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「菜の花の名所」「甚兵衛公園」(成田市)
 本日二つ目にご紹介するのは、近隣市「成田市」の「菜の花の名所」「甚兵衛公園」です。

 「菜の花」は、「アブラナ」または「セイヨウアブラナ」の別名のほか、「アブラナ科アブラナ属」の「花」です。
 「菜の花」は「食用」、「観賞用」、「修景用」に用いられます。
 「春」に、一面に広がる「菜の花畑」は壮観で、代表的な「春」の「風物詩」でもあります。

 「成田市」にある「甚兵衛公園」(2011年2月16日のブログ参照)は、義民「佐倉宗吾」のために掟(おきて)を破り「渡し舟」に出し、送り届けた後、「印旛沼」に身を投じたといわれる「渡し守」「甚兵衛」の名前が由来となっている「公園」で、「千葉県立印旛手賀沼自然公園」の一部です。

 「宗吾霊堂」(2010年12月23日のブログ参照)に祀られています「佐倉宗吾」こと「佐倉惣五郎(木内惣五郎)」は、「藩主」「堀田氏」による苛政を直訴するべく「江戸」へと向かい、この渡しで「舟」を乗りました。
 「渡し守」「甚兵衛」が、禁を破って「惣五郎」を「印旛沼」対岸の「吉高」まで送り届けたという伝承が「甚兵衛公園」に残っています。
 現在「印旛沼」の畔(ほとり)には、「甚兵衛」の「供養塔」と「石碑」があります。

 「甚兵衛公園」は、季節ごとに咲く「花」が見事なことで知られており、「春」には「菜の花」、「秋」には「秋桜」があたり一面に咲き乱れます。
 特に「菜の花」は、「黄色一杯」の「花畑」が広がり、満開になると「黄金色の絨毯(じゅうたん)」を敷き詰めたように綺麗に咲いています。

 また「甚兵衛公園」には、50本余りの「紅白梅」の「木」が植えられています。
 今年は「寒波」の影響で2月中はまだ蕾(つぼみ)で、これから見頃を迎えると思われますが、「黄色」・「白色」・「紅色」といった色とりどりの「梅の花」を楽しむことができるようです。

 四季折々の「花」が咲き誇る「公園」「甚兵衛公園」。
 「菜の花」や「梅の花」を愛でに「成田市」に訪れてみませんか?

 「甚兵衛公園」詳細

 所在地  甚兵衛公園 成田市北須賀1626

 問合わせ 成田市観光プロモーション課 0476-20-1540

 備考
 「甚兵衛公園」周辺には、「佐倉宗吾」の「旧宅」があり、「原生林」も広がっていて、「散策」に適しています。
 また「甚兵衛公園」の「松の木」は「日本の名松100選」に昭和58年(1983年)5月に指定されています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=974 |
| 地域情報::成田 | 11:31 AM |
「祭頭祭(さいとうさい)」「鹿島神宮」(鹿嶋市)
 本日ご案内するのは、近隣市「鹿嶋市」「鹿島神宮」とその周辺で来週の3月9日(金)に行われます「祭頭祭(さいとうさい)」です。

 「祭頭祭」を行う「鹿島神宮」(2010年11月8日・9日・10日のブログ参照)の「創建」は、神武天皇即位年の皇紀元年(紀元前660年)といわれています。
 武神の「武甕槌大神(たけみかずちのおおかみ)」を「御祭神」としており、そのため「鹿島神宮」周辺は「武芸」が盛んとなり「剣聖」・「塚原卜伝(つかはらぼくでん)」(2011年11月29日のブログ参照)を生んでいます。
 「鹿島神宮」は「皇室」・「公家」・「武士」に関わらず長く尊崇され続け、現代に至っています。
 「鹿島神宮」「本殿」は、「国」の「重要文化財」になっており、「宝物館」には「茨城県」唯一の「国宝」である「直刀」「ふつのみたまのつりぎ」が展示されており、そのほか「国」・「県」指定の「文化財」が多く所蔵しています。
 「鹿島神宮」境内の「鹿園」には「奈良」「春日大社」から譲り受けた「鹿」がいます。
 ちなみに「Jリーグ」の「鹿島アントラーズ」のチーム名「鹿の枝角(antlerアントラー)」は、ここの「鹿」にちなんでいます。

 「祭頭祭」は「鹿島神宮」の「祭典」で、「鹿島立ち」にちなむ重要な「祭」です。
 「祭頭祭」は、奈良時代の防人の出発(「鹿島立ち」)と、帰還の様子に由来する「祭」とされており、「鹿島神宮」の年間80回以上もある「行事」でも、もっとも規模の大きな「祭典」だそうです。

 「祭頭祭」の「起源」は、奈良時代の天武朝とも平安時代ともいわれますが、文献に出てくるのは、建仁4年(1204年)とされ、この時は「片野」の「長保寺」と「平井」の「宝持院」が「祭」の「世話役」を勤めているそうです。
 「祭頭祭」は、明治までの「神仏習合」の時代には2月15日の「釈迦入滅」の「常楽会」(涅槃会)と習合していました。
 その名残から今でも男子の「大総督」を「新発意」というそうです。
 また、勇壮な「棒祭り」から「いくさの神」としての「鹿島神宮」の「神徳」と重ねて「悪路王退治の余風(昔からの風習)」という解釈がされていた時代もあるそうです。
 昭和初期には、「戦争」に出兵する「兵士」を鼓舞(こぶ)する「防人の祭り」とされていました。
 しかし「祭頭祭」は本来、地元に密着した「五穀豊穣」・「天下泰平」を祈る「記念祭」の一種であり、「祭り」が終わると「鹿行地方(ろっこうちほう)」では「農作業」が本格化します。

