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「鹿島神宮」「節分祭」(鹿嶋市)
 本日ご案内するのは、近隣市「鹿嶋市」「鹿島神宮」で2月3日(金)に開催されます「鹿島神宮」「節分祭」です。

 「常陸国一宮」「鹿島神宮」(2010年11月8日・9日・10日のブログ参照)は、「茨城県」「鹿嶋市」に鎮座する「神社」で、「全国」に約600社ある「鹿島神社」の「総本社」です。
 「鹿島神宮」は、「千葉県」「香取市」に鎮座する「香取神宮」(2010年11月5日・6日のブログ参照)、「茨城県」「神栖市」に鎮座する「息栖神社(イキスジンジャ)」(2010年11月7日のブログ参照)と合わせて「東国三社」(2010年10月23日のブログ参照)と呼ばれ、江戸時代から「東国三社めぐり」として「人気」があったそうで、「初詣」には、「全国」から60万人以上が参拝し、「初詣」の「参拝者数」では「茨城県」2位を誇ります。

 「鹿島神宮」は、「茨城県」「南東部」、「北浦」(2011年12月6日のブログ参照)と「鹿島灘(カシマナダ)」(2012年6月16日のブログ参照)に挟まれた「鹿島台地」上に鎮座し、「鹿島神宮」は、「伊勢神宮」・「香取神宮」とともに、明治維新前に「神宮」の「名称」を使用していた「三社」のうちの「一社」です。
 「鹿島神宮」の「御祭神」「武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)」(建御雷神)で、「鹿島神」という「一般名称」でも知られており、「古事記」では、「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」が「軻遇突智(カグツチ)」の「首」を切り落とした際、「剣」についた「血」が「岩」に飛び散って生まれた「三神」のうちの「一柱」とされています。
 「武甕槌大神」は、「香取神宮」の「御祭神」「経津主大神(フツヌシノオオカミ)」とともに、「天孫降臨」に先立ち「国譲り」の「交渉」をしたといわれている「神様」で、「武甕槌大神」は、「武の神」として古くから「皇室」や「藤原氏」の「崇敬」を受け、さらに鎌倉時代以降は「武家政権」の「信仰」も得て、「社殿」・「楼門」・「宝物類」の「奉納」や「所領寄進」が繰り返されてきました。

 「鹿島神宮」「楼門」は、寛永11年(1634年)、「水戸徳川初代藩主」「徳川頼房」公が奉納した「楼門」で「日本三大楼門」のひとつとして知られています。
 「鹿嶋社楼門再興次第記」によれば、「三代将軍」「徳川家光」公の「病気平癒」を「徳川頼房」公が「大宮司」(神宮の最高責任者)「則広」氏に依頼し、「徳川家光」公が快方に向かった為に奉納されたとあり、「浅草」の「水戸藩下屋敷」で130余人の「大工」が切組み、「船筏」で運んで組み立てたそうです。
 「鹿島神宮」「楼門」ですが、昭和15年(1940年)の「大修理」の際、「丹塗り」とし、昭和40年代に「檜皮葺」の「屋根」を「銅板葺」としたそうです。
 また「鹿島神宮」「楼門」は、「鹿島神宮」「境内」「鹿島神宮の森」の「縁」の中にひときわ「朱色」が鮮やかな「楼門」で、「鹿島神宮」「楼門」の「扁額」は「東郷平八郎」「元帥」の「直筆」によるものだそうです。

 「鹿島神宮」「本殿」は、「三間社流造」、「向拝一間」で「檜皮葺」、「漆塗り」で「柱頭」・「組物」等に「極彩色」が施されています。
 風格ある「鹿島神宮」「本殿」は、「江戸幕府」「2代将軍」「徳川秀忠」公より奉納されたもので、「国」の「重要文化財」に指定されています。
 「鹿島神宮」「本殿」ですが、元和5年(1619年)の「造営」までは、現在の「奥宮」の「社殿」を使用されていました。
 「鹿島神宮」「本殿」の背後には「杉の巨木」の「御神木」が立っており、「御神木」ですが、「樹高」43m・「根回り」12mで、「樹齢」約1000年といわれ、さらに後方、「玉垣」を介した位置には「鏡石(カガミイシ)」と呼ばれる「直径」80cmほどの「石」があり、「神宮創祀の地」とも伝えられています。

 「鹿島神宮」「奥宮」ですが、1605年(慶長10年)に「鹿島神宮」「本殿」として奉納された「建物」で、「鹿島神宮」では場所を移して「奥宮」としたそうです。
 「鹿島神宮」「奥宮」周辺ですが、神秘的な「雰囲気」を醸し出しており、「鹿島神宮」「奥宮」には、「鹿島神宮」「御祭神」「武甕槌大神」の「荒魂」が祀られています。
 「鹿島神宮」「奥宮」「社殿」は、元々「江戸幕府」を開いた「徳川家康」公が、上述の「鹿島神宮」「本殿」として奉納したものを、元和5年に「徳川秀忠」公の「社殿」奉納に際し、「現在地」へ引移して「奥宮」「社殿」になったそうで、「鹿島神宮」「本殿」と比べると、「重厚さ」が感じられる「建物」となっています。

 「鹿島神宮」の「境内地」ですが、「東京ドーム」15個分(約70ha(ヘクタール))に及ぶ「大きさ」で、「鹿島神宮」の鎮座する「地」は「三笠山(ミカサヤマ)」と称され、この「境内」は「日本」の「歴史上」、重要な「遺跡」であるとして、「国の史跡」に指定されています。
 (摂社坂戸神社境内、摂社沼尾神社境内、鹿島郡家跡も包括)
 「鹿島神宮」「境内」(70ha)のうち約40haは、鬱蒼(ウッソウ)とした「樹叢」で、「鹿島神宮樹叢」の「大きさ」は、「東京ドーム」約15個分の「広さ」を持ち、「鹿島神宮樹叢」として「茨城県指定天然記念物」に指定されています。
 「鹿島神宮樹叢」には約800種の「植物」が生育し、「鹿島神宮」の長い「歴史」を象徴するように「巨木」が多く、「茨城県内」では随一の「常緑照葉樹林」になっており、木漏れ日の中を散策するなど、「森林浴」にも最適な「スポット」となっています。
 その他「鹿島神宮」「境内」には、透き通る「湧水」で「禊(ミソギ)」も行われる「御手洗池」や、「鹿園」など、多くの「見どころ」があります。

 「鹿島神宮」の「創建」ですが、2674年前の「初代」・「神武天皇」「御即位」の「年」にあたり、「神武天皇」は、「東征」の「途上」における「大神」の「布津御霊劔(フツノミタマノツルギ)」による「守護」に感謝され、「鹿島の地」に「大神」を勅祭されたそうです。
 これに先立つ神代の昔、「武甕槌大神」は「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」の「名」を受け、「葦原中国」といわれた「我が国」の「国譲り」から「国造り」まで、その「建国」に大いにその「御神威」を発揮されました。
 「鹿島神宮」は、その「御威徳」から「武の神」として崇められ、日出づる「東方」に坐します「鹿島立ち」の「御神徳」によって、「事始め」、「起業」、「開運」、「旅行交通安全の神」、「常陸帯」(2012年1月13日・2011年10月16日のブログ参照)の「故事」によって「安産」、「縁結び」の「神」を仰がれています。

 「鹿島神宮」「文化財」ですが、「布津御霊劔(フツノミタマノツルギ)」と称される「長大」な「直刀」が「国宝」に指定されているほか、「鹿島神宮」「境内」は「国」の「史跡」に指定され、「本殿」・「本殿」・「楼門」など「社殿」7棟が、「国」の「重要文化財」に指定されており、そのほか「鹿島神宮」は、「鹿」を「神使」とすることでも知られています。
 「鹿島神宮」は、古くから「朝廷」から「蝦夷(エゾ)」に対する「平定神」として、また「藤原氏」から「氏神」として崇敬され、その「神威」は中世の「武家の世」に移って以後も続き、「歴代」の「武家政権」からは「武神」として崇敬され、現代も「鹿島神宮」は「武道」で篤く信仰されています。

 「鹿島神宮」では80以上もの「年中行事」の中では「祭頭祭」(2016年3月8日・2015年3月8日・2014年3月5日・2013年3月6日・2012年3月2日・2011年3月6日のブログ参照)、「神幸祭」(2012年8月26日のブログ参照)、また12年に一度「午年」ごとに行われる「式年大祭御船祭」(2014年8月31日のブログ参照)が特に「有名」で、2014年9月1日(月)には、「3日間」に渡って「御船祭」が催行されています。
 (「式年大祭御船祭」「前日」8月31日(日)午後には、「御座船清祓式」(2014年8月29日のブログ参照)が執り行われました。)

 「鹿島神宮」では、今年(2017年)も「節分の日」の2月3日(金)に「年男」・「年女」による「豆まき」が行われます。
 「鹿島神宮」「節分祭」ですが、「鹿島神宮」「本殿」前「特別舞台」で開催され、1回目は15時00分から、2回目は18時00分からの2回「豆まき」が催行されるそうです。
 「鹿島神宮」「節分祭」は、「日頃」の「御加護」を「神様」に感謝申し上げ、「災厄」を「積極果敢」に祓い、「強運」や、「福」を招く「繁栄有徳」のめでたい「伝統」の「神事」となっています。
 「鹿島神宮」「節分祭」「豆まき」ですが、「神事」・「追儺(ツイナ)」ののちに行われ、「追儺」では

 「射たりや射たり」

 と叫び、「鏑矢(カブラヤ)」を打ち、「鬼」を払う「所作」をするそうです。
 「鹿島神宮」「節分祭」では、「鬼」を払った後の「鹿島神宮」「境内」には、「鬼」はいないとされ、「鹿島神宮」「節分祭」「豆まき」では、

 「福は内」

 とだけ「声」をかけるそうです。
 「鹿島神宮」「節分祭」では、大きな「掛け声」と共に「神官」や、「年男」・「年女」から「福豆」や、「お菓子」がまかれると、「鹿島神宮」「境内」に集まった多くの「参拝客」は、「ご利益」をあやかろうと手を伸ばし、大きな「歓声」が上がるそうです。
 「鹿島神宮」「節分祭」2回目の「豆まき」には「特別年男」として「有名人」の「参加」も予定されており、「豆」と一緒にまかれる「福分け」では、「豪華」な「福」(景品)がいただけるそうです。
 なお今年(2017年)の「鹿島神宮」「節分祭」の「特別豆まきゲスト」ですが、「かしま大使」である「タレント」の「研ナオコ」さん、「研ナオコ」さんの「息子」「倹太」さん、「研ナオコ」さんの「娘」「ひとみ」さん、「ケンズファミリー」「所属タレント」で「物まね芸人」の「丸山おさむ」さん、「かしま大使」である「相川七瀬」さんが「参加予定」となっているそうです。

 「常陸国一宮」「鹿島神宮」で「盛大」に開催される「恒例」の「節分行事」「節分祭」。
 この機会に「鹿嶋市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「鹿島神宮」「節分祭」詳細

 開催日時 2月3日(金) 15時〜、18時〜

 開催会場 鹿島神宮 茨城県鹿嶋市宮中2306-1

 問合わせ 鹿島神宮 0299-82-1209

 備考
 「鹿島神宮」「節分祭」「特別豆まき」には、過去には「サッカー」「Jリーグ」「鹿島アントラーズ」の「OB」の「皆さん」の「参加」や、「角界」(大相撲力士)から参加される「方」もいらっしゃったそうです。
 なお、「鹿島アントラーズ」の「現役選手」ですが、「シーズン」前の「トレーニングキャンプ」の為に参加できないそうで、そのために「鹿島アントラーズ」「OB」が参加することが多くなったそうです。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=3309 |
| 地域情報::鹿島 | 01:56 PM |
「平成29年成田山新勝寺節分会」(成田市)
 本日ご案内するのは、近隣市「成田市」「成田山新勝寺」で2月3日(金)に開催されます「平成29年成田山新勝寺節分会」です。

