本日ご紹介するのは、近隣市「栄町」の「浅間山古墳(せんげんやまこふん)」です。
「浅間山古墳」は「印旛郡栄町」にある「竜角寺古墳群」(2月25日のブログ参照)に属します。
「浅間山古墳」は、7世紀前半に築造されたと考えられる「前方後円墳」です。
「浅間山古墳」が属する「龍角寺古墳群」は、「古墳時代」後期の6世紀第二四半期に「古墳」の造営が始まりました。
「古墳群」は現在までに114基の「古墳」の存在が確認されていますが、「浅間山古墳」は「古墳群」内最大の「前方後円墳」で「墳丘長」は78mとされています。
「浅間山古墳」には「復室構造」の「横穴式石室」があり、「石室」は「筑波山」付近から運ばれた「片岩」の「板石」を用いて築造されており、「石室」内からは「金銅製冠飾」、「銀製冠」、「金銅製の馬具」や「挂甲」などが出土しています。
「墳丘」からは「埴輪」は検出されておらず、「前方後円墳」最末期の「古墳」であることは間違いないとされるが、「石室」の構造や「出土品」から「浅間山古墳」の「造営」を7世紀第二四半期という新しい時期を想定する「研究者」もあり、一般的には6世紀末から7世紀初頭と考えられている「前方後円墳」の「終焉時期」との関係で論議を呼んでいる「古墳」なのだそうです。
「龍角寺古墳群」を造営した「首長」は「印波国造」と考えられており、「浅間山古墳」の造営以前は、同じ「印旛沼」北東部にある「公津原古墳群」を造営した「首長」の勢力が「龍角寺古墳群」を造営した「首長」を上回っていたと考えられていますが、6世紀末以降、勢力を強めた「龍角寺古墳群」を造営した「首長」は、周辺地域で最も大きい「前方後円墳」の「浅間山古墳」を造営し、その後、日本最大級の「方墳」である「岩屋古墳」(2月27日のブログ参照)を造営し、更には7世紀後半には「龍角寺」を創建したと考えられています。
「浅間山古墳」を含む「龍角寺古墳群」は、「古墳時代」後期から「龍角寺」の創建に代表される「飛鳥時代」にかけての「地方首長」のあり方を知ることができる重要な「遺跡」と評価されています。
「古墳群」のうち、「岩屋古墳」は1941年に単独で「国の史跡」に指定されていましたが、2009年2月12日付けで、「浅間山古墳」を含む周辺の「古墳群」が追加指定され、「指定史跡名称」は、「龍角寺古墳群・岩屋古墳」と改められました。
また、「浅間山古墳」の「出土品」は2009年3月4日、「千葉県」の「有形文化財」に指定されています。
「龍角寺」が造営されたのとほぼ同時期に、「香取神宮」(2010年11月5日・6日のブログ参照)と「鹿島神宮」(2010年11月8日・9日・10日のブログ参照)の「社殿」が造営されたとの見方もあり、これもやはり「香取海」を通して「常陸」、そして「東北方面」へ向かうルートを「ヤマト王権」が重要視していたことの表れと見られています。
「龍角寺古墳群」を作った「印波国造」と考えられる「首長」は、「ヤマト王権」が重要視する「交通路」を押さえることにより「王権」との結びつきを強め、「浅間山古墳」に示されるようにその力を強めたとされています。
また「龍角寺古墳群」の近くには「植生郡衙」跡とされる「大畑遺跡群」があります。
これは6世紀の「古墳時代」後期以降、「龍角寺古墳群」を造った「首長」は、7世紀後半の「龍角寺」建立、そして「律令制」が成立した後も「郡司」となってその勢力を保ったことを示唆(しさ)しており、「龍角寺古墳群」の画期である「浅間山古墳」の持つ意味は大きいといえます。
往時をしのぶ「古墳群」の中、異彩をはなつ「浅間山古墳」。
古代の歴史散策のできる「印旛郡栄町」にお出かけしませんか?
備考
「浅間山古墳」の「石室」と「石棺」に使用された「片岩」は、「筑波山」周辺からもたらされています。
これは「金鈴塚古墳」の「石棺」が「埼玉県」の「長瀞」付近から運ばれた「石材」を用い、一方、「埼玉古墳群」の「将軍山古墳」では、「石室」に「千葉県富津市」の「海岸」から運ばれた「石」を用いているのと同様の現象であり、「浅間山古墳」の「披葬者」も「関東地方」の「他地域」の「首長」との連携を深めていたことがわかります。
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地域情報::成田 | 10:04 AM |