 「祭頭祭」は、朝10時から前年の「春季祭」で卜定された左方・右方両当番字の「大総督」が「狩衣装」で「家族」や「役員」に護られながら「社殿」にあがり「神事」が執行されます。
 「祭頭祭」のあと、「大総督」や両字の人々は、「本陣」に定めた「ホテル」などで休憩のあと、正午前から巡行を始めます。
 「行列」の先頭ですが、「囃し人」の一人が、「天下泰平 春季祭」などと書いた「軍配団扇(ぐんばいうちわ)」を振り回しながら進み、「大総督」が続きます。
 「大総督」は、「甲冑(かっちゅう)」に身を固め、「大黒頭巾(だいこくずきん)」を被った「人」に肩車されて巡航します。
 続いて「役員」や「家族」、「神職」が進み、「囃し人」がそれに続き、総勢1000人以上(両方)にもなるという「大行列」になるそうです。

 「囃し人」は、「赤」・「青」・「黄色」などの色とりどりの「衣装」を着て、色鮮やかな「襷(たすき)」を数本かけ、「キャラクター人形」・「般若(はんにゃ)」・「おかめ・ひょっとこ」の「面」、「鈴」などで飾り付けられています。
 「囃し人」は、10〜20人の「班」に分かれ、「太鼓」を腰に付けて叩く「人」の周りを囲んで「鹿島神宮祭頭歌」を歌いながら長さが六尺(1.8m)の「樫(かし)の棒」を組んだりほぐしたりします。
 また「各班」には、「企業」などが奉納した「馬簾(ばれん)」が煽ります。

 「囃し」が終わると「本陣」で休息後、「狩衣」の「大総督」や「役員」、「家族」は、18時から「春季祭」に参列します。
 「春季祭」では来年の当番字が卜定されます。
 卜定された2字(あざ)は、「物申神職」(1年間祭事を担当する神職)により、
 「来(きた)る○○年春季祭当番、神慮を以て卜定候字、左方の大頭、大字、・・・。
 右方の大頭、大字、・・・。」
 と読み上げられるそうです。

 卜定された「字」は、「鹿島神宮」の「大神」により「神」を来臨さしめ、「降神祭」により「鹿島神宮」の「分霊」を1年間「字」に合祀され、「見そなわし」(神が見守り)、「安寧」(おだやかで平和)と「弥栄」(いよいよの繁栄)をもたらされるといいます。
 なお、「祭頭囃し」の奉納は、この1年の「報祭」(祈願成就のお礼の祭り)であるといわれています。

 「鹿島神宮」に伝わる「伝統行事」「祭頭祭」。
 「鹿島神宮」で行われる規模の大きな「祭典」を見に「鹿嶋市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「祭頭祭(さいとうさい)」詳細

 開催日時 3月9日(金) 10時〜

 開催会場 鹿島神宮 鹿島神宮周辺 茨城県鹿嶋市宮中2306-1

 問合わせ 鹿島神宮社務所 0299-82-1209

 備考
 「祭頭祭」の「大総督」は、「神事」には「狩衣」を装着、「囃しの行列」では「甲冑」に身を固めます。
 「甲冑」の「重量」だけで約15kgもあり、「大総督」役や担ぐ「人」は大変だそうです。
 「祭頭祭」は、昭和51年に「国選択無形民族文化財」に指定されています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=973 |
| 地域情報::鹿島 | 08:45 AM |
「町原大銀杏」(乳銀杏)(横芝光町)
 本日二つ目にご紹介するのは、近隣市「横芝光町」にある「町原大銀杏」(乳銀杏)です。

 「町原大銀杏」(乳銀杏)は、「稲荷大神乳銀杏」とも呼ばれている「横芝光町」にある「イチョウ」です。
 「町原大銀杏」(乳銀杏)は「稲荷大神」の「イチョウ」で、「イチョウ」の「乳」と称する「木根」も多数発しているそうです。
 なお「町原大銀杏」(乳銀杏)は樹齢500年と推定されています。
 「町原大銀杏」(乳銀杏)の「幹回り」は6.5mで、「根元」に垂れる「樹乳」は「女人信仰」の対象ともなっています。