 「成田山新勝寺」(2010年11月14日・15日・16日のブログ参照)は、「成田市」に鎮座する「真言宗智山派」の「寺院」であり、「真言宗智山派」の「大本山」のひとつで、「弘法大師」「空海」が敬刻開眼した「不動明王」の「御尊像」を「御本尊」として開山された「不動尊信仰」の「総府」です。
 「成田山新勝寺」は、1000年以上の「歴史」をもつ「全国有数」の「霊場」で、「成田」を代表する「観光地」でもあり、正月3が日には約300万人、「年間」約1000万人以上の「参拝客」が訪れています。
 「成田山新勝寺」の「御本尊」は「不動明王」で、古来より、「お不動さま」の「御霊験」・「御利益」は数限りなく、「数多」の「信仰」を集め、「成田山新勝寺」は、今日(コンニチ)では毎年1000万人を超える「参詣者」を迎える「関東地方」「有数」の「著名寺院」です。
 「全国」「有数」の「広大」な「敷地」を誇る「成田山新勝寺」「境内」には、「車」の「祈祷」をする「交通安全祈願殿」、「自然」豊かな「公園」、「成田山書道美術館」(2011年6月5日のブログ参照)や、「成田山仏教図書館」等多くの「施設」を有しています。
 「成田山新勝寺」ですが、「家内安全」、「交通安全」等を祈る「護摩祈祷」のために訪れる方が多い「不動明王信仰」の「寺院」のひとつであり、「成田のお不動さま」の「愛称」で親しまれています。
 ちなみに「真言宗智山派」の「総本山」ですが、「智積院」(京都府京都市東山区東山七条)であり、「大本山」ですが、「成田山新勝寺」と、「川崎大師平間寺」(神奈川県川崎市川崎区)、「高尾山薬王院」(東京都八王子市高尾町)となっています。
 なお、「全国各地」の「不動尊信仰」を支える「成田山」ですが、「全国」に71ヵ寺の「別院」・「分院」・「末寺」・「末教会」・「成田山教会」があるそうです。

 「成田山新勝寺」の「御本尊」である「不動明王」ですが、「真言宗」の「開祖」「弘法大師」「空海」が自ら「一刀三礼」(ひと彫りごとに三度礼拝する)の「祈り」をこめて「敬刻開眼」された「御尊像」なのだそうです。
 「成田山新勝寺」では、この霊験あらたかな「御本尊」「不動明王」の「御加護」で、千年以上もの間、「御護摩」の「火」を絶やすことなく、皆様の「祈り」が一体となり「清浄な願い」となって現れるそうです。
 「成田山新勝寺」は、開山1080年を間近に控えた現在も「成田山のお不動さま」として数多くの人びとの「信仰」を集めています。

 「成田山新勝寺」は、平安時代中期に起きた「平将門の乱」の際、939年(天慶2年)「朱雀天皇」の「密勅」により「寛朝大僧正」を「東国」に遣わしたことに「起源」を持ちます。
 「寛朝大僧正」は、「京」の「高雄山」(神護寺)「護摩堂」の「空海」作の「不動明王像」を奉じて「東国」へ下り、翌940年(天慶3年)、「海路」にて「上総国」「尾垂浜」に上陸、「平将門」を調伏するため、「下総国」「公津ヶ原」で「不動護摩」の「儀式」を行ったそうです。
 「成田山新勝寺」では、この天慶3年を「開山の年」としています。
 「平将門の乱」「平定後」の永禄年間(1566年)(永禄9年)に「成田村一七軒党代表」の「名主」が「不動明王像」を背負って「遷座」され「伽藍」を建立された「場所」が、現在の「成田市」「並木町」にある「不動塚」周辺と伝えられており、「成田山発祥の地」といわれています。
 「成田山新勝寺」の「寺名」ですが、「また新たに勝つ」という「語句」に因み「新勝寺」と名づけられ、「東国鎮護」の「寺院」となったそうです。

 「成田山新勝寺」では、平成20年(2008年)に「開基1070年祭記念大開帳」が行われ、これにあわせて、平成19年(2007年)には「総欅造り」の「総門」が落慶され、「新勝寺」の「表玄関」として荘厳な「たたずまい」を見せています。
 この「総門」は、開かれた「庶民のお寺」「成田山」と「門前町」とをつなぐ「担い手」として、「大開帳」を記念し創建されたもので、「総門」前にある「門前広場」は「参拝客」の「憩いの場」となっています。

 「成田山新勝寺」ですが、「総門」をくぐって、「境内」に入ると大きな赤い「提灯」のある「仁王門」があり、「境内」には、数多くの「建造物」が立ち並んでいます。
 「仁王門」から「東海道五十三次」にならった53段の「石段」を上がると、「成田山」の「シンボル」である「大本堂」が現れ、「成田山新勝寺」「大本堂」では、「世界平和」と「人々の幸せ」を願って「開山」以来毎日欠かさずに「御護摩祈祷」が厳修されています。

 「成田山新勝寺」の「伽藍」ですが、「JR」および「京成電鉄」の「成田駅」から「成田山新勝寺」への「参道」が伸び、「参道」を10分ほど歩き、急な「石段」を上った先の「台地上」に「境内」が広がっています。
 「石段」の途中に「仁王門」、「石段」を上った先に正面に「大本堂」、その手前「右手」に「三重塔」、「鐘楼」、「一切経堂」などが建っています。
 この他、「大本堂」の「左手」に「釈迦堂」、「大本堂」の背後の一段高くなった地には「額堂」、「光明堂」、「開山堂」、「成田山平和大塔」(2012年5月7日のブログ参照)などが建っており、「成田山新勝寺」「境内」の「東側」は広大な「成田山公園」(2011年11月8日・2010年11月12日のブログ参照)があります。
 「成田山新勝寺」にある「釈迦堂」、「光明堂」、「成田山表参道」にある「薬師堂」(2013年5月22日のブログ参照)ですが、「歴代」の「成田山」の「大本堂」です。
 これほどの数の「御堂」が現存している「寺院」は大変珍しく、それぞれの「建物」には「建立時」の「建築様式」を今に伝えており、江戸中期から末期の「建物」である「仁王門」、「三重塔」、「釈迦堂」、「額堂」、「光明堂」の5棟が「国」の「重要文化財」に指定されています。

 「成田山新勝寺節分会」(2016年2月1日・2015年2月1日・2014年1月26日・2013年1月25日・2012年1月30日・2011年1月31日のブログ参照)ですが、毎年2月3日に催行されている「成田山新勝寺」「恒例」の「人気行事」です。
 「成田山新勝寺節分会」には、毎年「正月」の「初詣」に匹敵する「参拝客」で賑わい、「場所取り」をする「人」が出る程の「人気」がある「節分会」として知られています。
 「成田山新勝寺節分会」では、「福は内!」のみ唱え、「鬼は外!」とは唱えないそうです。
 これは、昔からの「習わし(ナラワシ)」で、「成田山新勝寺」「御本尊」「不動明王」の前では、「鬼」でさえもその大慈悲心により心を入れかえてしまうからと伝えられており、唱えないのだそうです。
 また、「成田山新勝寺節分会」は、「天禍為福」・「五穀豊穣」を願って、毎年「立春」の「前日」に執り行われています。

 「平成29年成田山新勝寺節分会」ですが、今年(2017年)は、「国家安穏・万民豊楽・五穀豊穣・天禍為福」に加え、「東日本大震災被災地復興」への「祈り」を込め、「恒例」の「特別追儺豆まき式」が厳(オゴソ)かにも「盛大」に執り行われます。

 「震災に勝つ!福は内!」

 と「平成29年成田山新勝寺節分会」は、「復興」への「祈り」を込めた「大発声」が「成田山新勝寺」「境内」に響き渡ります。
 「平成29年成田山新勝寺節分会」には、「戸羽太」「陸前高田市」「市長」をお迎えする予定で、「特別参加年男」の「皆さん」と、共に「東日本大震災」「早期復興」を祈願するそうです。
 また「成田山新勝寺節分会」では、「成田山開運豆まき」と、「特別追儺豆まき式」を行う予定になっており、「大相撲力士」の「皆さん」や、「NHK」「大河ドラマ」の「出演者」が「豆」を撒(マ)くことで知られているのは、「特別追儺豆まき式」で、今年も下記の「方々」が「第1回目」と、「第2回目」に参加する予定となっています。

 平成29年成田山新勝寺節分会 特別追儺豆まき式 スケジュール

 1回目 11時00分〜

 2回目 13時30分〜

 3回目 16時00分〜

 大相撲力士 (予定)

 横綱 白鵬

 横綱 稀勢の海

 前頭 御嶽海

 前頭 遠藤

 前頭 隠岐の海

 NHK大河ドラマ 「おんな城主 直虎」 出演者 (予定)

 井伊直平 役 前田吟さん

 新野左馬助 役 刈谷俊介さん

 瀬名 役 菜々緒さん

 なつ 役 山口紗弥加さん

 あやめ 役 光浦靖子さん

 上記の方々は、1、2回目のみの「参加」となります。

 また「平成29年成田山新勝寺節分会」当日は、「剣守(ケンマモリ)」(剣札)が1回につき365体、「大豆」が3回で860kg、「殻付落花生」が3回で400kg撒かれるそうです。
 「大豆」(860kg)と、「殻付落花生」(400kg)ですが、3回分の「合計」となっており、「剣守」(剣札)ですが、1回につき今年1年分の「日数分」である365体を撒くそうです。
 「平成29年成田山開運豆まき」ですが、「成田山新勝寺」「大本堂」の「内陣」でのみ行われる「特別」な「行事」で、「御護摩祈祷」ののち、「御本尊」「不動明王」の「御宝前」で、「豆まき」を執り行うそうです。
 「平成29年成田山新勝寺節分会」「詳細」は、下記の通りです。

 開催期日 2月3日(水)

 開催時間 9時30分〜、12時30分〜、15時00分〜

 開催会場 成田山新勝寺大本堂内 (御護摩祈祷にて)

 参加料  1名 10000円 (記念品付)
 (年齢、性別は問いません。当日申込及びお子様も可)

 集合   開始時刻の30分前 (大本堂1階 表玄関)

 募集数  各回 100名(定員に達し次第、締切)

 記念品  開運豆まき記念御礼、成田山節分会福枡(福豆入り)、剣守(ケンマモリ。節分会限定授与の御守)

 服装   自由 (当日、開運豆まき追儺羽織が貸し出されます。)

 申込方法 成田山新勝寺光輪閣総受付、または現金書留郵便での申し込み。

 問合わせ 成田山新勝寺「節分会開運豆まき」係 0476-22-2111 (大代表) 電話受付時間 8時〜16時

 また「平成29年成田山新勝寺節分会」「当日」は、「成田山表参道」周辺で「交通規制」が行われますので、ご注意下さい。

 交通規制

 10時00分〜18時00分

 JR成田駅〜成田山山門(鍋店角)

 10時00分〜16時00分

 JR成田駅〜薬師堂

 尚、「平成29年成田山新勝寺節分会」「当日」の「混雑状況」によっては、「規制時間」が延長されることもあるので、現場の「警備員」の「指示」に従って通行下さいとのことです。

 「真言宗智山派」の「大本山」「成田山新勝寺」で開催される「人気」の「開運豆まき」「特別追儺豆まき式」「平成29年成田山新勝寺節分会」。
 この機会に「成田市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「平成29年成田山新勝寺節分会」詳細

 開催日時 2月3日(金)
 特別追儺豆まき式 11時〜、13時半〜、16時〜
 成田山開運豆まき 9時半〜、12時半〜、15時〜

 開催会場 成田山新勝寺大本堂内 成田市成田1(御護摩祈祷にて)

