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「龍角寺古墳群(りゅうかくじこふんぐん)」(成田市)(栄町)
 本日ご紹介するのは、近隣市「成田市」「栄町」にある「龍角寺古墳群(りゅうかくじこふんぐん)」です。

 「龍角寺古墳群」は、「成田市」と「印旛郡栄町」の「印旛沼」北東部の「下総台地」上に、6世紀前半から7世紀にかけて造営された「古墳群」です。

 「龍角寺古墳群」は、現在のところ114基の「古墳」が確認されています。
 「古墳群」の中には、「龍角寺」(1月2日のブログ参照)参道沿いに中世から近世にかけて造られたと考えられている「塚」が数多くあり、見かけ上「古墳」との区別が難しいため、数については不確定な要素が残っています。

 「龍角寺古墳群」は「前方後円墳」が37基、「方墳」が6基、「円墳」71基で構成されています。
 しかし確認されている「前方後円墳」の多くが「円墳」に短小な「方形部」が付く「帆立貝形古墳」に類似したもので、現在「円墳」とされている「古墳」の中からも、今後「発掘調査」などが進めば「前方後円墳」が増える可能性があり、築造当時は「方墳」であった「古墳」の一部も、「墳丘」の改変などで今は「円墳」のようになっているものも考えられ、「方墳」の数も増える可能性があるようです。

 「龍角寺古墳群」の立地ですが、「印旛沼」北西部の標高約30メートルの「下総台地」上に位置しています。
 「龍角寺古墳群」がある付近の「下総台地」は幅が比較的狭く、「古墳群」は狭い台地上を北西側から南東側に約1.5キロメートルにわたって帯状に分布します。
 「古墳群」の中で比較的早い時期に造られたと考えられる「前方後円墳」や「円墳」は、「古墳群」の西側である「印旛沼」に面する場所に位置しており、後半に造られた「龍角寺古墳群」を代表する「浅間山古墳」・「岩屋古墳」、そして「岩屋古墳」の後に造られた「みそ岩屋古墳」などの「方墳」は、「古墳群」の北方にかつて存在した「香取海」方面からの「谷」の「源頭部」にあたる丘陵上に築造されています。
 これは「浅間山古墳」や「岩屋古墳」などの「方墳」は、「印旛沼」よりも北側の「香取海」方面を意識して「築造場所」に選んだものと解釈されています。
 「龍角寺古墳群」のすぐ南東側には、「上福田古墳群」、「大竹古墳群」というやはり「古墳時代」後期から終末期にかけて造営された「古墳群」があります。
 また「龍角寺古墳群」の南には4世紀から「古墳」の造営が見られる「公津原古墳群」、そして「印旛沼」東岸には「北須賀勝福寺古墳群」があり、「印旛沼」東岸には多くの「古墳群」が存在します。

 「龍角寺古墳群」の「古墳群」を構成する「古墳」の多くは小型で、「前方後円墳」では全長20〜30メートル、「円墳」では直径10〜20メートルのものが多いようです。
 「龍角寺古墳群」では当初、小型の「前方後円墳」や「円墳」が造られていたと考えられますが、7世紀前半以降「浅間山古墳」と、日本第二位の規模を誇る「方墳」である「岩屋古墳」という「印旛沼」周辺地域で最も大きい「古墳」が造営されています。

 「龍角寺古墳群」は「古墳時代」前・中期の「古墳」は確認されておらず、「古墳時代」の後期にあたる6世紀から「古墳」の築造が開始されたと考えれています。
 「印旛沼」付近を統合する「首長権」は、6世紀半ば頃までは「龍角寺古墳群」の南方にある「公津原古墳群」を造営した「首長」が握っていたと考えられますが、6世紀後半以降、「龍角寺古墳群」を造営した「首長」が強大化し、「首長権」の移動があったと見られています。
 「龍角寺古墳群」を造営した「首長」が強大化した理由は、「古墳群」北方にある「香取海」の「水運」の「要衝」を掌握し、「常陸」、そして「東北方面」へ向かう「交通路」を押さえることに成功したからと考えれています。
 これは「龍角寺古墳群」の「浅間山古墳」までの「古墳」は、「下総台地」の「印旛沼」に近い場所に造営されていたものが、「浅間山古墳」以後は「香取海」方面を意識した立地となったことにも現れています。

 そして6世紀末から7世紀にかけての「ヤマト王権」の変革期にあたり、「関東北部」、そして「東北」へと向かう交通の「要衝」を押さえた「龍角寺古墳群」を造営した「首長」のことを「ヤマト王権」は重要視したと考えられており、「大王家」と直結した「壬生部」の「責任者」となったとの説も唱えられています。
 「ヤマト王権」や「畿内」の「豪族」との関係を深めたことも、「終末期古墳」の時期としては最大の「方墳」である「岩屋古墳」の造営に繋がったものと見られています。

 7世紀前半には、「古墳群」の北隣に「龍角寺」が創建されました。
 そして「古墳群」西北には「植生郡」の跡とみられる「大畑遺跡群」もあり、「龍角寺古墳群」を造営したと考えられる「印旛国営」、最近の研究では「大生部直」氏は、「古墳群」の造営後も「龍角寺」の創建、そして「律令制」成立後も「郡司」としてその勢力を保ったと考えれています。

 「龍角寺古墳群」は「古墳群」を構成する多くの「古墳」が、「房総のむら」内で比較的良好な状況で保存されており、また全国的に見ても最後の「前方後円墳」のひとつである「浅間山古墳」、そして「終末期古墳」の時代では最大の「方墳」である「岩屋古墳」など、学術的に見ても価値が高い「古墳」があります。

 つまり「龍角寺古墳群」は「古墳時代」後期から「終末期古墳時代」の「古墳群」を知る上で貴重な資料であり、7世紀の「寺院」建立、そして「律令制」における「郡司」の時代に至るまで、「関東地方」の「一首長」について知ることのできる貴重な「遺跡」と評価され、以前より「史跡」とされていた「岩屋古墳」に追加される形で、「龍角寺古墳群・岩屋古墳」として2009年2月12日、「国の史跡」に指定されています。
 また「浅間山古墳」の「出土品」は2009年3月4日、「千葉県」の「文化財」に指定されています。

 太古の歴史に思いを馳せる「龍角寺古墳群」。
 太古のロマンを感じに「龍角寺古墳群」散策に訪れてみてはいかがでしょうか?

 備考
 「龍角寺古墳群」の「古墳番号」ですが、現在「専門書」等で用いられている、「深澤」の論文(1988年)によって確定したものだそうです。
 ちなみに「龍角寺古墳群」の主な「古墳」は「24号墳」、「101号墳」、「岩屋古墳」(105号墳)、「みそ岩屋古墳」(106号墳)、「108号墳」、「浅間山古墳」(111号墳)、「112号墳」となっています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=962 |
| 地域情報::成田 | 11:17 AM |

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