 「町原大銀杏」(乳銀杏)の「由来」として「乳与えの伝説」もあり、次のように伝えられています。

 昔、ここにひとつの寺がありました。
 その庭には一本の「銀杏」が天に覆うように枝を生やしていました。
 里の人々や旅人はこの寺に立ち寄り木の下でひとやすみするのが常でした。
 ところが、あまりにたくさん枝を広げ過ぎてしまったので、寺のお坊さんが、枝を全部切り落としてしまいました。
 木陰を頼りにしていた人々は落胆しました。
 ある夏のこと、乳飲み子を抱いた女の人が「銀杏」の木の根元に倒れていました。
 可哀想に想った近所の人が家に連れ帰り介抱してやると、その夜に
 「毎朝子供を銀杏の木の根元に置いてください。
 そっと乳を飲ませに来ます。」
 という手紙と子供を残し、姿を消してしまいました。
 近所の人は手紙通りに毎朝「銀杏」の木の下に子供を置いてきましたが、一度も女の人の姿を見かけることがありませんでした。
 それにもかかわらず、子供はすくすくと育ち、一人で立てるようになったある日、その子供も姿を消してしまいました。
 そして、その後、切り落とされた「銀杏」の幹から出た新しい枝に乳房のような形をした樹瘤が垂れ下がっていました。
 近所の人々は
 「きっとあの女の人が銀杏に乗り移って子供を育てていたのであろう」
 と噂をしました。
 その後、寺は廃れてしまい、「銀杏」の木だけが残りました。
 人々は「乳銀杏」と呼んで、今も大切にしています。

 見るものを圧倒する「横芝光町」の「イチョウ」「町原大銀杏」(乳銀杏)。
 昔から「旅人」たちの休憩所として親しまれている「大銀杏」を見に「横芝光町」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「町原大銀杏」(乳銀杏)

 所在地  山武郡横芝光町木戸台1919

 問合わせ 横芝光町社会文化課 0479-84-1358

 備考
 「町原大銀杏」(乳銀杏)は、昭和49年(1974年)3月1日に「横芝光町」の「天然記念物」に指定されています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=972 |
| 地域情報::匝瑳 | 11:00 AM |
「ご当地グルメ」「滋養(じよう)めし」「試食会」(横芝光町)
 本日ご紹介するのは、近隣市「横芝光町」「坂田城跡梅林」で明明後日(しあさって)の3月4日(日)に行われます「ご当地グルメ」「滋養(じよう)めし」「試食会」です。

 「滋養めし」は、「横芝光町」の「ご当地グルメ実行委員会」が、地元の「特産品」を使った「丼(飯)」、「滋養めし」を開発しました。
 「滋養めし」には、「横芝光町」は「畜産」が盛んなことから「豚のモツ」を使用。
 また「特産」の「長ネギ」「人参」「牛蒡(こぼう)」とふんだんに使用し、一緒に「味噌」で煮込むというものです。

 「滋養めし」は、「横芝光町商工会」が、約2年前より「ご当地グルメ」で「町の活性化」を目指し「ご当地グルメ実行委員会」を立ち上げ、開発しました。
 昨年(2011年)11月20日(日)に行われました「第6回横芝光町産業まつり」(2011年11月13日のブログ参照)では、約100食の「試食会」とそれに伴う「アンケート」を実施。
 「滋養めし」「試食会」は、大人気であっという間に100食なくなってしまったそうです。
 そして「アンケート」の結果は、概(おおむ)ね「美味(おい)しい」との意見であったそうです。
 そして本年(2012年)1月31日にも「横芝光町役場」「職員」の約40名に協力してもらい、「試食会」を実施し、サンプルをもらったそうです。

 もともと「滋養飯」とは、「横芝光町」出身で、「日本」の「ハム」・「ソーセージ」の「父」と言われる「大木市蔵」さんが、「関東大震災」の際、「肉」や「野菜」を使って「被災者」に振る舞った「汁かけ丼」なのだそうです。
 「大木市蔵」さんは、1896年に生まれ、学校を卒業後、「江戸清」という「豚肉」の「解体加工」の「見習」を経て、「ドイツ人」の「マーテン・ヘルツ」氏から「ソーセージ作り」を教わり、18歳の時「合資会社サシズ屋商会」を設立、日本中に「ソーセージ」などの「加工技術」を伝えていったそうです。
 1974年に亡くなるまで、「日本」の「ソーセージ」普及に大きく貢献されました。
 (「サシズ」とは「ソーセージ」のことで、「ソーセージ」のつまった言い方だそうです。)

 今回開発した「滋養めし」は、「大木市蔵」さんの「滋養飯」を練り直したものなのだそうで、「町営食肉センター」の新鮮な「豚のモツ」、「レバー」、「ハラミ」それに「ゴボウ」、「ニンジン」を「味噌ベース」の「味付け」でじっくり煮込み、「横芝光町」「特産」の「長ネギ」をのせたもので、栄養満点でヘルシーな「丼」に仕上がったそうです。

 そして、この度(たび)現在行われています(2月11日〜3月11日)「坂田城跡梅まつり」(2月7日のブログ参照)にて、「横芝光町」「ご当地グルメ」「滋養めし」「試食会」を実施します。
 「ご当地グルメ」「滋養めし」「試食会」は、3月4日(日)に行われ、100食限定無料となっています。

 「横芝光町」「坂田城跡梅まつり」にて行われます「ご当地グルメ」「滋養めし」「試食会」。
 この機会に「横芝光町」の「ご当地グルメ」を試食してみませんか?