 問合わせ 成田山新勝寺 節分会開運豆まき係 0476-22-2111 (大代表) 電話受付時間 8時〜16時

 備考
 「大阪府」「寝屋川市」「成田西町」10番1号に鎮座する「大本山」「成田山大阪別院」「明王院」「大阪成田山不動尊」では、2月3日(金)に「追儺豆まき式」が行われ、「追儺豆まき式」には、10時30分から「NHK連続テレビ小説」「べっぴんさん」より、「主人公」(ヒロイン)「坂東すみれ」役「芳根京子(ヨシネキョウコ)」さん、「キアリス」の「仲間」「小野明美」役「谷村美月(タニムラミツキ)」さん、「小澤良子」役「百田夏菜子(モモタカナコ)」さん、「村田君枝」役「土村芳(ツチムラカホ)」さんが参加される予定となっており、その他、「桂福団治」さん、「桂文福」さん、「桂米團治」さん、「ぼんちおさむ」さん、「宮川大助」さん、「宮川花子」さん、「宮川さゆみ」さん、「ランナーズ」さん、「林真帆」さん、「京阪電鉄CMキャラクター」「6代目おけいはん」が登場し、13時00分からは、「キング・クリームソーダ
」(ゲラッパー、マイコ、ZZROCK)、「笑福亭鶴志」さん、「羽田たかお」さん、「二葉由起子」さんが参加され、15時00分から「桂春之輔」さん、「西川のりお」さんが参加される予定となっているそうです。

 ※著名人参加者は、予告無く変更になる場合がありますので、ご了承下さいとのことです。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=3308 |
| 地域情報::成田 | 01:54 AM |
「妙光山観福寺」「節分会」(節分追儺式)(香取市)
 本日ご案内するのは、となりまち「香取市」「妙光山観福寺」で、2月3日(金)に開催されます「妙光山観福寺」「節分会」(節分追儺式)です。

 「妙光山観福寺」(2011年5月30日のブログ参照)は、「香取市」「牧野」に鎮座する「真言宗豊山派」の「寺院」で、「山号」ですが、「妙光山」です。
 「妙光山観福寺」の「御本尊」ですが、「平将門」の「守護仏」とされる「聖観世音菩薩(ショウカンゼオンボサツ)」を祀っています。

 上述のように、「妙光山観福寺」は、「真言宗豊山派」の「巨刹」で、「川崎大師」・「西新井大師」と並び、「日本厄除三大師」(関東厄除け三大師)のひとつに数えられる「北総」の「名刹」であり、「御本尊」に祀るのは「平将門」の「守護仏」である「聖観世音菩薩」で、寛平2年(890年)に「お堂」が建立されたことが「起こり」と伝えられています。
 「妙光山観福寺」は、古くは「千葉氏」の「祈願所」として「歴代武将」が厚く帰依(キエ)し、中世以降は「佐原」の「伊能家一族」の「帰依」を受けるようになったそうです。
 「妙光山観福寺」は、江戸時代には「末寺」五十三ヶ寺をもつ「中本山」として「寺領」三十石を有し、「幕府」から七年に一度の「年始独礼」の「拝謁」を許されたそうです。
 「妙光山観福寺」は、「由緒」正しさのゆえに、「僧侶」の「叙任」や、「法衣」の「色」の「許可」を与える「権限」を持つ「院室兼帯」の「寺院」とされた一方、「本山」での「修行」に入る前の「基礎的」な「教育」を施す「地方壇林所」として「学徒」の「教育」にあたり、更には「大師信仰」の中心となって「庶民」の「信仰」を集めたそうです。

 「妙光山観福寺」の「観福寺厄除弘法大師縁起」には、下記のように記されています。

 抑(ソモソモ)當山厄除弘法大師は大師自ら御彫刻遊ばされたる霊像にして日本厄除三大師の一と称し奉る。
 今其縁起を案ずるに人王五十二代嵯峨天皇の御宇(ギョウ)弘仁六年大師四十二歳の御厄年にあたらせられ親(ミズカ)ら御像三を彫刻して其一を禽獣草木の厄を除かんがために山城国大倉村大蔵寺に其一を一切魚鼈(ギョベツ)を救わんがために武州河原の平間寺に、其一つを庶民の災厄を除かんがために京都嵯峨の大覚寺に留め給う。
 茲に當山三十三世鏡覚(ケイガク)三等和尚嵯峨の院を訪へり。
 院の阿闍梨鏡覚和尚に告げて曰く我が法兄三等和尚東国庶人結縁の為に新四国霊場に開創せらされたと聞き我れ喜びに堪えず、乃ち心経殿安置の厄除弘法大師の御像を付属し且つ曰く之を以て新四国霊場の親大師として安置し奉るべしと、鏡覚和尚恵頓首して之を受け奉侍して郷に帰り山内の宝殿に安置し、奉れり。

 とあるそうです。
 「現住職」の「お話」では、「弘法大師」が自ら彫刻した三体の「御像」のうち「大蔵寺」の「霊像」は「西新井大師」に、「平間寺」の「霊像」はそのまま「平間寺」(川崎大師)に、そして「大覚寺」の「霊像」が「妙光山観福寺」に伝わっていることから、この「真言宗」の三つの「お寺」が「日本厄除三大師」あるいは「関東厄除け三大師」とされているとのことでした。
 なお、「関東厄除け三大師」に似た「関東の三大師」と呼ばれる「お寺」もありますが、こちらは「弘法大師」ではなく「厄除大師」とも呼ばれる「元三大師」(良源)を祀る「佐野厄除け大師」・「青柳大師」・「川越大師」の「天台宗」の「寺院」を指す場合が多く、「関東厄除け三大師」とは全く別のものなのだそうです。

 「妙光山観福寺」の「山門」をくぐると「正面」には、「住職」の「お駕籠」を運ぶ「担ぎ手」が上り下りしやすいように、一段の「高さ」が低く「奥行き」が広くとられた「一歩半の石段」が緩やかに続くそうです。
 「一歩半の石段」をのぼりきり、「木々」に覆われた薄暗い「参道」を抜けると「弘法大師」の「像」が迎えてくれ、「妙光山観福寺」「境内」には、「本堂」、「大師堂」、「観音堂」、「不動堂」、「位牌堂」、「鐘楼」、「毘沙門堂」が建っています。
 「妙光山観福寺」「本堂」ですが、文化8年(1811年)「鐘眞和尚」が再建したもので、「大師堂」ですが、文政12年(1829年)「秀珍和尚」が建立したもので、「大師堂」には「弘法大師」が安置されています。
 「妙光山観福寺」「観音堂」ですが、元禄年間「春海和尚」が建立したもので、「妙光山観福寺」「御本尊」「聖観世音菩薩」が安置されています。
 「妙光山観福寺」「不動堂」ですが、文化15年(1818年)「快恵和尚」が再建したもので、「身丈」5尺、「総丈」8尺の「不動明王像」が安置されています。
 「妙光山観福寺」「位牌堂」ですが、文化年間建立したもので、「鐘楼」ですが、文化8年(1811年)建立したもので、「毘沙門堂」ですが、平成7年(1955年)「量賢和尚」が建立したものです。
 「妙光山観福寺」「境内」には、「春」は「枝垂れ桜」、「初夏」は「新緑」、「秋」は「紅葉」と、「四季」の「景観」の「美しさ」でも知られています。
 そのため、「妙光山観福寺」は、「ドラマ」や、「映画」等の「撮影地」としても多く用いられており、2013年(平成25年)「NHK大河ドラマ」「八重の桜」では、「地元」「佐原」の「方々」が「会津藩士役」「エキストラ」として参加するなか、「妙光山観福寺」「本堂」を「会津」の「黒谷本陣」に見立てて「撮影」が行われたそうです。

 「妙光山観福寺」「墓地」には「香取の偉人」「伊能忠敬」(2011年3月5日のブログ参照)や、「国文学者」の「伊能頴則」、「楫取魚彦」等の「墓」がある他、古い「下総板碑」等、「歴史的」に「貴重」な「資料」が数多く残されているそうです。
 (伊能忠敬の墓には、伊能忠敬の髪と、爪を納めているそうです。)
 「妙光山観福寺」「寺宝」ですが、「国指定重要文化財」に指定されている4点の「銅造懸仏(カケボトケ)」があるそうです。
 (元来、香取神宮の本地仏として安置されていたもの。)

 「釈迦如来坐像」 弘安5年(1282年)銘

 「十一面観音坐像」 弘安5年(1282年)銘

 「地蔵菩薩坐像」 延慶2年(1309年)銘

 「薬師如来坐像」

 いずれも、もとは「香取神宮」(2010年11月5日・6日のブログ参照)に付属して置かれた「金剛宝寺」(神宮寺)で「本地仏」として安置されてあったものですが、明治初年の「神仏分離」によって「香取神宮」の「手」から離れたものを、「佐原」の「篤志家」の「人々」の「手」によって寄進されたものだそうです。

 「妙光山観福寺」には、上記のように「鐘楼」があり、「妙光山観福寺」「梵鐘」は戦時中に供出して以来、そのままになっていたそうですが、昭和59年(1984年)「弘法大師千百五十年御遠忌」の「記念事業」として「堂」の「大改修」と、「梵鐘」の「新鋳」がなされ、同年「秋」に完成、昭和60年(1985年)3月に「落成式」が行われたそうです。
 この年から撞き始められた「除夜の鐘」に「四隣」から「善男善女」が押し寄せるなか、「観音堂」では「世の中」の「安寧」を願って「護摩」が焚かれるそうです。
 「妙光山観福寺」「境内」には「かがり火」がたかれ、「福汁粉」の「接待」を受けながら、「酷寒」の中で「新年」を迎えようとする「人々」で賑わうそうです。

 「香取市」には、2つの「観福寺」があり、もうひとつの「観福寺」ですが、「香取市」「山倉」に鎮座する「山倉山観福寺」(2011年12月3日のブログ参照)で、「山倉の鮭まつり」(2011年12月4日のブログ参照)が行われることで知られています。

 「真言宗豊山派」に属し、「平将門」の「守護仏」である「聖観世音菩薩」を祀る「北総の名刹」「妙光山観福寺」では、例年2月3日に「節分会」(節分追儺式)を催行しています。
 「妙光山観福寺」「節分会」(節分追儺式)ですが、14時30分から40分程「法要」を行い、その後「妙光山観福寺」「本堂」前「特設舞台」で、「僧侶」による「和太鼓」「六大響」の「演奏」があり、続いて15時30分から「僧侶」や、「年男」による「豆まき」が行われます。

 「妙光山観福寺」「節分会」(節分追儺式)の「見どころ」のひとつですが、「節分会」の「法要」で、十数人の「僧侶」による600巻の「大般若経」の「転読」と、「厄除弘法大師」の「護摩祈祷」だそうです。
 「転読」ですが、「経典」を「バラバラ」と広げながら、一斉に「お経」を唱えるもので、滅多(メッタ)に見ることのできない「貴重」な「光景」であり、「妙光山観福寺」では、「迫力満点」の「転読」が繰り広げられるそうです。
 また「妙光山観福寺」「節分会」(節分追儺式)では、「僧侶」や、「年男」による「豆まき」が行われ、「豆まき」では「福豆」や、「福銭」が撒かれる他、「景品」も当たるそうです。

 「真言宗豊山派」の「巨刹」で、「日本厄除三大師」「関東厄除け三大師」のひとつに数えれる「北総」の「名刹」「妙光山観福寺」で開催される「節分追儺式」「妙光山観福寺」「節分会」(節分追儺式)。
 この機会に「香取市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「妙光山観福寺」「節分会」(節分追儺式)詳細

