本日ご案内するのは、近隣市「四街道市」「和良比皇産霊神社(わらびみむすびじんじゃ)」で2月25日(水)に開催されます「和良比はだか祭り(わらびはだかまつり)」です。
「千葉県」「北部」に位置し、「県庁所在地」「千葉市」に隣接する「四街道市」は、「東京都心」へも40km圏内にあり、「首都圏」の「ベットタウン」として発達してきました。
「東西南北」、四つの「街道」が交わっていることから「四街道」の「市」の「名前」のとおり、「人」と「情報」と「産物」の「交流地」でもある「四街道市」ですが、江戸時代には「佐倉藩」の「領内」で、「幕末」の「藩主」は「老中」・「堀田正睦」だったそうです。
「堀田正睦」は、「蘭学」、「学問」を推奨したため、「四街道市」の「旧跡」にも「名残」があるそうです。
「四街道市」は、上記のように「都心」から40km圏内、「県庁所在地」「千葉市」「中心部」からも8kmと「利便性」の高い「立地条件」である事から、「JR四街道駅」周辺や「マンション」や「住宅地」が立ち並び、「首都圏」の「ベットタウン」として発展しており、また、「再開発」の進む「四街道駅」「南口」からは、228基もの「ガス灯」が立ち並び、「長さ」も約2300mと「日本一」の「長さ」を誇るそうです。
一方、「四街道市」では、「梨」、「落花生」などの「生産」が盛んな「近郊農業地帯」でもあります。
「四街道市」ですが、上記のように「千葉県」「中北部」の「内陸」に位置し、「下総台地」(北総台地)(2012年7月10日のブログ参照)の「南」に位置する「自治体」で、「南」と「西」に「千葉県」の「県庁所在地」「千葉市」(花見川区、稲毛区、若葉区)、「北」と「東」に「佐倉市」が隣接しており、「四街道市」の「市」の「東縁」を「利根川水系」の「鹿島川」が「印旛沼」(2011年2月3日のブログ参照)へと「北流」しています。
「四街道市」の「市」の「中央部南方」を「JR総武本線」が「南東」から「北西」に、「四街道市」の「中央部北方」を「東関東自動車道」が「東西」に走っており、「四街道市」の「中央部南方」に「四街道駅」が、「四街道市」の「北東部」に「物井駅」と「東関東自動車道」の「四街道IC(よつかいどうインターチェンジ)」があり、「四街道市」の「南部」を「国道51号線」が「南東」から「北西」に走っており、「吉岡交差点」は、「交通情報」の「渋滞情報」でよく登場するそうです。
「四街道市」の「市域」「大半」は「印旛沼」「南側流域」の低い「台地」となっており、「樹枝状」の「谷津田」が「多数」切れ込んでいるそうです。
「四街道市」の「主要」な「谷津田」は、「東部」から「南部」の「鹿島川」とその「支川」、「中央部」の「手繰川」「源流」、「西北部」の「勝田川」「支川」となっており、「西部」のごく一部が、「津川水系」「葭川(よしかわ)」の「流域」となっています。
「四街道市」「全体」として「印旛沼」へ流れ込む「河川」に沿った、「南」が高く「北」が低い「微傾斜」となっており、「四街道市」の「最低標高点」は、「最北端」の「鹿島川」へ「小河川」が流れ込む「合流点」で、約5m、「四街道市」の「最高標高点」は、「最南部」の「吉岡新開」の「御成街道」付近で、40m強となっています。
「四街道市」の「市名」の「由来」ですが、「四街道駅」から「西」に500mほどの「場所」(現在の「四街道十字路」)に、「北 成田山道」、「南 千葉町道」、「東 東宇がね(東金)道、馬渡道」、「西 東京、船橋道」という「名」がついたそうです。
(「和良比地区」に「字・四海道」も存在します。)
ちなみに近くには「御成街道」や「千葉街道」、「成田街道」や「佐倉街道」(年貢道)がありますが、「成田街道」と「佐倉街道」が交わるのは「佐倉城下」であり、これらの「街道」は「四街道」の「地名」とは「直接」関係がないそうです。
「和良比皇産霊神社(わらびみむすびじんじゃ)」ですが、「四街道市」「和良比地区」に鎮座する「神社」で、「和良比皇産霊神社」の「御祭神」ですが、「高皇産霊大神(たかみむすびのおおかみ)」が祀られています。
「和良比皇産霊神社」は、「JR四街道駅」の「南」1km程の辺り、「千葉郊外」の「住宅地」の「外れ」に鎮座しています。
「和良比皇産霊神社」は、「和良比どろんこ祭り」が行われていることでも知られている「神社」ですが、もともとは「大六天」が祀られていた「和良比大六天社」であったそうです。
古くに「勧請」されたといわれている「和良比大六天社」には、「大六天」の他に「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」と「高皇産霊大神」が祀られていたそうです。
江戸時代、「和良比皇産霊神社」は、もとは「西」に数百m離れた「字御屋敷」という「場所」に鎮座していたそうで、そこは「神仏習合」の「地」で、同じ「建物」の「半分」が「真言宗豊山派」の「吉祥院」(創建年不明)という「寺院」、残りの「半分」が「皇産霊神社(みむすびじんじゃ)」となっていたそうです。