 「ご当地グルメ」「滋養めし」「試食会」詳細

 開催日時 3月4日(日) 11時半〜

 開催会場 坂田城跡梅林内 (「坂田城跡梅まつり」にて出展)

 問合わせ 横芝光町商工会 0479-82-0434

 備考
 今年の「坂田城跡梅まつり」は、「厳冬」のため、「梅の花」が「蕾(つぼみ)」で、「開花」していない「梅の木」が多いようです。
 今週も寒さが続くようですので、「梅」の「開花」が心配です。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=971 |
| 地域情報::匝瑳 | 11:00 AM |
「十二座神楽」「木内大神」(香取市)
 本日二つ目にご案内するのは、となりまち「香取市」「木内大神」で明明後日(しあさって)の3月3日(土)に開催されます「十二座神楽」です。

 「木内大神」は、「香取市木内地区」にある「神社」です。
 「木内大神」は、大同年間の創建で、「豊受姫命(とようけびめのみこと)」を「伊勢神宮」「外宮」から勧請しました。
 古くは「大納言」「四条隆房」がこの地を「領地」とした時に保護し、「木内胤朝」(「東胤頼」の子)が「社殿」を造営、「神領」を納め一族の「祈願所」としました。
 「千葉氏」や「北条氏」の「崇敬」が厚く「伏見天皇」の「直筆書」が献ぜられています。

 天正7年(1589年)「粟飯原氏」が「社領」を、天正9年(1591年)「徳川家康」が「朱印地」の一部を寄付、慶長7年(1602年)「土井利勝」が「馬具一式」を納めています。
 寛永16年(1639年)にこの地を領した「内田氏」も崇敬し、元文元年(1736年)「関宿城主」「久世大和守」も「祈願所」と定めていました。
 「木内大神」は、天明7年(1787年)に「正殿」を改造、大正9年(1920年)に「本社」、「拝殿」、「社務所」を改造しています。

 「木内大神」「十二座神楽」の起源は明確ではありませんが、江戸後期の文化年間(1804〜1818年)に執行されたこと、文政12年(1829年)に「神楽面」11面(個)を修理を加えること等記録にあり、それ以前から行われていたと伝えられています。
 明治以前は、最寄りの「神職」が相会して奉仕し、明治初期頃から「氏子の青年」により行われるようになったそうです。
 現在は、「地元の有志」で組織する「木内神楽保存会」によって「十二座神楽」が継承され、「氏子の安泰」と「五穀豊穣」・「商売繁盛」を祈願し、3月3日の「祭礼」に奉納されています。
 「木内大神」「十二座神楽」は、「神楽」の「古格」をよく保存するとともに、独特の「郷土色」が加わった「神楽」なのだそうです。

 「木内大神」「十二座神楽」の伝わる「木内地区」は、「正倉院」に伝わる天平20年(748年)の文書に「下総国海上郡城内(木内)郷」と記述され、奈良時代から今日まで残されている「地名」です。
 「木内地区」の中心部に、「豊受姫命」を「御祭神」とする「木内大神」が鎮座し、「例祭」は毎年3月3日に執り行われています。
 その際に奉納されてきたのが、「十二座神楽」(「木内神楽」)です。

 「木内大神」「十二座神楽」当日は、「神社」でお祓(はら)いした後、正午過ぎから「神楽殿」で行われます。
 「猿田彦命」(天狗の舞)から始まり、「三宝荒神」(かまど神)・「天鈿女命」・「天児屋根太王命」・「天乙女命」・「手刀男命」(岩戸開)・「榊葉」・「受持命」・「八幡」・「恵比寿」(鯛釣り)・「稲荷大明神」(種子蒔)・「素戔鳴命」(〆切り)の「順」に「12演目」を演じ、最後の「演目」が終わるのが17時頃になるそうです。

 「古事記」や「日本書紀」の「神話」を題材に、舞踏化した「岩戸神楽」・「神代神楽」の系譜にあるといわれ、「舞」の構成は、「仮面神」による「一人舞」を基本とし、さまざまな「持ち物」を使い、「お囃子」は「横笛」と「太鼓」などが用いられています。

 古来より続く「木内大神」「十二座神楽」。
 歴史ある「伝統芸能」を見に「香取市木内地区」に訪れてみませんか?

 「十二座神楽」「木内大神」詳細

 開催日時 3月3日(土) 12時〜17時

 開催会場 木内大神 香取市木内1166

 問合わせ 香取市生涯学習課 0478-50-1224

 備考
 「農村」の「信仰」とも融合した「地域的特色」をもつ「十二座神楽」は、「愛宕神社」(府馬・2月下旬)、「稲葉山神社」(長岡・2月下旬)、「八重垣神社」(新里・3月20日)、「山倉大神」(のブログ参照)(山倉・4月上旬)、「境宮神社」(一ノ分目・3月下旬・4月3日)、「須賀神社」の「祭礼」(4月3日)でも奉納されているそうです。
 また「香取市」では、「十二座神楽」を「市」の「無形民族文化財」に指定しています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=970 |
| 地域情報::香取 | 10:05 AM |
「浅間山古墳(せんげんやまこふん)」(栄町)
 本日ご紹介するのは、近隣市「栄町」の「浅間山古墳(せんげんやまこふん)」です。

 「浅間山古墳」は「印旛郡栄町」にある「竜角寺古墳群」(2月25日のブログ参照)に属します。
 「浅間山古墳」は、7世紀前半に築造されたと考えられる「前方後円墳」です。