 開催日時 2月3日(金) 14時半〜

 開催会場 妙光山観福寺 香取市牧野1752

 問合わせ 妙光山観福寺 0478-52-2804
      香取市商工観光課 0478-50-1212

 備考
 「香取」の「春」の「年中行事」に「札打ち(フダウチ)」というものがあるそうです。
 これは、宝暦4年(1754年)に「妙光山観福寺」の「三等和尚」らの「発願」により始まると伝えられるもので、「香取市」「一円」の「寺院」を「四国八十八ヶ所」の「札所」に模して巡るそうです。
 今では「札打ち」の「やり方」は変わってきたそうですが、「大師信仰」は脈々と生きつづけ、「春」4月初旬、「各地」に「善男善女」の「お参り」の「姿」が見られるそうです。
 また「四国八十八ヶ所巡り」といえば、「妙光山観福寺」の「境内」には「新四国霊場」があるそうで、「山門」を入ってすぐ、「一歩半の石段」の「手前」左側に立つ「新四国霊場創開記念碑銘」の脇から「林」の中へと入っていく「石段」は、大正3年(1914年)に作られた、「石碑石仏」を巡る「四国八十八ヶ所」の「ミニチュア版」への「入り口」となっています。

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「芝山仁王尊」「節分会」(芝山町)
 本日ご案内するのは、近隣市「芝山町」「芝山仁王尊」「天應山観音教寺」で2月3日(金)に開催されます「芝山仁王尊」「節分会」です。

 「芝山仁王尊」こと「天應山観音教寺」(2011年4月25日のブログ参照)ですが、「山武郡」「芝山町」に鎮座する「天台宗」の「寺院」で、「山号」は「天應山(天応山)」、「御本尊」は「十一面観世音菩薩」を祀っています。
 「天應山観音教寺」は、上述のように「比叡山延暦寺」を「御本山」とする「天台宗」の「寺院」で、「正式名称」を「天應山観音教寺福聚院」、「開山」から実に1200余年にもなる「県内有数」の「古刹」です。
 「天應山観音教寺福聚院」ですが、「上総国薬師如来霊場」「第28番」(結願)、「神上総国三十三観音霊場」「第33番」(結願)、「東国花の寺百ヶ寺」「千葉6番札所」としても知られています。

 「天應山観音教寺」の「由緒」ですが、奈良時代末期、人皇第四十九代「弘仁天皇」の宝亀11年(780年)の「正月」、「平城京」が「雷火」に襲われ、「皇室擁護」の「寺院」が多く焼失したため、「諸国」に命じて新たに「仏寺」を建てせしめたそうです。
 「天應山観音教寺」は、天応(天應)元年(781年)「勅命」により、「征東大使」「中納言 藤原継縄」公が、この「布令」の下に「当地」に「寺院」を建立し、「御本尊」として奉持して来た「十一面観世音菩薩」を奉安し、創建されたそうです。
 「天應山観音教寺」は、天長2年(825年)、後に「第3代天台座主」となった「慈覚大師」「円仁」により中興され、次第に「甍(イラカ)」の「数」を増やし、近隣に八十余字の「子院」を置くに至ったと伝えられています。
 その後「天應山観音教寺」は、中世「治承年間」に「千葉」の「豪族」である「千葉介平常胤」の「崇敬」を受け、許多の「仏田」が寄進され、永く「祈願所」として栄えましたが、「豊臣秀吉」の「小田原攻め」の「影響」を受け、「天應山観音教寺」も「全山灰土」と化したと伝えられています。
 やがて江戸時代に入り「天應山観音教寺」は、「徳川幕府」の「庇護」の下、「十万石」の「格式」を持つ「伴頭拝領寺」として、「関東天台」の「中核」となす「寺院」になったそうです。

 「天應山観音教寺」は、「火事泥棒除け」・「厄除け」の「仁王尊天」として、古来より「大江戸」の「庶民」の「信仰」を集めており、「いろは四十八組」の「町火消」が「纏(マトイ)」を「先頭」に競って参詣したと伝えられています。
 また「天應山観音教寺」については、下記のように伝えられています。

 「江戸の商家で芝山のお札を貼らない店(タナ)はない。」

 「天應山観音教寺」「芝山仁王尊」は「黒仁王」といわれ、「火事・泥棒除け」、「子育て」に霊験あらたかで、江戸時代には「成田」の「不動尊」「成田山新勝寺」(2010年11月14日・15日・16日のブログ参照)と共に、「江戸庶民」の「信仰」を集めたそうです。
 上述のように江戸時代から「火事・泥棒除けのにおうさん」として「庶民」に絶大な「人気」があったことが伺えます。
 現在でも「天應山観音教寺」には、有名な「新門辰五郎」の「旧・を組」の「記念碑」が、「天應山観音教寺」「境内」に建っており、その「信仰」が今日(コンニチ)まで連綿として伝えられていることが分かります。
 上記のことから「天應山観音教寺」は、「火事除け」・「泥棒除け」の「仁王尊」として知られることから、「天應山観音教寺」は「芝山仁王尊」とも呼ばれています。
 「芝山仁王尊」「天應山観音教寺」「境内」には、鎌倉時代初期に作られた「厄除け」で「有名」な「御本尊」「十一面観世音菩薩」や、「千葉県」の「県指定有形文化財」(建造物)に指定されている「天應山観音教寺」「三重塔」(1955年(昭和30年)12月15日指定)などがあります。

 また「天應山観音教寺」「境内」には、「桜」、「つつじ」、「もみじ」、「椿(ツバキ)」、「菖蒲」など「多種類」の「植物」があり、「古木」に囲まれた広い「境内」は、「七堂釈迦藍」が「甍(イラカ)」を競い「名山」の「面影」を今に伝えています。
 「天應山観音教寺」では、「年中行事」として、「お取子大縁日」、「こどもの日のイベント」、「十七夜講(ジュウシチヤコウ)」が予定されています。

 「転読」ですが、「法会」において、「経」の「題名」と、「初」・「中」・「終」の「数行」だけを略読することです。
 (法会において、経の題名と初・中・終の数行を読み、経巻を繰って全体を読んだことにする読み方。)
 「転読」は、「大部」の「経典」、特に「大般若経」600巻について行われています。

 「大般若転読(ダイハンニャテンドク)」ですが、「仏事」の「法要名」で、「大般若経」600巻を「短時間」に読み上げる「法要」です。
 そのために、例えば30人の「職衆(シキシユウ)」に20巻ずつ分担させる等した上、「転読」という「速読法」を用います。
 「転読」ですが、「巻物」「仕立て」の「経」を転がしながら「目」を通すことから出た「言葉」ですが、「法要」には「折り本」を用い、「表裏」の「表紙」を「両方」の「手」で支え、「経巻」を「右」または「左」に傾けながら「本文」の「紙」をぱらぱらと「一方」へ落とすようにするそうです。
 そのとき、「経題」だけは毎巻「大声」で読み上げます。
 「大般若転読」ですが、この「転読」を中心とし、これに「導師」の「経釈」を加え、さらに「表白(ヒヨクビヤク)」、「神分(ジンブン)」等を前置して「法要」を構成するそうです。

 「星祭(ホシマツリ)」ですが、「旧暦」の「元旦」や、「立春」、「冬至」等に行われる「仏教」の「儀式」で、「天下国家」に起こる「各種」の「災害」や、「個人」の「災い」を除くものであり、「星供養(ホシクヨウ)」、「星供(ホシク)」、あるいは「北斗法」ともいわれています。

 「星祭」は、「仏教」の中で「後期」「大乗の教え」に属する「密教」において、「一字金輪仏頂」と呼ばれる「大日金輪」や、「釈迦金輪」を「主尊」とする「星曼茶羅」や、「七星如意輪観音」を「主尊」とする「七星如意輪曼荼羅」や、「妙見菩薩」を「主尊」とする「妙見曼荼羅」を「本尊」として、その年の主な「星曜」や、「各個人」の「当年星(トウネンジョウ)」と、「本命星(ホンミョウジョウ)」等を祀る「修法」と、「祭事」を「目的」とした「密教」の「祭儀」です。
 本来は「中国」の「道教」の「冬至」の「祭儀」であり、「インド」の「仏教」とは無関係でありましたが、「密教側」が「道教」から採り入れ、「仏教的」に脚色したものなのだそうです。

 「星曼陀羅」に代表される「密教占星術」では、「密教」の「修法」の「天文占星」を「二本の柱」として、「九曜星」の九つの「星」や、「北斗七星」の「七つの星」の内のひとつをその人の「生まれ星」として「大本星」と定め、「運命」を司る「星」と考えられています。

 また「星祭」では、一年毎に巡ってくる「運命」を左右する「星」を「当年属星」と呼んでいます。
 「星祭」ですが、これらの「星」を供養し、「個人」の「一年間」の「幸福」を祈り、「災い」を除くそうです。
 なお、「全国」の様々な「寺院」で「星祭」・「星供」の「行事」が行われています。

 「追儺(ツイナ)」とは、「大晦日」(旧暦12月30日)の「宮中」の「年中行事」であり、平安時代の初期頃から行われている「鬼払い」の「儀式」で、「鬼やらい」(鬼遣らい、鬼儺などとも表記)、「儺(ナ)やらい」とも呼ばれています。
 「追儺」の「儀式」は、「論語」の「郷党篇」にも「記述」があり、「中国」の「行事」が「ルーツ」であるそうで、「日本」においては「天皇」や、「親王」が行う「宮廷」の「年中行事」となったそうです。
 その後、「変遷」があり、現在の「節分」の元となったそうです。

 「追儺」の「儀式」の「概要」ですが、「方相氏(ホウソウシ)」と呼ばれる「鬼」を払う「役目」を負った「役人」(大舎人(オオトネリ))と、「方相氏」の「脇」に仕える「シンシ」と呼ばれる「役人」(特に役職は決まっていない)が20人で、「大内裏」の中を「掛け声」をかけつつ回りました。

 「方相氏」は「玄衣朱裳」の「袍(ホウ)」を着て、「金色」の「目」4つもった「面」をつけて、「右手」に「矛」、「左手」に大きな「楯」をもった。
 「方相氏」が「大内裏」を回るとき、「公卿」は「清涼殿」の「階(キザハシ)」から「弓矢」をもって「方相氏」に対して「援護」としての「弓」をひき、「殿上人(デンジョウビト)」らは「振り鼓」(でんでん太鼓)をふって「厄」を払いました。
 ところが9世紀中頃に入ると、「鬼」を追う「側」であった「方相氏」が逆に「鬼」として追われるようになったそうです。
 「古代史家」の「三宅和朗」はこの「変化」について、平安初期における「触穢信仰」の「高まり」が、「葬送儀礼」にも深く関わっていた「方相氏」に対する「忌避感」を強め、「穢れ」として追われる「側」に変化されたのではないかとしているそうです。

 「追儺」の「儀式」の「時」に行われる「除目」で、「春」の「県召(アガタメシ)」の「除目」や、「秋」の「司召(ツカサメシ)」の「除目」の際にもれた「人」を任官したそうで、「追儺」の「除目」ともいわれています。
 「追儺」は、「節分」の「ルーツ」ともされており、この「節分」においては、「鬼」を「豆」によって追い払い、「節分祭追儺神事」を行う「社寺」もあります。

 「芝山仁王尊」こと「天應山観音教寺」では、2月3日(金)に「芝山仁王尊」「節分会」を開催するそうです。
 「芝山仁王尊」「節分会」では、「大般若転読」・「除災招福護摩」・「星祭」を厳修するそうです。
 「大般若経」の「風」に当たるだけで「除災招福」の「功徳」を得られると古来より言われているそうです。
 「芝山仁王尊」「節分会」ですが、「法要」終了後、「天應山観音教寺」「三重塔」前「特別舞台」にて「鬼やらい」の「寸劇」と、「豆撒き」が行われるそうです。

 「火事泥棒除け」・「厄除け」の「芝山仁王尊」「天應山観音教寺」で開催される「大般若転読」・「除災招福護摩」・「星祭」を厳修する「節分会追儺式」「芝山仁王尊」「節分会」。
 この機会に「芝山町」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「芝山仁王尊」「節分会」詳細

 開催日時 2月3日(金) 13時〜(豆まきは14時〜)

 開催会場 天應山観音教寺 山武郡芝山町298

 問合わせ 天應山観音教寺 0475-77-2225

 備考
 「芝山仁王尊」「節分会」には、毎年多くの「参加者」があり、「法要」の後、「周辺地域」の「名士たち」が「年男」・「年女」として「特設会場」に上がり、「豆まき」や、「景品」の「福まき」を行うそうです。

