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「銚子漁港」の「歴史」(銚子市)
 本日ご紹介するのは、地元「銚子市」「銚子漁港」の「歴史」です。

 「銚子漁港」は、全国屈指の「水揚げ高」を誇る「漁港」で、「沿岸・沖合・遠洋漁業」の基地として「全国」から「漁船」が集まります。

 「魚市場」に水揚げされる「魚」は、「カニ類」から「マグロ」まで多種多様ですが、「イワシ」・「サバ」・「サンマ」・「カツオ」・「マグロ」などが中心で、主に「首都圏」へ出荷される他、地元で「缶詰」や「干物」などの「水産加工物」に加工されます。

 「銚子港」の「歴史」は、1654年(承応3年)に「利根川」が「東」へ流れを変えられてから始まります。
 「東廻り海運」として「東北地方」から出港した「お蔵米船」や物資が「銚子」へ入港した後、「高瀬船」に積み替えて、「利根川」と「江戸川」を使い「江戸」へ運ぶ輸送方法の確立により、「銚子湊」は「江戸」と「東北地方」をつなぐ「ターミナル都市(港)」として位置付けられるようになったそうです。

 明治時代に入り、「東廻り海運」が衰退すると「銚子の湊(みなと)」は「商港」から「漁港」へと転換していきました。

 しかし「銚子漁港」は、嘗(かつ)て「日本」の「三大海難所」のひとつに数えられていました。

 「利根川」の河口付近に「千人塚」(銚子市川口町)というところがありますが、1616年(慶長19年)10月25日「銚子沖」に吹いた「突風」によって亡くなった千人以上の「漁民」を葬った場所といわれています。

 昔の「利根川」河口付近は「川幅」が狭く、「川底」には大きな「岩」があり、その上「水深」が浅く、「干潮時」と「満潮時」の「潮の流れ」は急で、一年中「風」が強く吹き「波」が荒い場所であったそうです。

 1910年(明治43年)3月12日にも、「漁船」80隻、「漁民」千人以上が遭難しました。
 当時の「船頭歌」でも「阿波の鳴門か 銚子の川口、伊良湖渡合が恐ろしや」 などと諷されていました。

 何度も「遭難」が繰り返される中、「銚子の町民」や「漁民」らの間から「河口」を広げ「水深」を深くし、「安心・安全な漁港」を造って欲しいという「要望」が上がったそうです。

 しかし「銚子漁港」は、大正時代になっても「港」の形態は昔のままで、わずかに「防波用の施設」や「桟橋(さんばし)」がある程度でした。

 「銚子港」を本格的、また近代的に改造する工事が始まったのが、1925年(大正14年)開始の「千葉県営事業」として行われた「銚子漁港修築工事」いわゆる「銚子築港(ちょうしちっこう)」です。

 当初の計画では、現在の「銚子港」に近い「外港(がいこう)」と「運河」を持つ「港」にするもので、「銚子漁港」の規模は、「外港・中港・内港」を有する「壮大な構想」であったそうです。

 「構想」では、「外港」はいずれも1000m前後の「防波堤」を「外洋」に突き出して「港域」を形成し、その内部にさらに「防波堤」を出して「内港」を形成するようになっており、「中港」と「内港」は「陸地」を掘削した「人工の航路」つまり「運河」で結ぶようになっています。

 そして「内港」は「第一漁船渠(ぎょせんきょ)」(「第二市場」・銚子市川口町)と「第二漁船渠」(「第一市場」・銚子市新生町)に分けられるというものでありました。

 ですが「港湾工事」の「技術・工法・機材等」が格段に進歩した時代と違って、人力がまだ相当の比重を占めていたこの時代に、これだけの工事を構想したことは、壮大でありすぎたようです。

 このような「銚子漁港」の工事にたどり着くまでには、「濱口吉兵衛」(1月23日のブログ参照)や「今井武彦」、「小野田周斎」の尽力が多大であったようです。

 しかし、「技術的な問題」や「工事費の問題」が発生。
 特に「工事費」については、「国」と「銚子港」を利用すると思われる「関係府県」(東京府・神奈川県・静岡県・愛知県・三重県・宮城県・福島県・茨城県・千葉県)で負担する方向で進んでいましたが、関係府県のうち半分が拒否した為、結果的には半額の「国庫補助」を受けて「千葉県」単独で建設することになりました。

 ところが今度は、「利根川」河口に「堤防」の「建設」や「埋め立て」を行うことは「治水」上、重大な影響があるとして、「国」から「工事認可」が下りないという問題が出て、計画は頓挫寸前までなってしまったそうです。

 ここで危機感を持った「銚子」は「地元選出議員」の「濱口吉兵衛」や「香取郡」選出の「今井健彦」を動かし、「関係各省庁」へ働きかけたそうです。

 その結果、1925年(大正14年)8月、ようやく「国」から工事認可が下り、同年11月21日に「起工式」が行われました。
 ただ「認可申請」した「設計」通りでは無く、「第二漁船渠」(第一市場)の「護岸・埋め立て・浚渫(しゅんせつ)」だけであったそうです。

 しかし「銚子漁港」はその後、「第三次」(昭和38年〜44年)、「第四次」(昭和45年〜47年)、「第五次」(昭和48年〜51年)、「第六次」(昭和52年〜56年)、「第七次」(昭和57年〜62年)、「第八次」(昭和63年〜平成5年)、「第九次整備計画」(平成6年〜13年度)の実施により、念願であった「運河」の建設や「外港」の建設、「堤防」や「港湾道路」及び「港湾施設」の設置、「黒生地区」の埋め立て、「漁港」内の「浚渫」などが行われたことで今の「日本」を代表する「漁港」になりました。

 現在は、「広域漁港整備計画」(平成14年〜23年度)の実施により、「大消費地」である「首都圏」を控えた「水揚げ拠点港」として「水産物」を安定供給する「総合漁業基地」の確立を目指して、更なる「整備」が進められています。

 尚「銚子漁港」は、1951年(昭和26年)7月10日に、「漁港」の「利用範囲」が全国的なものを表す「第三種漁港」に指定され、次いで1960年(昭和35年)3月21日に、「第三種漁港」の中で、「水産業」の「振興」上、特に重要な「漁港」を現す「特定第三種漁港」に指定されたそうです。

 備考
 「銚子漁港」には1944年10月1日に「日本国有鉄道」(国鉄)「総武本線」の「貨物駅」であった「新生駅」からの「引き込み線」が開通しました。
 引き込まれた「専用線」は、「銚子漁港」で水揚げされた「魚介類」を「東京都民」に提供するために、戦時中に建設されたものだそうです。
 後に「専用線」は「トラック輸送」への転換が進み、廃止となり、現在「中央市場前」まで延びていた「構内」の「線路の跡地」は「駐車場」として利用されています。













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| 地域情報::銚子 | 10:19 AM |

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