く、「佐原の偉人」「伊能忠敬」を十分に紹介することが困難になりつつあったため、平成10年5月22日に、「小野川」の対岸に新しく「記念館」を開館したそうです。

 「伊能忠敬旧宅」内には、「家訓書碑」があります。
 「家訓書碑」には、
 「第一 仮にも偽をせず、孝悌忠信にして正直なるべし」
 「第二 身の上の人ハ勿論、身下の人にても教訓意見あらば急度相用堅く守べし」
 「第三 篤敬謙譲にて言語進退を寛裕ニ諸事謙り敬ミ、少も人と争論など成べからず」
 とあります。
 ちなみに「伊能忠敬」「家訓」は、「佐原町並み交流館」(1月27日のブログ参照)「入口玄関」にも飾られています。

 「香取市佐原」が生んだ「世界」に誇る「科学的地図」を作成した「偉人」「伊能忠敬」。
 「伊能忠敬」を育(はぐく)んだ「旧宅」は、今も「佐原の町並み」の中に静かに佇んでいます。

 備考
 「伊能忠敬旧宅」では、3月5日(月)に「旧宅」内の「水路清掃」が行われます。
 「水路清掃作業」のため、「樋橋」(じゃあじゃあ橋)の「落水」を一時停止します。
 「小野川町並み舟めぐり」の「サッパ舟」運行は通常通りに営業されるそうです。













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| 地域情報::香取 | 03:45 PM |

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