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| 地域情報::成田 | 09:12 PM |
「第85回収蔵品展」「国宝伊能忠敬関係資料の世界」、「伊能家のおひなさま展」(香取市)
 本日ご紹介するのは、となりまち「香取市」「伊能忠敬記念館」で1月24日(火)〜3月20日(祝・月)の期間開催されます「第85回収蔵品展」「国宝伊能忠敬関係資料の世界」、「伊能家のおひなさま展」です。

 「伊能忠敬記念館」(2012年4月21日・1月29日・2011年3月8日のブログ参照)は、「佐原の偉人」「伊能忠敬」(2011年3月5日のブログ参照)の「功績」を讃(タタ)え、その「功績」を余すところなく紹介している「記念館」です。
 以前「伊能忠敬記念館」は、「伊能忠敬旧宅」(2012年2月24日のブログ参照)の「敷地内」にありましたが、「記念館」「建設」から相当な「年月」が経ち、また、かつての「伊能忠敬記念館」の「展示面積」が手狭であったなどのことから、1998年(平成10年)5月22日に、「伊能忠敬旧宅」の「小野川」(2012年9月7日のブログ参照)を挟んで「樋橋(トヨハシ)」(2012年2月13日のブログ参照)を渡った対岸に新しく「伊能忠敬記念館」が設置されることとなり、「現在地」に「伊能忠敬記念館」が開館したそうです。

 「伊能忠敬記念館」では、「醸造業」などを営む「豪商」の「伊能家」に17歳で「婿養子」に入り、「家運」を盛り立て「佐原の名主」として活躍した「前半生」、そして50歳(49歳)で隠居して、のちに「江戸」に出て「勉学」に励み、56歳から71歳まで計10回にわたって「全国測量」を行った「伊能忠敬の人生」を、「年代順」に追って紹介しています。
 「伊能忠敬記念館」では、「国宝」に指定された「測量器具」や、「伊能図」の数々が展示され、「地球」1周分の「距離」を測量して歩いたという「伊能忠敬の業績」を偲ぶことができ、その結晶ともいえる正確さと、芸術的な美しさを備えた「地図」や、「伊能忠敬関連資料」等が展示された「伊能忠敬記念館」は、「香取市」「佐原」の「観光名所」のひとつとなっています。

 「伊能忠敬記念館」の「展示」の「概要」は、「佐原時代」、「全国測量」、「伊能図の完成」、「地図の世界」と分けられ、「内容」は、下記の通りです。

 佐原時代

 伊能忠敬50歳までの前半生を紹介

 伊能忠敬は、50歳で江戸に出るまで佐原の名主・村方後見を務め、家業では醸造業等を営んでいました。
 34歳の時松島への旅行では神社仏閣を訪ねる旅でしたが、48歳の時伊勢神宮への旅の途中には、緯度・方位観測を行っており、このころから天文や暦学への興味をいだいておりました。

 全国測量

 隠居してからの勉学と全国測量の行程を紹介

 江戸で、天文方高橋至時の弟子になり勉強を本格的に始めます。
 55歳で北海道南岸の測量を行い、以後計10回に及ぶ日本全国の測量を71歳まで行いました。
 伊能忠敬は73歳で亡くなりますが、彼の没後3年にして日本全図は完成しました。

 伊能図の完成

 伊能図の数々を紹介

 伊能図には、1821年(文政4年)完成の「大日本沿海輿地全図」(大図214枚縮尺36000分の1、中図8枚縮尺216000分の1、小図3枚縮尺432000分の1)のほか、測量ごとに作った地図や名勝地を描いたものなど、多くの種類があります。
 いずれの地図も実際に測量してつくられたので、とても正確であるとともに、芸術的な美しさを備えています。
 (国宝の伊能図や測量器具は2ヶ月ごとに展示替えを行っています)

 地図の世界

 日本地図の歴史や、楽しい世界の地図を紹介

 伊能忠敬がつくった伊能図により日本の正確な姿が紹介された19世紀以前において、ヨーロッパの人々は日本の姿をどのように理解していたのでしょうか。
 ヨーロッパから見れば極東の地である日本については、さまざまな憶測やとぼしい地理的情報に基づいて描いていました。
 また、同時に日本人は自分の国の姿をどのように理解していたのでしょうか。
 地図はその時の時代観、宗教観、目的によってさまざまな形をとります。
 見ても楽しく興味深いものです。

 「伊能忠敬関連資料」ですが、平成22年(2010年)6月29日に「重要文化財」から「国宝」に指定された2345点の「資料群」です。
 「国宝」に指定された「資料」は、「地図・絵図類」、「文書・記録類」、「書状類」、「典籍類」、「器具類」に分類され、「伊能忠敬」の「全国測量」に関る「資料」の他、「孫」の「忠誨(タダノリ)」の「資料」も含まれています。
 ちなみに「国宝」とは

 「国が指定する重要文化財のうち、世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝」

 と評価され指定された「資料」のことです。

 「国宝」「伊能忠敬関連資料」「概要」は、「地図・絵図類」、「文書・記録類」、「書状類」、「典籍類」、「器具類」となっており、「国宝」「伊能忠敬関連資料」「概要」・「目録」は、下記の通りです。

 「国宝」「伊能忠敬関連資料」「概要」・「目録」

 「地図・絵図類」787点

 採色された伊能図、その元となった下図(シタズ)、測量経路の風景を鳥瞰図的に描いた麁絵図(アラエズ)、各測量地から提出された参考絵図などがあります。
 伊能図の作成過程をうかがい知り、また各地の測量技術を明らかにできる貴重な資料群です。

 「文書・記録類」569点

 日本全国測量中の日記、山などの方位を測った山島方位記、夜に天体観測した星の観測記録、先生である高橋至時の御用日記、測量御用の辞令や先触、伊能忠敬の孫である伊能忠誨(タダノリ)が作成した星図などの資料です。

 「書状類」398点

 伊能忠敬直筆の書状のほか、息子景敬、娘イネなどの親族、先生の高橋至時・高橋景保、尾形謙二郎や坂部定兵衛など弟子たち、友人の江川英殻・久保木清淵や諸藩の役人との書状があります。

 「典籍類」528点

 伊能忠敬が学んだ暦学書、測量書、和算書や測量に関わる中で集めた地理書などがあります。

 「器具類」63点

 地上測量の器具には、量程車や半円方位盤、象限儀(小)などが、天体観測の器具には、緯度測量に使う象限儀(中)、経度測定に使う水揺球儀があります。
 また、地図を作成する時に使った烏口や地図記号の印もあります。
 特に伊能忠敬の孫の伊能忠誨が使用した水揺球儀もあり、国内でも有数のコレクションとなっています。

 この度(タビ)「伊能忠敬記念館」では、1月24日(火)から3月20日(祝・月)までの期間「収蔵品展」「第85回収蔵品展」「国宝伊能忠敬関係資料の世界」を開催するそうです。
 「第85回収蔵品展」「国宝伊能忠敬関係資料の世界」開催に際し、「伊能忠敬記念館」では、下記のような紹介、鑑賞を呼びかけています。

 「第85回収蔵品展」「国宝伊能忠敬関係資料の世界」

 当館所蔵の国宝「伊能忠敬関係資料」には、地図や測量道具だけではなく、伊能忠敬に関わるさまざまな資料が含まれており、全体は5つの部門に分類されます。
 地図・絵図類、文書・記録類、書状類、典籍類、器具類のそれぞれから、厳選した実物資料を展示し、国宝「伊能忠敬関係資料」の持つ奥深い世界を紹介していきます。

 また「伊能忠敬記念館」では、「第85回収蔵品展」「国宝伊能忠敬関係資料の世界」と「同時開催」で、「伊能家のおひなさま展」も行うそうです。
 「伊能家のおひなさま展」の「内容」は、下記の通りです。

 「伊能家のおひなさま展」

 伊能家には、忠敬から数えて4代目当主の娘たちのお雛さまが伝わっています。
 今回、この雛人形や雛飾りとともに、京都出身の呉服商で江戸時代後期から明治・大正時代にかけて佐原随一の商家であった旧奈良屋の雛人形も展示します。

 「佐原の偉人」「伊能忠敬」の「生涯」・「功績」を余すところなく紹介している「伊能忠敬記念館」で開催される「収蔵品展」「第85回収蔵品展」「国宝伊能忠敬関係資料の世界」、「伊能家のおひなさま展」。
 この機会に「香取市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「第85回収蔵品展」「国宝伊能忠敬関係資料の世界」、「伊能家のおひなさま展」詳細

 開催期間 1月24日(火)〜3月20日(祝・月)

 開館時間 9時〜16時半 (最終入館〜16時)

 開催会場 伊能忠敬記念館 香取市佐原イ1722-1

 入館料  大人500円 小・中学生250円

 休館日  月曜日 (祝日の場合は開館) 年末年始

 問合わせ 伊能忠敬記念館 0478-54-1118

 備考
 「香取市」「佐原」では、2月4日(土)から3月26日(日)までの「期間」、「恒例・人気」の「催し」「第12回さわら雛めぐり〜お雛さまの舟遊び〜」を開催するそうです。
 「第12回さわら雛めぐり〜お雛さまの舟遊び〜」では、「趣」のある「佐原」(佐原の町並み)の「たたずまい」とともに、「商家」に伝わる「雛たち」をゆっくりと観覧できる「催し」となっています。
 また、「第12回さわら雛めぐり〜お雛さまの舟遊び〜」「期間中」の3月18日(土)に「さわら雛舟(ヒナブネ)春祭り」を開催するそうです。
 「さわら雛舟春祭り」では、「雛人」が「雅楽」の「演奏」で「優雅」に「小野川」を進める「リアル流し雛」となっており、「さわら雛舟春祭り」は、1日3回運航されるそうです。

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| 地域情報::香取 | 09:12 PM |
「鹿島アントラーズ・優勝記念イベント」(鹿嶋市)
 本日ご紹介するのは、近隣市「鹿嶋市」「鹿島神宮」周辺及び「鹿嶋市商工会館」前で1月29日(日)に開催されます「鹿島アントラーズ・優勝記念イベント」です。

 「鹿嶋市」は、「関東地方」「東部」、「茨城県」「東南部」に位置する「市」で、「鹿島神宮」(2010年11月8日・9日・10日のブログ参照)を擁する「文化都市」であるとともに、「鹿島臨海工業地帯」を擁する「工業都市」でもあります。
 現在の「鹿嶋市」の「人口」ですが、67775人(男35072人、女32703人)で、「世帯数」27764世帯となっています。
 (平成28年(2016年)12月1日現在)

 「鹿嶋市」の「沿革」は、下記の通りです。

 「市制施行以前」

 1871年(明治4年)12月25日 (明治4年11月14日)廃藩置県により新治県に編入。

 1875年(明治8年)5月7日 新治県が分割され、茨城県に編入。

 1953年(昭和28年)5月18日 国道123号線(現在の国道51号線)と、国道124号線が制定。

 1970年(昭和45年)8月20日 鹿島線(鹿島神宮駅〜香取駅間)が開業。

 1985年(昭和60年)3月14日 鹿島臨海鉄道大洗鹿島線が開業。

 1993年(平成5年)3月26日 茨城県立カシマサッカースタジアムが竣工。

 「市制施行以後」

 1995年(平成7年)9月1日 鹿島町が大野村を編入、市制施行し、鹿嶋市誕生。

 2002年(平成14年)   2002FIFAワールドカップをカシマサッカースタジアムにて開催。

 2005年(平成17年)   市制施行10周年。

 2015年(平成27年)   市制施行20周年。

 「鹿嶋市」は、「茨城県」「南東部」に位置する「市」で、「首都」「東京」から110km「東」に位置し、「鹿嶋市」の「市」の「東側」は「太平洋」「鹿島灘(カシマナダ)」(2012年6月16日のブログ参照)に面していることから「海岸」「海水浴場」「平井海水浴場」(2016年3月22日のブログ参照)、「下津海水浴場(オリツカイスイヨクジョウ)」(2016年3月22日のブログ参照)があります。
 「鹿嶋市」の「西側」は「北浦」(2011年12月6日のブログ参照)、「鰐川(ワニガワ)」に面し、「筑波山」を望むことができます。
 「鹿嶋市」は「JR総武本線」の「分岐線系統」である「JR鹿島線」や「東関東自動車道」(厳密には潮来IC(イタコインターチェンジ)(潮来市内))の「沿線」であり、「交通網」が「茨城県」の「県庁所在地」「水戸市」でも「土浦」からでもなく、「千葉県」の「県庁所在地」「千葉市」から「順」に整備されたことから、「茨城県」の他の「地域」よりも、「国道51号線」を通じた「千葉県」「東部」(香取市、成田市、千葉市、銚子市等)との「関係」が深い「市」です。

