本日ご案内するのは、地元「銚子市」「菅原大神」で2月25日(水)に開催されます「菅原大神春の例祭」です。
「菅原道真」公は、「日本」の平安時代に活躍された「貴族」、「学者」、「漢詩人」、「政治家」で、「参議」・「菅原是善(すがわらこれよし)」公の「三男」として生まれ、「官位」は「従二位」・「右大臣」、「贈正一位」「太政大臣」に就かれていた「人物」です。
「菅原道真」公の「菅原家」は、「天穂日命(あめのほひのみこと)」に「起源」をもち、「曾祖父」「菅原古人」公の時代に、「学問」をもって「朝廷」に仕える「家柄」となっていたそうです。
「菅原道真」公の「祖父」「菅原清公(すがわらのきよきみ/きよとも)」公と「父」「菅原是善」公は、ともに「大学頭」・「文章博士」に任ぜられ「侍読」も務めた「学者」の「家系」であり、当時は「中流」の「貴族」であったそうで、「母方」の「伴氏」ですが、「大伴旅人(おおとものたびと)」公、「大伴家持(おおとものやかもち)」公ら「高名」な「歌人」を輩出しています。
「菅原道真」公の「正室」は「島田宣来子」(「島田忠臣」の「娘」)、「子」は「長男」・「高視」や「五男」・「淳茂」をはじめ「男女」多数で、「子孫」もまた「学者」の「家」として長く続き、特に「高視」の「子孫」は「中央貴族」として残り、「高辻家」・「唐橋家」をはじめ「6家」の「堂上家」(半家)を輩出しました。
「菅原高視」の「曾孫」・「道真五世」の「孫」が「孝標」で、その「娘」「菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)」(「更級日記」の作者)は「菅原道真」公の「六世」の「孫」に当たるそうです。
上記のように「菅原道真」公の「祖父」「清公」公は「私塾」を設け、「同所」からは「朝廷」の「要職」に「数々」の「官人」を輩出し、「菅原家」は「一大学閥」となっていったそうです。
「菅原道真」公は、「類(たぐ)い」まれなる「才能」の「持ち主」であり、「人々」から厚い「信頼」を得ており、その「ご生涯」は、「政略」による「左遷(させん)」など「波瀾万丈(はらんばんじょう)」のものでした。
「菅原道真」公は、「幼少の頃」より「学問」の「才能」を発揮され、わずか 5歳で「和歌」を詠まれるなど、「神童」と称されていました。
「菅原道真」公が「幼少期」につくったとされる「漢詩」ですが、下記の通りとなっています。
月夜見梅花
月耀如晴雪 梅花似照星
可憐金鏡転 庭上玉房馨
月の輝きは晴れたる雪の如し
梅花は照れる星に似たり
憐れむべし 金鏡転じ
庭上の玉房の馨れることを
今夜の月の光は、雪にお日さまが当たった時のように明るく、
その中で梅の花は、きらきらと輝く星のようだ。
なんて素晴らしいのだろう。
空には月が輝き、この庭では梅の花のよい香りが満ちているのは。
「菅原道真」公は、さらに「勉学」に励み、「学者」としての「最高位」であった「文章博士(もんじょうはかせ)」となり、「栄進」を続けられ、「青年期」は「学問」だけではなく、「弓」にて「百発百中(ひゃっぱつひゃくちゅう)」の「腕前」を披露されるなど、「文武両道」に傑出した「人物」として、「その名」を馳せていました。
「菅原道真」公が「京都」から「讃岐国」の「長官」として赴任された際、疲弊していた「国」を建て直すなど「善政」を行い、「住民」に大変慕われました。
その「実績」が「宇多天皇」に認められ、「菅原道真」公は、「京都」に戻り、厚い「信任」を受け、ますます「政治」の「中心」でご活躍されました。
「菅原道真」公は、寛平6年(894年)、「唐」(当時の「中国」)の「国情不安」と「衰退」を「理由」に「遣唐使(けんとうし)」「停止」を建議され、後の「国風文化」の「開花」に大きな「影響」を与えました。
その後「菅原道真」公は、「右大臣」に任じられ、「国家」の「発展」に尽くされていましたが、「左大臣」「藤原時平」の「政略」により、「身」に「覚え」のない「罪」によって「大宰府(ださいふ)」に突如「左遷(させん)」されることとなってしまいました。
「菅原道真」公は、「ご家族」とも十分な「別れ」も許されないまま「京都」を離れる際、「ご自宅」の「梅の木」に「別れの歌」を詠まれたそうです。
「京都」を離れる際に、「菅原道真」公が詠まれた「和歌」ですが、下記の通りとなっています。
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春な忘れそ
春風が吹いたら、香りをその風に託して大宰府まで送り届けてくれ、梅の花よ。
主人である私がいないからといって、春を忘れてはならないぞ。
「菅原道真」公は、「大宰府」では、「衣食」もままならぬ、厳しい「生活」を強いられながらも、「皇室」の「ご安泰」と「国家」の「平安」、また「ご自身」の「潔白」をひたすら「天」にお祈りされ、「誠」を尽くされました。