 「浅間山古墳」が属する「龍角寺古墳群」は、「古墳時代」後期の6世紀第二四半期に「古墳」の造営が始まりました。
 「古墳群」は現在までに114基の「古墳」の存在が確認されていますが、「浅間山古墳」は「古墳群」内最大の「前方後円墳」で「墳丘長」は78mとされています。

 「浅間山古墳」には「復室構造」の「横穴式石室」があり、「石室」は「筑波山」付近から運ばれた「片岩」の「板石」を用いて築造されており、「石室」内からは「金銅製冠飾」、「銀製冠」、「金銅製の馬具」や「挂甲」などが出土しています。

 「墳丘」からは「埴輪」は検出されておらず、「前方後円墳」最末期の「古墳」であることは間違いないとされるが、「石室」の構造や「出土品」から「浅間山古墳」の「造営」を7世紀第二四半期という新しい時期を想定する「研究者」もあり、一般的には6世紀末から7世紀初頭と考えられている「前方後円墳」の「終焉時期」との関係で論議を呼んでいる「古墳」なのだそうです。

 「龍角寺古墳群」を造営した「首長」は「印波国造」と考えられており、「浅間山古墳」の造営以前は、同じ「印旛沼」北東部にある「公津原古墳群」を造営した「首長」の勢力が「龍角寺古墳群」を造営した「首長」を上回っていたと考えられていますが、6世紀末以降、勢力を強めた「龍角寺古墳群」を造営した「首長」は、周辺地域で最も大きい「前方後円墳」の「浅間山古墳」を造営し、その後、日本最大級の「方墳」である「岩屋古墳」(2月27日のブログ参照)を造営し、更には7世紀後半には「龍角寺」を創建したと考えられています。

 「浅間山古墳」を含む「龍角寺古墳群」は、「古墳時代」後期から「龍角寺」の創建に代表される「飛鳥時代」にかけての「地方首長」のあり方を知ることができる重要な「遺跡」と評価されています。
 「古墳群」のうち、「岩屋古墳」は1941年に単独で「国の史跡」に指定されていましたが、2009年2月12日付けで、「浅間山古墳」を含む周辺の「古墳群」が追加指定され、「指定史跡名称」は、「龍角寺古墳群・岩屋古墳」と改められました。
 また、「浅間山古墳」の「出土品」は2009年3月4日、「千葉県」の「有形文化財」に指定されています。

 「龍角寺」が造営されたのとほぼ同時期に、「香取神宮」(2010年11月5日・6日のブログ参照)と「鹿島神宮」(2010年11月8日・9日・10日のブログ参照)の「社殿」が造営されたとの見方もあり、これもやはり「香取海」を通して「常陸」、そして「東北方面」へ向かうルートを「ヤマト王権」が重要視していたことの表れと見られています。
 「龍角寺古墳群」を作った「印波国造」と考えられる「首長」は、「ヤマト王権」が重要視する「交通路」を押さえることにより「王権」との結びつきを強め、「浅間山古墳」に示されるようにその力を強めたとされています。

 また「龍角寺古墳群」の近くには「植生郡衙」跡とされる「大畑遺跡群」があります。
 これは6世紀の「古墳時代」後期以降、「龍角寺古墳群」を造った「首長」は、7世紀後半の「龍角寺」建立、そして「律令制」が成立した後も「郡司」となってその勢力を保ったことを示唆(しさ)しており、「龍角寺古墳群」の画期である「浅間山古墳」の持つ意味は大きいといえます。

 往時をしのぶ「古墳群」の中、異彩をはなつ「浅間山古墳」。
 古代の歴史散策のできる「印旛郡栄町」にお出かけしませんか?

 備考
 「浅間山古墳」の「石室」と「石棺」に使用された「片岩」は、「筑波山」周辺からもたらされています。
 これは「金鈴塚古墳」の「石棺」が「埼玉県」の「長瀞」付近から運ばれた「石材」を用い、一方、「埼玉古墳群」の「将軍山古墳」では、「石室」に「千葉県富津市」の「海岸」から運ばれた「石」を用いているのと同様の現象であり、「浅間山古墳」の「披葬者」も「関東地方」の「他地域」の「首長」との連携を深めていたことがわかります。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=969 |
| 地域情報::成田 | 10:04 AM |
「道の駅オライはすぬま」「オープン7周年記念創業記念感謝祭」(山武市)
 本日二つ目にご紹介するのは、近隣市「山武市」の「道の駅オライはすぬま」で今週末の3月3日(土)・4日(日)の2日間「オープン7周年記念創業感謝祭」です。

 「蓮沼海浜公園」(2011年7月23日のブログ参照)からも程近い人気の「道の駅」「オライはすぬま」(2010年8月23日のブログ参照)。
 「道の駅オライはすぬま」が7周年を記念して今年も「感謝祭」を開催するそうです。

 「道の駅オライはすぬま」は、「山武市」(旧「山武郡蓮沼村」)の「主要地方道」「千葉県道58号」「松尾蓮沼線」上にある「道の駅」です。
 また「成田空港」と「九十九里海岸」を結ぶ「はにわ道路」沿いに位置し、「九十九里の観光スポット」へ訪れたが多く立ち寄る「施設」です。
 ちなみに「オライはすぬま」の「オライ」とは「銚子」「九十九里地方」の「方言」で「私(おら)の家」という「意味」です。
 「道の駅オライはすぬま」は、2004年8月9日に「第20回」に「道の駅」登録、2005年3月6日に「開駅」しました。