 「鹿嶋市」は、「常陸国一宮」である「鹿島神宮」の「門前町」として栄えてきました。
 現在「鹿嶋市」は「となりまち」「神栖市」とともに「重要港湾」である「鹿島港」を中心とした「鹿島臨海工業地帯」を形成し、「新日鐵住金」の「企業城下町」として「鉄鋼企業」を中心とした「工業都市」として知られています。
 また「鹿嶋市」は、「Jリーグ」「鹿島アントラーズ」の「ホームタウン」(他に潮来市、神栖市、鉾田市、行方市)の中心であり、「関東」でも「有数」の「サッカーの街」としても「有名」です。
 「鹿嶋市」は、1995年(平成7年)9月1日に「鹿島町」が「大野村」を編入し、「市制施行」し、「鹿嶋市」となっています。
 「鹿嶋市」の「名称」ですが、「市制施行」の際、「佐賀県」の「鹿島市」と重複しないように、「島」の「異体字」である「嶋」に変えて「鹿嶋」としたそうです。
 「鹿島町」が「大野村」を編入し、「市制施行」した「鹿嶋市」ですが、昨年(2015年)で「市制施行20周年」を迎えており、昨年、「鹿嶋市」では、「市制施行20周年」を記念し、「各種」「記念行事」が催行されました。

 「常陸国一宮」「鹿島神宮」は、「茨城県」「鹿嶋市」に鎮座する「神社」で、「全国」に約600社ある「鹿島神社」の「総本社」です。
 「鹿島神宮」は、「千葉県」「香取市」に鎮座する「香取神宮」(2010年11月5日・6日のブログ参照)、「茨城県」「神栖市」に鎮座する「息栖神社(イキスジンジャ)」(2010年11月7日のブログ参照)と合わせて「東国三社」(2010年10月23日のブログ参照)と呼ばれ、江戸時代から「東国三社めぐり」として「人気」があったそうで、「初詣」には、「全国」から60万人以上が参拝し、「初詣」の「参拝者数」では「茨城県」2位を誇ります。

 「鹿島神宮」は、「茨城県」「南東部」、「北浦」と「鹿島灘」に挟まれた「鹿島台地」上に鎮座し、「鹿島神宮」は、「伊勢神宮」・「香取神宮」とともに、明治維新前に「神宮」の「名称」を使用していた「三社」のうちの「一社」です。
 「鹿島神宮」の「御祭神」「武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)」(建御雷神)で、「鹿島神」という「一般名称」でも知られており、「古事記」では、「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」が「軻遇突智(カグツチ)」の「首」を切り落とした際、「剣」についた「血」が「岩」に飛び散って生まれた「三神」のうちの「一柱」とされています。
 「武甕槌大神」は、「香取神宮」の「御祭神」「経津主大神(フツヌシノオオカミ)」とともに、「天孫降臨」に先立ち「国譲り」の「交渉」をしたといわれている「神様」で、「武甕槌大神」は、「武の神」として古くから「皇室」や「藤原氏」の「崇敬」を受け、さらに鎌倉時代以降は「武家政権」の「信仰」も得て、「社殿」・「楼門」・「宝物類」の「奉納」や「所領寄進」が繰り返されてきました。

 「鹿島アントラーズ」(Kashima Antlers)は、「日本」の「茨城県」「鹿嶋市」、「神栖市」、「行方市」、「鉾田市」を「ホームタウン」とする、「日本プロサッカーリーグ」(Jリーグ)に加盟する「プロサッカークラブ」です。
 「鹿島アントラーズ」の「クラブカラー」は、「ディープレッド」、「創立年」は1947年(昭和22年)、「ホームスタジアム」は、「茨城県立カシマサッカースタジアム」(収容人数・40728人)となっています。

 「鹿島アントラーズ」ですが、1947年に創立された「住友金属工業蹴球団」が「前身」で、「Jリーグ」「加盟時」の1991年(平成3年)10月に、「地元5自治体」(茨城県鹿島郡鹿島町・神栖町・波崎町・大野村、行方郡潮来町)と43企業の「出資」により「運営法人」「(株)鹿島アントラーズ・エフ・シー」が設立され、「現クラブ名」に改称したそうで、「Jリーグ」「創設時」からの「加盟チーム」(オリジナル10)のひとつです。
 「鹿島アントラーズ」の「ホームタウン」は「設立当時」の「5町」が合併して設立した「鹿嶋市」(旧・鹿島町、大野村)・「神栖市」(旧・神栖町、波崎町)・「潮来市」(旧・潮来町、牛堀町)に加え、2006年(平成18年)からは「行方市」、「鉾田市」が追加されました。
 なお、当時「ホームタウン」は「原則」として「1チーム」「1市区町村」でしたが、「鹿島」に限り「特例」で「周辺市町村」との「広域ホームタウン」が認められました。
 (現在は広域ホームタウンとしたクラブが複数あります。)

 「鹿島アントラーズ」の「ホームスタジアム」は、上記のように「茨城県立カシマサッカースタジアム」、「練習場」は「鹿島アントラーズクラブハウスグラウンド」となっています。
 「鹿島アントラーズ」「チーム名」の「アントラー(antler)」は「英語」で「鹿の枝角」を意味し、「鹿島神宮」の「神鹿」にちなみ、「枝角」は「茨城県」の「茨」を「イメージ」しており、その鋭い「枝角」で「勇猛果敢」に立ち向かい「勝利」を目指すという「意味」も込められているそうです。
 「鹿島アントラーズ」「チーム発足時」から「クラブ」の「アイデンティティ」として「FOOTBALL DREAM」を常に掲げているそうです。
 「鹿島アントラーズ」の「クラブマスコット」ですが、「シカ」を「モチーフ」にした「しかお」と、1997年(平成9年)3月2日に「しかお」と結婚したという「設定」の「しかこ」で、1999年(平成11年)8月1日に「しかお」と「しかこ」の間に誕生したという「設定」の「アントン」だそうです。

 「鹿島アントラーズ」ですが、「国内」の「3大タイトル」(J1リーグ、Jリーグカップ、天皇杯)において、延べ19回の「優勝回数」を誇り、これは「Jリーグクラブ」「最多」です。
 (タイトル個々でも単独で優勝回数最多)
 「鹿島アントラーズ」は、「Jリーグ」「史上初」となる「3連覇」(2007年〜2009年)、「Jリーグ」「初」の「国内三冠」(2000年)を達成した「クラブ」でもあります。
 「鹿島アントラーズ」は、「国際大会」においても「FIFAクラブワールドカップ」(2016年)において「準優勝」の「成績」を収めています。
 これは「FIFAクラブワールドカップ」で「アジアサッカー連盟」(AFC)「所属」の「クラブ」が「決勝」「進出」した「唯一」の「クラブ」でもあります。

 この度(タビ)「鹿嶋市」では、「鹿島アントラーズ」の「2016シーズン」の「明治安田生命J1リーグ」「優勝」及び「第96回天皇杯全日本サッカー選手権大会」「優勝」を記念し、「優勝記念イベント」「鹿島アントラーズ・優勝記念イベント」を開催するそうです。
 「鹿島アントラーズ・優勝記念イベント」ですが、1月29日(日)11時00分から開催され、「優勝パレード」、「優勝報告会」、※「必勝祈願」(於・鹿島神宮)が行われるそうです。
 「鹿島アントラーズ・優勝記念イベント」の「日程」(予定)は、下記の通りです。

 11時00分 優勝パレード(往路) 鹿嶋市商工会館前〜

 11時30分 必勝祈願 鹿島神宮

 12時00分 優勝パレード(復路) 鹿島神宮〜鹿嶋市商工会館前

 12時30分 優勝報告会 鹿嶋市商工会館前

 「鹿島アントラーズ・優勝記念イベント」開催に際し、下記の「交通規制のお願い」があるそうです。

 ・優勝パレードや優勝報告会などを安全に開催するために、会場周辺にて警備を行い、交通規制を行います。ご理解とご協力をお願いします。

 ・ご来場の際は、警察官、警備員、係員の指示に従ってください。

 ・交通規制範囲においては、規制時間内に車両の通行はできません。ご協力をお願いします。

 ・会場周辺は混雑が予想されますので、近隣住民へのご迷惑を最小限にするためにも、公共交通をご利用ください。

 ・会場周辺道路への自動車、オートバイ、自転車等の駐車・駐輪はご遠慮ください。

 「鹿島アントラーズ・優勝記念イベント」の「観覧」にあたり、下記の「事項」についてご協力をお願いしています。

 ・安全に優勝記念イベントを開催するために、警備員、係員の指示に従ってください。

 ・観衆が集中することが想定されます。安全に十分留意し、観覧をお願いします。

 ・事前に場所取りなどを行うことはできません。(シートなどの場所取りは撤去いたします。)

 ・パレードの最中に、道路の横断はできません。

 ・コース沿道の民有地へは立ち入らないでください。

 ・ゴミは、各自でお持ち帰りくださいますようお願いします

 ・コース沿道に横断幕や看板等の設置はできませんので、あらかじめご了承ください。

 ・コース沿道や周辺でのドローン等(小型無人機)の飛行は、禁止になります。

 ・小雨の際、傘をさすと後ろの方の観覧の妨げになり、大変危険ですのでご遠慮ください。

 「鹿島神宮」周辺及び「鹿嶋市商工会館」前で開催される「優勝パレード」、「必勝祈願」、「優勝報告会」「鹿島アントラーズ・優勝記念イベント」。
 この機会に「鹿嶋市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「鹿島アントラーズ・優勝記念イベント」詳細

 開催日時 1月29日(日) 11時〜

 開催会場 鹿島神宮周辺及び鹿嶋市商工会館前 茨城県鹿嶋市宮中

 問合わせ 鹿島アントラーズコールセンター 0299-82-5555(10時〜16時)
      アントラーズ・ホームタウン協議会事務局(鹿嶋市まちづくり政策課) 0299-82-2911

 備考
 「鹿島アントラーズ・優勝記念イベント」ですが、「小雨決行」となっています。
 「鹿島アントラーズ・優勝記念イベント」の「雨天時」の「態度決定」ですが、「当日」9時30分に態度決定となっており、「雨天中止」の場合には、「鹿島アントラーズ」「HP」にて周知するそうです。

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| 地域情報::鹿島 | 04:25 PM |
「新春特別展」「成田山の近代美術」(成田市)
 本日ご紹介するのは、近隣市「成田市」「成田山書道美術館」で1月1日(祝・日)〜2月19日(日)の期間開催されます「新春特別展」「成田山の近代美術」です。