「菅原道真」公は、延喜3年(903年)2月25日、その清らかな「ご生涯」を閉じられました。
「菅原道真」公の「死後」、「天変地異(てんぺんちい)」が多発したことから、「朝廷」に「祟り」をなしたとされ、「天満天神」として「信仰」の「対象」となったそうです。
「菅原道真」公の「死後」、「朝廷」でも「無実」が証明され、「人」から「神様」の「御位」に昇られた「菅原道真」公は、「太宰府天満宮」に「永遠」に静まり、「学問の神様」・「至誠の神様」として、現在に至るまで永く「人々」の「信仰」を集めています。
「菅原大神」ですが、「銚子市」「桜井町」に鎮座する「桜井里」の「鎮守」で、1131年(天承元年)11月の「創建」とされ、現在の「菅原大神」「社殿」ですが、1987年(昭和62年)に建立されており、「菅原大神」の「敷地」187坪の「境内」には「萱葺流造」の「本殿」が建っています。
「菅原大神」は、「菅原大神」という「名」の通り、「菅原道真」公を祀る「神社」で、「菅原道真」公は、上記のように「学問の神様」・「至誠の神様」として、現在に至るまで永く「人々」の「信仰」を集め、「地元」では「天神さま」と呼ばれ、「菅原大神」は「子授け」の「ご利益」があることでも「全国的」に知られています。
「銚子市」の「西部」、となりまち「東庄町」(2012年4月15日のブログ参照)に程近い「市内」「桜井町」に鎮座している「菅原大神」は、「古来」より「桜井の鎮守」として「遠近」の「信仰」があつく、「別名」「子宝神社」とも呼ばれています。
「菅原大神」では、毎年「春」の2月25日(2014年2月23日・2013年2月19日・2012年2月20日・2011年2月21日のブログ参照)、「秋」の11月25日(2014年11月25日・2013年11月24日・2012年11月24日・2011年11月23日・2010年11月22日のブログ参照)に、「例祭」が行われ、「菅原大神」の「例祭」には、多くの「参拝客」で賑わいます。
「菅原大神」の「春」、「秋」の「例祭」が賑わう「理由」ですが、「子宝」に恵まれない「婦人」が、「菅原大神」に奉納されている「子宝石」(子産石)を「お腹」に当て「祈念」し抱くと「子宝」に恵まれる(授かる)といわれている「伝承」(いい伝え)によるものです。
「菅原大神」には、「大小」90個の「子宝石」(子産石)と呼ばれる「丸い石」が「社(やしろ)」に奉納されており、この「石」を抱くと「子宝」に恵まれると伝えられていることから、上記のように「菅原大神春の例祭」、「菅原大神秋の例祭」には「子宝祈願」にお越しになる「方」や、「子宝」に恵まれた「方」の「お礼参り」にお越しになる「方」で賑わうそうです。
「菅原大神春の例祭」ですが、2月25日(水)8時00分から「受付」を行い、「式」が始まる前に、「記帳」と「玉串料」(祈願料)3000円からを納め、11時00分から「例祭」が行われるそうです。
「菅原大神春の例祭」では、上記のように「子宝祈願」が行われ、「神主」による「祈祷」、「詔(みことのり)」と「神主」の「話」が終わると、記帳した「順」に、「菅原大神」「神殿」の「前」に出て、「榊(さかき)」を奉納し、参拝します。
その後、「菅原大神春の例祭」では、「子宝石」(子産石)を抱き、「子宝石」(子産石)を「お腹」に当てて「子宝」を祈願するそうです。
そもそも「菅原大神」の「子宝石」(子産石)は、昔「菅原大神」から離れたところにあった「お産の神様」である「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」を祀った「御産宮(ごさんのみや)」という「神社」に納められていたものだったそうです。
それが、何らかの「事情」により「菅原大神」に移されたそうで、以来「菅原大神」は「子授けのご利益」を得たいと願う「人々」が参拝するようになっていったそうです。
「桜井の鎮守」「菅原大神」で開催される「子授けのご利益」を祈念・感謝する「神事」「菅原大神春の例祭」。
この機会に「銚子市」に訪れてみてはいかがでしょうか?
「菅原大神春の例祭」詳細
開催日時 2月25日(水) 8時〜
開催会場 菅原大神 銚子市桜井町60
玉串料 3000円〜 (祈願料)
問合わせ 銚子市観光商工課 0479-24-8707
備考
「菅原大神」の「子宝石」(子産石)ですが、昭和60年上半期(1985年4月から10月5日)に放映されました「NHK朝の連続テレビ小説」「第34作」「澪つくし」で「主人公」「古川かをる」(「沢口靖子」さん)が「子宝石」(子産石)を抱き、「子授け」の「ご利益」を祈る「シーン」が「放映」されたことで、「その名」が「全国的」に広まったそうです。