 「道の駅オライはすぬま」の「施設概要」ですが、「駐車場」普通車73台、大型車4台、身体障害者用3台、「トイレ」、「情報コーナー」、「物産館」「喜太陽(きたいよう)」、「レストラン」「蓮味」となっています。

 今回開催される「オープン7周年記念創業感謝祭」では、「野菜の詰め放題」や「つきたて餅」の「無料サービス」に加え、3月3日(土)には、「和太鼓演奏」・「歌謡ショー」を行い、3月4日(日)には、「よさこいソーラン」・「歌謡ショー」などのイベントを開催し、会場を盛り上げるそうです。
 また両日(3月3日・4日)とも「テント販売」や「大抽選会」を行うそうです。

 「道の駅オライはすぬま」の人気の「物産館」「喜太陽」では、「旬」の「野菜」をはじめとする「地場産品」や「九十九里土産」が揃うほか、「レストラン」「蓮味」では名物「いわし丼」など人気のレパートリーを用意。
 また「道の駅オライはすぬま」では、毎週土日には定期的にイベントも開催されるなど、「九十九里」の「観光拠点」として「役割」を果たしています。

 「九十九里随一」の「観光拠点」「道の駅オライはすぬま」で行われる「7周年イベント」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「道の駅オライはすぬま」「オープン7周年記念創業感謝祭」詳細

 開催日時 3月3日(土)・4日(日) 9時〜18時

 開催会場 オライはすぬま 山武市蓮沼ハ4826

 問合わせ 道の駅オライはすぬま 0475-80-5020

 備考
 「道の駅オライはすぬま」は、原則第一月曜日を「休館日」としていたそうですが、4月より「休館日」を廃止し、原則無休の体制に移行するそうです。













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| 地域情報::九十九里 | 08:40 AM |
「木曽義昌(きそよしまさ)」と「東漸寺(とうぜんじ)」(旭市)
 本日ご紹介するのは、となりまち「旭市」ゆかりの人物「木曽義昌(きそよしまさ)」公と「東漸寺(とうぜんじ)」です。

 「木曽義昌」公は、天文9年(1540年)、「木曾福島城主」「木曾義康」の嫡子(長男)「宗太郎」として誕生し、「信濃国木曾谷」を領有していた「朝日将軍」として「勇名」を馳せた「木曽義仲」の子孫となる「戦国武将」です。

 「木曾氏」は、豊富な「美林」と「交通の要衝」を押さえていたものの、「山国」のため、「水田」と「領民」が少なく周辺「隣国」はいずれも「強国」で、「義昌」公の「生涯」は「隣国」との「駆け引き」と「戦い」に明け暮れたたいへんな日々だったといわれています。
 「木曽家」の「主(あるじ)」として、「武田信玄」・「武田勝頼」・「織田信長」・「徳川家康」、後に「太政大臣」となり、「豊臣」の「姓」を称する「豊臣秀吉」などの間で「勢力」をつけました。

 その後の天正18年(1590年)「豊臣秀吉」の「北条氏征服」のための「小田原城攻め」に、「息子」の「義利」を代理として参加させたことで「豊臣秀吉」から「疑惑の目」で見られることとなり、同年8月に「豊臣秀吉」に命じられ、「山国」である「信濃国木曾谷」から「潮騒の地」である「下総蘆戸城」(旭市網戸)へ「一万石」で移封されこの地方を治めることになりました。
 (この時「木曽義昌」公は、「木曾谷」の「領地」は失いました。)

 その5年後の文録4年(1595年)3月17日に、「病」のため56歳で「木曾の地」に帰ることなく波乱に富んだ「生涯」を「旭の地」で終えました。
 (その後、「木曾氏」はその子、「木曾義利」の時に廃絶されてしまったそうです。)
 「木曽義昌」公の「遺体」は、「城」の北西方の「椿湖」に水葬されたそうです。

 わずか5年の在世でしたが、「木曽義昌」公の「網戸」での「徳政」に満ちた「まちづくり」は、400年以上経た現在でも「旭市内」で語り継がれているそうです。
 そして「水葬」された「椿湖」は、後に干拓されてしまいましたが、「墓」のある一帯であるこの地は、「木曽義昌公史跡公園」となり「国道」の喧騒(けんそう)の中、「憩いの場」になっており、「木曽義昌公史跡公園」横には、「名所旧跡」として「木曽義昌」公の「石碑」、「銅像」も建立されています。