 「成田山新勝寺」(2010年11月14日・15日・16日のブログ参照)は、「成田市」に鎮座する「真言宗智山派」の「寺院」であり、「真言宗智山派」の「大本山」のひとつで、「弘法大師」「空海」が敬刻開眼した「不動明王」の「御尊像」を「御本尊」として開山された「不動尊信仰」の「総府」です。
 「成田山新勝寺」は、1000年以上の「歴史」をもつ「全国有数」の「霊場」で、「成田」を代表する「観光地」でもあり、正月3が日には約300万人、「年間」約1000万人以上の「参拝客」が訪れています。
 「成田山新勝寺」の「御本尊」は「不動明王」で、古来より、「お不動さま」の「御霊験」・「御利益」は数限りなく、「数多」の「信仰」を集め、「成田山新勝寺」は、今日(コンニチ)では毎年1000万人を超える「参詣者」を迎える「関東地方」「有数」の「著名寺院」です。
 「全国」「有数」の「広大」な「敷地」を誇る「成田山新勝寺」「境内」には、「車」の「祈祷」をする「交通安全祈願殿」、「自然」豊かな「公園」、「成田山書道美術館」(2011年6月5日のブログ参照)や、「成田山仏教図書館」等多くの「施設」を有しています。
 「成田山新勝寺」ですが、「家内安全」、「交通安全」等を祈る「護摩祈祷」のために訪れる方が多い「不動明王信仰」の「寺院」のひとつであり、「成田のお不動さま」の「愛称」で親しまれています。
 ちなみに「真言宗智山派」の「総本山」ですが、「智積院」(京都府京都市東山区東山七条)であり、「大本山」ですが、「成田山新勝寺」と、「川崎大師平間寺」(神奈川県川崎市川崎区)、「高尾山薬王院」(東京都八王子市高尾町)となっています。
 なお、「全国各地」の「不動尊信仰」を支える「成田山」ですが、「全国」に71ヵ寺の「別院」・「分院」・「末寺」・「末教会」・「成田山教会」があるそうです。

 「成田山新勝寺」の「御本尊」である「不動明王」ですが、「真言宗」の「開祖」「弘法大師」「空海」が自ら「一刀三礼」(ひと彫りごとに三度礼拝する)の「祈り」をこめて「敬刻開眼」された「御尊像」なのだそうです。
 「成田山新勝寺」では、この霊験あらたかな「御本尊」「不動明王」の「御加護」で、千年以上もの間、「御護摩」の「火」を絶やすことなく、皆様の「祈り」が一体となり「清浄な願い」となって現れるそうです。
 「成田山新勝寺」は、開山1080年を間近に控えた現在も「成田山のお不動さま」として数多くの人びとの「信仰」を集めています。

 「成田山」の「開山の祖」「寛朝大僧正(カンチョウダイソウジョウ)」は、延喜16年(918年)に生まれ、天慶3年(940年)「平将門の乱」を鎮めるため「朱雀天皇」の「勅命」により「関東」に下り、この地に「成田山新勝寺」が開山されました。
 「寛朝大僧正」は、「皇室」との「血縁」もある大変に格の高い「僧侶」で、後に「真言宗」初めての「大僧正」に任じられ、「成田山」の他にも「京都」に「遍照寺」を開山しているそうです。

 「成田山新勝寺」は、上記のように平安時代中期に起きた「平将門の乱」の際、939年(天慶2年)「朱雀天皇」の「密勅」により「寛朝大僧正」を「東国」に遣わしたことに「起源」を持ちます。
 「寛朝大僧正」は、「京」の「高雄山」(神護寺)「護摩堂」の「空海」作の「不動明王像」を奉じて「東国」へ下り、翌940年(天慶3年)、「海路」にて「上総国」「尾垂浜」に上陸、「平将門」を調伏するため、「下総国」「公津ヶ原」で「不動護摩」の「儀式」を行ったそうです。
 「成田山新勝寺」では、この天慶3年を「開山の年」としています。
 「平将門の乱」「平定後」の永禄年間(1566年)(永禄9年)に「成田村一七軒党代表」の「名主」が「不動明王像」を背負って「遷座」され「伽藍」を建立された「場所」が、現在の「成田市」「並木町」にある「不動塚」周辺と伝えられており、「成田山発祥の地」といわれています。
 「成田山新勝寺」の「寺名」ですが、「また新たに勝つ」という「語句」に因み「新勝寺」と名づけられ、「東国鎮護」の「寺院」となったそうです。

 「成田山新勝寺」では、平成20年(2008年)に「開基1070年祭記念大開帳」が行われ、これにあわせて、平成19年(2007年)には「総欅造り」の「総門」が落慶され、「新勝寺」の「表玄関」として荘厳な「たたずまい」を見せています。
 この「総門」は、開かれた「庶民のお寺」「成田山」と「門前町」とをつなぐ「担い手」として、「大開帳」を記念し創建されたもので、「総門」前にある「門前広場」は「参拝客」の「憩いの場」となっています。

 「成田山新勝寺」ですが、「総門」をくぐって、「境内」に入ると大きな赤い「提灯」のある「仁王門」があり、「境内」には、数多くの「建造物」が立ち並んでいます。
 「仁王門」から「東海道五十三次」にならった53段の「石段」を上がると、「成田山」の「シンボル」である「大本堂」が現れ、「成田山新勝寺」「大本堂」では、「世界平和」と「人々の幸せ」を願って「開山」以来毎日欠かさずに「御護摩祈祷」が厳修されています。

 「成田山新勝寺」の「伽藍」ですが、「JR」および「京成電鉄」の「成田駅」から「成田山新勝寺」への「参道」が伸び、「参道」を10分ほど歩き、急な「石段」を上った先の「台地上」に「境内」が広がっています。
 「石段」の途中に「仁王門」、「石段」を上った先に正面に「大本堂」、その手前「右手」に「三重塔」、「鐘楼」、「一切経堂」などが建っています。
 この他、「大本堂」の「左手」に「釈迦堂」、「大本堂」の背後の一段高くなった地には「額堂」、「光明堂」、「開山堂」、「成田山平和大塔」(2012年5月7日のブログ参照)などが建っており、「成田山新勝寺」「境内」の「東側」は広大な「成田山公園」(2011年11月8日・2010年11月12日のブログ参照)があります。
 「成田山新勝寺」にある「釈迦堂」、「光明堂」、「成田山表参道」にある「薬師堂」(2013年5月22日のブログ参照)ですが、「歴代」の「成田山」の「大本堂」です。
 これほどの数の「御堂」が現存している「寺院」は大変珍しく、それぞれの「建物」には「建立時」の「建築様式」を今に伝えており、江戸中期から末期の「建物」である「仁王門」、「三重塔」、「釈迦堂」、「額堂」、「光明堂」の5棟が「国」の「重要文化財」に指定されています。

 「成田山書道美術館」は、「成田山新勝寺」の「大本堂」の「奥」に広がる「成田山公園」の「一角」に建つ「書」の「専門美術館」です。
 「成田山書道美術館」は、「水」と、「木々」が快(ココロヨ)い「調和」を生んでいる「成田山公園」の「三の池」の「畔(ホトリ)」に佇んでおり、「成田山書道美術館」「館内」には、「書の世界」が広がっています。
 「成田山書道美術館」は、江戸末期から現代に至る「日本」の「書道作品」や、「資料」を収蔵、展示しており、特に「成田山書道美術館」では、あまりにも現代に近いが故(ユエ)に見過ごされがちな「近代日本」の「書作品」を広い視野から収蔵しています。

 「成田山書道美術館」「展示棟」1階ですが、「吹き抜け」になった「中央プラザ」をもつ「企画展示室」や、「高さ」13mの「壁面」をもち、ゆったりとした「空間」で「作品」を鑑賞することができます。
 「成田山書道美術館」2階ですが、「常設展示室」となっており、「回廊式」の「ギャラリー」となっています。
 「成田山書道美術館」は、「書」の「総合美術館」として、優れた「作品」を鑑賞できることはもちろん、「作品」の「保存」・「研究」・「普及」など、「専門家」から「一般の人」まで楽しめるようになっているそうです。

 「成田山書道美術館」は、近現代の「書蹟」の「収蔵」では、「質量」ともに群を抜いており、これらを活かした「展示」・「普及」・「研究活動」が行われています。
 「成田山書道美術館」ですが、「書」を「専門」とした「美術館」として「書文化」の「興隆」に貢献し、「書」を含む「美術」「全般」に目を向け、「美術館」の「施設」を生かした「複合的」な「展示」に取り組んでおり、「書」は「苦手」という「人」でも抵抗なく楽しめるように「展示」・「運営」されています。

 「成田山書道美術館」では、「テーマ」を変えながら「年間」6〜7回「展示」を行っています。
 近現代の「書」は、「鑑賞」という点において、「絵画」や、「彫刻」などと比べるとまだまだ「発展途上」のようですが、「成田山書道美術館」では、様々な「切り口」での「展示」を企画し、「書の魅力」を「多方面」に感じられる場を提供しています。

 「新春特別展」「成田山の近代美術」ですが、「成田山書道美術館」で1月1日(祝・日)から2月19日(日)までの「期間」開催される「特別展示会」です。
 「新春特別展」「成田山の近代美術」の「開催要項」、「趣旨」は、下記の通りです。

 開催要項

 下記「詳細」にて記載

 趣旨

 平成30年に開基1080年を迎える大本山成田山新勝寺には、数多くの歴史史料や美術品が伝えられてきました。
 これらのなかには、様々な時代に描かれた不動明王図をはじめとする仏画や古写経、新勝寺を彩ってきた山水画や花鳥画、成田山文化財団で所蔵する各種の書画や史料など、多種多様な文化財を見ることができます。
 江戸時代以降、成田山には多くの参詣者が訪れるようになりました。
 その賑わいを背景に、数々の芸術家が成田山を舞台に活躍し、多様な文化財を遺すことになったのです。
 今回の展覧会では、新勝寺で使用されてきた襖絵や屏風などをはじめ、成田山および書道美術館で所蔵する、明治時代以降の絵画や書跡を中心に展観します。
 初詣とあわせて、成田山の文化財をご堪能いただきたいと思います。

 「成田山書道美術館」「HP」「催事案内」参照、原文まま表記

 「新春特別展」「成田山の近代美術」の主な「出品予定作品」は、下記の通りです。

 児玉希望 「不動」

 大山忠作 新勝寺襖絵「杉・松・竹」

 土田麦僊 「散華下図」

 橋本雅邦 「春秋山水図」

  青山杉雨 「金剛不壊」

 「書」の「専門美術館」「成田山書道美術館」で開催される「特別展」「新春特別展」「成田山の近代美術」。
 この機会に「成田市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「新春特別展」「成田山の近代美術」詳細

 開催期間 1月1日(祝・日)〜2月19日(日)

 開催会場 成田山書道美術館 成田市成田640

 開館時間 9時〜16時(入館は〜15時半)

 休館日  月曜(祝日の場合は翌日)

 入館料  大人500円 大高生300円

 問合わせ 成田山書道美術館 0476-24-0774

 備考
 「成田山書道美術館」では、「新春特別展」「成田山の近代美術」を「動画」でもご紹介しています。
 詳しくは「成田山書道美術館」「HP」、「公園情報」よりアクセスして下さい。

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| 地域情報::成田 | 04:24 PM |
「神栖市特産品認定事業」(神栖市)
 本日ご紹介するのは、となりまち「神栖市」で募集している「神栖市特産品認定事業」です。

 「神栖市」は、「茨城県」の「最東端」に位置し、「東側」は「太平洋」に、「南側」・「西側」は「利根川」(2011年10月9日のブログ参照)を経て「千葉県」に、「北西側」は「鹿嶋市」及び「潮来市」に接した「南北」に長い「形状」をしており、「面積」ですが、147.26平方kmとなっています。
 「神栖市」の「北部」から「東部」一帯は、「鹿島港」及び「鹿島臨海工業地帯」が整備され、「製造品出荷額」は「茨城県」第1位となっており、「温暖」な「気候」を活かした「ピーマン」は「ブランド品」として高い「評価」を受け、「全国」第1位の「生産量」を誇っています。
 また、「神栖市」「南部」は「波崎漁港」を「中心」に「漁業」が盛んに営まれており、「水産加工品」などが「特産品」となっており、「商業」を含めた「各産業」が「バランス」良く形成されています。