明治時代の「神仏分離令」により、「真言宗豊山派」「吉祥院」と「皇産霊神社」を分離、「皇産霊神社」を「大六天社」に合祀し、現在に至るかたちとなっていったそうです。
その結果、「字御屋敷」には「真言宗豊山派」「吉祥院」、「字中山」には「皇産霊神社」が、鎮座するかたちになり、現在でも、その「名残」として、「和良比皇産霊神社」「社殿」に掲げられている「額」には、「大六天」とあります。
「和良比はだか祭り」ですが、「和良比皇産霊神社」と「神社」「隣」の「和良比ヶ丘公園」内「神田(かみた)」で行われる「神事」・「伝統行事」です。
「和良比はだか祭り」の「原型」ですが、明治初年に「真言宗豊山派」「吉祥院」から「和良比皇産霊神社」が遷宮する際に執り行われた「まつり」とされており、古くは「和良比皇産霊神社」に合祀されている「厄除神」として「信仰」の篤い「大六天」の「まつり」であったそうで、「御遷宮」の際に「御手洗池(みたらいいけ)」(神田)で「水ごり」した「習慣」が「はじまり」といわれています。
現在「和良比はだか祭り」は、「子供」の「無病息災」、「五穀豊穣」を祈る「まつり」として行われています。
「和良比はだか祭り」ですが、「和良比皇産霊神社」で執り行われる「神事」には、「一般」の「参加」はできないそうですが、「和良比皇産霊神社」「隣」「和良比ヶ丘公園」内「神田」で行われる「幼児祭礼」、「泥投げ」、「騎馬戦」は、「一般」の「参加」もできるそうです。
「和良比はだか祭り」は、上記のように「五穀豊穣」と「厄除け」を祈る「和良比皇産霊神社」の「伝統行事」で、「通称」「どろんこ祭り」として広く知られています。
「和良比はだか祭り」「当日」ですが、「豊作」を祈願する「神事」で始まり、「裸衆祭礼」、「神田」(または「御手洗池」)で、「しめ縄」の「わら」を「稲」に見立て「田植え」をするそうです。
「和良比はだか祭り」の「神事」では、30〜40人の「締め込み」の「裸衆」が「身」を清めた後、上記のように「和良比皇産霊神社」「社殿」の「注連縄(しめなわ)」の「わら」を「稲」に見立てて、「神社」の「下」にある「神田」で、「田植え」を行い「豊作」を祈ります。
続いて「和良比はだか祭り」では、「幼児祭礼」、「騎馬戦」、「泥投げ」と続き、「通称」「どろんこ祭り」の「名称」の通り、「泥だらけ」の「お祭り」になるそうです。
「幼児祭礼」ですが、「子ども参り」となっており、この日に備えて着飾った「満1歳未満」の「赤ん坊」(「幼児」)を抱え、「神田」にて「額(ひたい)」に「泥」を塗ります。
「赤ん坊」(幼児)の「額」に「泥」を塗ってもらうと「厄除け」になると伝えられています。
「幼児祭礼」で「赤ん坊」(幼児)への「祝福」が終わると、「裸衆」に「御神酒(おみき)」が振る舞われ、「和良比はだか祭り」は、いよいよ「メインイベント」へ、「騎馬戦」に続いて「壮絶」な「泥合戦」を3回繰り広げるそうです。
「和良比はだか祭り」の「泥合戦」(泥投げ)の「合間」には、「和良比皇産霊神社」「境内」で「焚き火」を囲み「裸衆」が「暖(だん)」をとり、さらに「酒」(御神酒)が入るそうです。
「暖」をとり、「酒」の「勢い」もあることから、「和良比皇産霊神社」に「裸衆」の「熱気」があふれ、3回行われる「壮絶」な「最終戦」(最終合戦)ですが、「酔い」も手伝い、激しい「泥」の「投げ合い」が行われるそうです。
「和良比はだか祭り」では、参加している「ふんどし姿」の「裸衆」が「泥まみれ」になるばかりでなく、「観衆」にも「泥」が飛んでくる「迫力」がある「まつり」で、最後は、「神社総代」(神職)の「胴上げ」を行い「和良比はだか祭り」はお開きとなるそうです。
「和良比はだか祭り」「日程」ですが、下記の通りとなっています。
開催日 毎年2月25日
開催時間 13時00分頃〜15時00分頃
当日次第
時間 内容
11時00分〜 祭礼(神事・氏子のみ)
(見学不可)
13時00分〜 裸衆祭礼(お祓い)、幼児祭礼(子ども参り)、泥投げ・騎馬戦、総代胴上げ
(一般見学可)
15時00分頃 終了
「和良比地区」の「産土神」「和良比皇産霊神社」で開催される「神事」・「伝統行事」「和良比はだか祭り」。
この機会に「四街道市」に訪れてみてはいかがでしょうか?
「和良比はだか祭り」詳細
開催日時 2月25日(水) 13時〜
開催会場 和良比皇産霊神社 四街道市和良比692
問合わせ 四街道市産業振興課 043-421-6134
備考
「四街道市」ですが、その名の通り、四つの「街道」、「東」・「東金道」・「馬渡道」、「西」・「船橋道」、「南」・「千葉町道」、「北」・「成田山道」が交わる「場所」であり、「人」、「物」、「情報」の「交流地」でもあり、「JR四街道駅」から「南西」へ500mほど行(い)った「四街道十字路」の「傍ら」には、「駒形方面」の「道標石塔」が立っています。