 「石碑」には、次のように記されています。

 (原文まま)
 木曽左馬頭兼伊豫守源義昌公は朝日将軍木曽義仲公19代の子孫にして奥方は武田信玄の息女万里姫なり、天正18年8月義昌公はその子義利と共に徳川氏の武将として遠く木曽福島から下総網戸城に移り来り1万石を領せらる。
 木曽氏の宿将山村甚兵衛、千村平右衛門、馬場半左衛門等の屋敷は城の屋敷は城の東南西南に配置され、城下を画して街づくりを行い、ために網戸村繁栄す。
 木曽義昌公は木曽家累代の菩提所として城の一隅に東漸寺を建立し木曽より随身の悦道和尚によって開基せらる。
 義昌公は戦国の武将なれども頗る奉佛祟祖の念篤く領民に善政に施せり領民その徳を偲び公を当地興隆の祖と仰ぎ参拝の絶ゆる事なし。
 文禄4年3月17日義昌公薨じ遺言に依り城の亜北の江中に葬り奉る。
 其砌は漫々たる椿湖の入江なりしが元禄年間椿湖開発され御水葬の辺りも干潟と成りし故御墓を改修し今に至る。
 とあります。

 「東漸寺」は、「旭市」にある「真言宗智山派」の「寺院」で「殿玉山西徳院」と号し、「御本尊」は「愛染明王」です。
 「東漸寺」は永禄2年(1593年)「下総国網戸」1万石の「領主」「木曽義昌」公の開基、「悦堂」の開山により創建された「寺」です。

 「東漸寺」は、「木曽義昌」公が天正18年(1590年)に「下総網戸城」に入場した後、城内の一部に「木曽家累代」の「菩提所」として建立された「寺」で、「木曽義昌」と夫人「万里姫」の「供養塔」があるそうです。
 「東漸寺」では、静かなたたずまいの中に、中世武将の悲劇を物語っているようです。

 また「桜」の好きな「木曽義昌」公のために「桜」が植えられ「桜」の「名所」として知られています。
 「木曽義昌」公の「墓」の前や周りには「桜並木」の「参道」ができていて、4月には、多くの「参拝者」や「花見客」で賑わいます。

 2月20日のブログ「旭の花」「椿(つばき)」の備考でも紹介しましたが、「旭市」の「市名」の「旭」という「名前」の「由来」は、「木曽義昌」公(「朝日将軍」・「木曽義仲」の19代子孫)からきているそうです。

 時代に翻弄されながらも、波乱の生涯を遂げた「木曽義昌」公。
 僅か5年の在世でありましたが、「桜木」を愛し、「城下町」をつくり、「新田開発」などに力を尽くした「旭」にゆかりのある「武将」「木曽義昌」公を偲ぶ「東漸寺」に訪れてみませんか?

 「東漸寺」詳細

 所在地  旭市イ2337

 問合わせ 東漸寺 0479-62-2564

 備考
 「下総網戸城」の「居城」跡に建つ「東漸寺」では、「木曽義昌」公の「命日」である3月17日に毎年供養を行っています。
 また「東漸寺」には、「旭市」の「指定文化財」として「懸仏」、「木曽義昌公史跡」が指定されています。

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| 地域情報::旭 | 08:33 AM |
「木下駅南骨董市(きおろしえきみなみこっとういち)」(印西市)
 本日二つ目にご紹介するのは、近隣市「印西市」「木下(きおろし)南口商店街」で今週末の3月3日(土)に開催されます「木下駅南骨董市」です。

 「印西市」「木下地区」は、江戸期以降栄えた歴史ある「宿場町」です。
 「JR成田線」「木下駅」を中心に、徒歩10分圏内にありとあらゆる生活に必要なものが揃っています。
 また隣の「茨城県」までも約2kmと、自転車で行ける距離になっています。

 「木下」周辺は「利根川」をはじめ、「弁天川」、「六軒川」、「手賀川」など、「水」の豊富な環境にあります。
 「木下の街」を歩いていると、たくさんの「橋」を見ることができます。
 近年、川岸の「遊歩道」が整備され、ゆっくりと散歩もできるようになったそうです。

 「JR成田線」「木下駅」は、107年以上の歴史をもつ「駅」で、東京近郊ではほとんど見られなくなった「木造風」のほのぼのした「田舎駅」だったそうです。
 長く「木下地区」の歴史を見つめてきた古い「駅舎」は、2008年12月に新しい「橋上駅」として生まれ変わり、その際「木下駅」の南北を結ぶ「自由通路」が開通し、「利用者」は便利になったそうです。

 「木下駅」の北口の細い道路を歩いていくと、昔ながらの「古い家屋」や「蔵」がいくつもあります。
 「家屋」が密集していて、懐かしいもの、見るとほっとする空間が「木下地区」にはたくさんあるそうです。

 「木下駅南骨董市」の会場ですが、「木下駅」「南口ロータリー」前のスーパー「ライフ」の南側に伸びる「木下南口商店街」が会場となります。
 平成15年から「地域の活性化」を目指して「木下駅南骨董市」が始まりました。

 「木下駅南骨董市」は「木下駅南骨董市実行委員会」が主催し、「木下南口商店街」が共催、「印西市」・「印西市商工会」・「印西市観光協会」の後援で開催されており、「木下南口商店街」の約200mの「通り」の両側には、「陶磁器」や「置物」、「古民具」から「おもちゃ」、「貴金属」に「着物」と出店が連なり、その数は60店以上で、県内だけでなく県外(茨城・埼玉・栃木・群馬・東京)の「業者」も参加する「骨董市」としては大きなものです。
 毎月第1土曜日に行われていて、毎月5000人もの人達でにぎわうそうです。
 また、「骨董市」に午前中に行くと、「抽選会」で「景品」がもらえることもあるようです。

 「木下駅南骨董市」では、「開催日」当日は「商店街」が歩行者天国となり安心して買い物ができ、「産地直送」の「野菜」、「弁当」や「炊き込みご飯」なども出品、「季節」によって店頭に並ぶラインナップが変わっていき、四季折々の「産物」や「実用品」、「掘り出し物」探しと盛り沢山だそうです。

 歴史ある「木下地区」「木下駅南口商店街」で行われる人気の「骨董市」。
 昔懐かしい雰囲気の中、自分だけの「逸品」を探してみませんか?

 「木下駅南骨董市」詳細

 開催日時 3月3日(土) 7時〜15時頃

 開催会場 木下南口商店街 印西市木下1521

 問合わせ ホームショップマツシタ 0476-24-7883

 備考
 「木下駅南骨董市」は、荒天中止の「催し」です。
 2月18日のブログで紹介しました「世界一大きなせんべい」は、「骨董市」が開かれる「印西市」「木下地区」の「せんべい」をブラッシュアップして作製、「ギネスブック」に「炭火で世界一大きな手焼きせんべいを焼く」で認定されています。

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| 地域情報::成田 | 10:10 AM |
「龍角寺岩屋古墳(りゅうかくじいわやこふん)」(栄町)
 本日ご紹介するのは、近隣市「栄町」の「龍角寺岩屋古墳(りゅうかくじいわやこふん)」(以降「岩屋古墳」と表記)です。

 「岩屋古墳」は、「印旛郡栄町」にある「方墳」で、114基ある「龍角寺古墳群」(2月25日のブログ参照)の105号古墳であり、「龍角寺古墳群・岩屋古墳」として「国」の「史跡」に指定されています。

 「岩屋古墳」は「印旛沼」北岸の標高約30mの台地上に位置しています。
 「築造年代」は「古墳時代」終末期の7世紀前半頃の説と、7世紀中頃との説があります。
 これはこれまで「岩屋古墳」から検出された「出土品」が全くなく、主に「横穴式石室」の構造で「築造時期」についての議論がなされており、「築造時代」を推定する材料にかける上に、「龍角寺古墳群」内で「岩屋古墳」の前に築造されたと考えられる「浅間山古墳(せんげんやまこふん)」の「造営時期」が7世紀初頭との説と7世紀第二四半期との説があることによります。

 また「岩屋古墳」は、「東日本最大級」の「方墳(方形墳)」です。
 同時期に築造された「大方墳」である「春日向山古墳」(「用明天皇」陵)、「山田高塚古墳」(「推古天皇」陵)をも凌(しの)ぐ規模であり、この時期の「方墳(方形墳)」としては「全国最大級」の規模であり、「古墳時代」を通しても5世紀前半に造営されたと考えられる「奈良県橿原(かしはら)市」の「舛山古墳」に次ぐ、「第二位」の規模の「方墳(方形墳)」となっています。

 昭和初期に「上田三平」氏らの「調査」により、雄大な「方墳(方形墳)」であることが確認されています。
 「岩屋古墳」は一辺約80m(78m)、高さ13.2mを誇り、周囲に「溝」がめぐらされ、「墳丘」は3段になっていて、1段目と2段目が低く3段目が高くなっているそうです。
 「墳丘」周囲には南側を除く三方に約3mの「周溝」がめぐり、「周溝」の外側には「外堤」が見られます。
 「岩屋古墳」はこれらを含めると全体規模は110m四方に達します。
 また、2008年の「測量調査」により、「墳丘」南側の谷側から「墳丘」に向かって、「斜路」が作られていたことが判明しています。

 「岩屋古墳」の「埋葬施設」として、下段の南面には東西2つの「横穴式石室」が10mの間隔で並んでいます。
 西側「石室」は奥行4.23m、奥壁幅1.68m、高さ2.14mです。
 東側の「石室」は西側よりやや規模が大きいですが、現在は崩落しているそうです。

 「岩屋古墳」の沿革ですが、1970年(昭和45年)「明治大学」による、「石室」の実測、「墳丘」の「地形測量」を実施。
 2007年(平成19年)「栄町教育委員会」による「104号古墳」を含む「清掃地形測量」を実施しています。

 「岩屋古墳」は、1941年(昭和16年)1月27日、「国の史跡」に指定されました。
 また2009年(平成21年)には「龍角寺古墳群」および周辺の「地形」を含む広範囲な「地域」が追加指定され、「龍角寺古墳群・岩屋古墳」として「史跡」の「名称変更」が行われました。
 ちなみに「龍角寺古墳群・岩屋古墳」の「管理団体」は、「龍角寺」なのだそうです。

 「国の史跡」に指定されている「龍角寺古墳群・岩屋古墳」。
 古代の歴史を感じる「古墳群」を見に「印旛郡栄町」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 備考
 「龍角寺古墳群」で「岩屋古墳」以降に築造された「みそ岩屋古墳」などの「方墳(方形墳)」では「方岩」は用いられることがなく、「貝の化石」を含んだ「砂岩」のみが用いられたことからも、「古墳」の「築造順」は「浅間山古墳」、「岩屋古墳」、「岩屋古墳」以外の「方墳(方形墳)」という順序であったことが推定できます。

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