 「神栖市」は、平成17年(2005年)8月1日に「神栖町」と「波崎町」との「市町村合併」により、「人口」9万人余りの「市」として誕生しました。
 「合併協議」の「経緯」ですが、平成16年(2004年)4月20日、「波崎町長」から「神栖町長」へ「合併協議」の「申し入れ」があり、8月20日には、「神栖町・波崎町合併協議会」が設置され、「市町村合併」に関する「協議」が行われました。
 その後、「神栖町」と「波崎町」は、上記のように平成17年(2005年)8月1日に合併し、「神栖市」となり、これにより「神栖町・波崎町合併協議会」は解散しました。
 ちなみに2016年12月末日現在・「神栖市」の「人口」ですが、「総人口」94934人、「男性」48707人、「女性」46227人、「世帯数」39686世帯となっています。

 「神栖市」は、上記のように「茨城県」の「最南端」に位置し、「利根川」と「鹿島灘(カシマナダ)」(2012年6月16日のブログ参照)に囲まれ、「関東地方」の中でも「夏」涼しく、「冬」暖かい、「レジャー」に「最適」な、恵まれた「気候」の「まち」です。
 また「神栖市」は、「花火」や「神輿」、「よさこい」等「お祭り」・「イベント」が盛り上がる「元気」な「まち」で、「波崎地区」で行われる「きらっせ祭り」(2016年8月27日・2015年8月22日・2014年8月23日・2013年8月25日・2012年8月23日・2011年8月23日・2010年8月27日のブログ参照)、「神栖地区」で行われる「神栖花火大会」(2016年9月15日・2015年9月13日・2014年9月18日・2013年9月19日・2012年9月18日・2011年9月11日・2010年8月9日のブログ参照)、「全国有名よさこいチーム」も多数参加される「かみす舞(ブ)っちゃげ祭り」(2016年9月16日・2015年9月17日・2014年9月15日・2013年9月20
日・2012年9月19日・2011年9月22日・2010年8月6日のブログ参照)、「波崎地区」「手子后神社(デゴサキジンジャ)」(2011年7月10日のブログ参照)で開催される「大潮祭」(2016年7月15日・2014年7月11日・2013年7月19日・2012年7月31日・2011年7月10日のブログ参照)などが行われています。

 「神栖市」の「観光スポット」ですが、「神栖西部地区」、「神栖中部地区」、「神栖東部」・「若松」・「谷田部地区」、「波崎地区」と「エリア」が分かれており、「神栖市」の「観光スポット」は、下記の通りです。

 「神栖西部地区」

 外浪逆浦(ソトナサカウラ)(なかさ夕日の郷公園)(2011年1月30日のブログ参照)

 歴史民俗資料館

 息栖神社(イキスジンジャ)(2010年11月7日のブログ参照)

 リバーサイドサイクリングロード

 常陸川大橋(利根川河口堰)

 「神栖中部地区」

 港公園と展望台(2016年5月21日・2011年7月8日のブログ参照)

 神之池緑地公園

 山本家住宅(国指定重要文化財)(2011年7月5日のブログ参照)

 神栖市役所

 「神栖東部・若松・谷田部地区」

 1000人画廊

 海浜温水プール
 (神栖海浜運動公園)

 日川浜オートキャンプ場

 日川浜海水浴場(2016年7月22日・2014年7月13日・2012年7月13日のブログ参照)

 温浴施設ゆ〜ぽ〜とはさき(天然温泉)

 ウチワサボテン群生地(茨城県指定天然記念物)

 波崎ウィンドファーム(2011年7月25日のブログ参照)

 谷田部サッカー場

 「波崎地区」

 波崎かもめ公園・波崎漁港

 波崎海水浴場(2016年7月22日・2014年7月13日・2012年7月13日・2011年7月19日のブログ参照)

 サンサンパーク休憩施設

 童子女(オトメ)の松原公園(2012年5月29日のブログ参照)

 シーサイドパーク(2011年7月25日のブログ参照)

 波崎海岸砂丘植物公園

 かもめ大橋

 波崎の大タブ(神善寺)(2011年2月7日のブログ参照)

 波崎総合支所

 銚子大橋(2010年12月17日のブログ参照)

 河畔プロムナード

 この度(タビ)「神栖市」では、「神栖市内」で生産したものを「原材料」に使用した「商品」や、「神栖市」と関わりのある「名称」を使用した「商品」に、「特産品」としての「認定」を実施する「神栖市特産品認定事業」を募集するそうです。
 広く「神栖市民」や、「観光客」に親しまれる新たな「特産品」を募集する「神栖市特産品認定事業」ですが、「選定委員会」により認定された「特産品」には「認定証」を交付し、「商品」の「容器」や、「包装」に「認定」の「表示」ができたり、また、「神栖市」・「神栖市観光協会」「HP」や、「広報紙」「広報かみす」等にて掲載・紹介の他、「イベント」や、「キャンペーン活動」等でも「神栖市」をPRする「特産品」として、広く周知することができるそうです。

 「神栖市特産品認定事業」の「認定の対象」は、下記の通りです。

 特産品の製造について、市内で生産する原材料を使用し、商品化したもの
 特産品の名称について、市と関わりのある名称を使用し、商品化したもの
 商品または商品名が市の魅力を発信できるものを商品化したもの

 ※交付には審査で下記の基準を満たす必要があります。

 「神栖市特産品認定事業」の「認定」の「審査基準」は、下記の通りです。

 産地

 事業所または事業者が神栖市内にあり、かつ次の条件のうち、いずれかに該当するもの

 神栖市内で生産・製品化されたものである
 神栖市内で生産された資源・材料がふくまれている

 オリジナリティ

 神栖市のイメージアップにつながるものである
 歴史・伝統・風土などの背景があるなど、神栖市にゆかりのある製品である
 独創性があり、他にはない商品特徴がある
 他人の知的財産権を侵害していない

 品質・価格

 品質に見合った価格が設定されている
 味に優れている(食料品の場合)
 パッケージデザインにこだわりがあるなど、外見に優れている

 信頼性・安全性

 一定の品質を保持できる
 継続的な生産手段・販売手段が確立されている
 生産や販売に関する法令が遵守され、衛生面に細心の留意をしている
 申請者が「神栖市特産品」の趣旨を理解を示し、キャンペーン等のPR活動に積極的に参加し、地域経済の発展に貢献しようとする意識がある
 商品に関する責任の所在が明確であり、第三者からの苦情等に対する処理体制が確立されていると認められる

 個別産品に関わる基準

 共通認定基準に加え、産品の種別によっては、神栖市特産品認定委員会において必要に応じて基準を定める。

 「神栖市特産品認定事業」の「申請方法」は、下記の通りです。

 必要事項記入・代表者印押印済の申請書を神栖市役所商工観光課もしくは観光協会事務局に持参または郵送にて提出して下さい。
 申請書式の入手については、神栖市HPにあるファイルをダウンロードするか、神栖市商工観光課もしくは観光協会事務局までお問い合わせ下さい。

 申請期間

 2017年1月10日(火)〜31日(火)

 申請先

 神栖市役所 商工観光課(茨城県神栖市溝口4991 神栖市商工会館2F)
 TEL 0299-90-1217

 神栖市観光協会(神栖市土合本町5丁目9809-527 神栖市商工会波崎支所2F)
 TEL 0479-26-3021

 「神栖市特産品認定事業」の「特産品認定までの流れ」は、下記の通りです。

 1 申請期間内に申請書一式を提出する。

 2 申請のあった商品について、審査・認定を行うため、神栖市特産品認定委員会をおいて審議する。

 3 特産品として認定された場合、申請書に神栖市特産品認定証を交付する。
  同時に、神栖市の特産品であることを示す認証シールを配布する。

 4 認定証の有効期間は3年間(更新可能)。
  期間中に市のHP、広報紙等への掲載、イベントでの周知活動に参加できる。

 なお「神栖市」では、「神栖市」の「魅力」を発信できる「商品」の「開発」に、交付する「補助金」「神栖市地域特産品開発事業補助金」を交付するそうです。
 「神栖市地域特産品開発事業補助金」の「詳細」は、下記の通りです。

 「神栖市地域特産品開発事業補助金」詳細

 対象者

 神栖市内に住所を有する団体
 市税の滞納がない
 過去3年間、特産品に係る他の補助金を交付されていない(交付予定がない)

 限度額

 対象経費の2分の1以内(上限20万円)

 申請期間

 1月10日(火)〜31日(火)

 申請先

 神栖市役所商工観光課

 なお「神栖市地域特産品開発事業補助金」の「商品」ですが、新開発したものでも、既存のものを改良したものでも構わないそうです。

 「魅力」ある「神栖市」をPRする「特産品」を認定し、「認定証」を交付する「事業」「神栖市特産品認定事業」。
 この機会に応募してみてはいかがでしょうか?

 備考
 「神栖市特産品開発事業」ですが、平成25年度から始まった「事業」で、以降3年間で下記の「特産品」が認定されています。

 平成25年度神栖市特産品開発事業

 認定番号1 うどっぴ〜

 神栖市特産のピーマンを使ったうどんです。
 赤ピーマン・青ピーマンをうどんに練り込み乾麺にしました。
 ピーマン特有の苦味や青臭さはありませんので、ピーマン嫌いなお子様にもおすすめです。
 かけ、冷やし、どんな調理法でもおいしくいただけます。

 認定番号2 ホッキ貝とアンチョビーのパスタソース

 地元で水揚げされたホッキ貝と市内で製造されているアンチョビーを使ったオイルベースのパスタソースです。
 茹であがったパスタとソースをフライパンで絡めるだけで本格パスタが出来上がります。

 平成26年度神栖市特産品開発事業

 認定番号3 緑の麦わらぼうし(ピーマンソフトサブレ)

 神栖市の特産物であるピーマンを甘露煮とピューレにし、サブレ生地にピーマン甘露煮を練り込み、餡にピューレを加え、しっとり焼き上げています。

 認定番号4 神栖メンチ(ピーマンメンチ)

 主要原料は全て国産を使用し、細かく切った神栖市産のピーマンを練り込みました。
 形は細長い棒状のため、イベント時では歩きながらおやつ感覚で食べることが出来ます。

 平成27年度神栖市特産品開発事業

 認定番号5 ピーマン飴 すい〜ぴ〜

 ピーマンの苦味を無くし、お子さんでもおいしく食べてもらえるよう、栽培農家自身が心を込めて作り上げた一粒です。
 赤と緑の2種類があります。

 認定番号6 神栖ピッツァ

 神栖の人気イタリア料理店のシェフが、脂ののったイワシと新鮮なピーマンの風味豊かなピザを作りました。
 神栖市のご当地食材をこのピザ一枚で味わうことができます。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=3300 |
| 地域情報::神栖 | 11:14 AM |
「銚子セレクト市場」「出店業者大感謝祭」(銚子市)
 本日ご紹介するのは、地元「銚子市」「銚子セレクト市場」で1月29日(日)に開催されます「銚子セレクト市場」「出店業者大感謝祭」です。

 「銚子セレクト市場」「セレクト館」(2014年12月18日のブログ参照)ですが、「旧・十字屋跡地」(旧名称・てうし横丁)に2014年(平成26年)12月19日にオープンした「施設」、「市民厳選」の「上質」な「逸品」、「グルメ」、「お土産」、「農産物」、「水産物」、「お弁当」、「惣菜」を販売・紹介しています。

 ちなみに「十字屋」とは、「銚子市」(2010年9月20日のブログ参照)でも営業していた「大型百貨店」です。
 「十字屋」「銚子店」ですが、1976年(昭和51年)10月に「銚子市」の「表玄関」である「銚子駅前通り」(現在の「シンボルロード」)に、「2代目」「十字屋」「銚子店」として「百貨店」を開店しました。
 この「2代目」「十字屋」「銚子店」「開設」の際には、「銚子商店連盟連合会」が、「売場面積」の「縮小」等、3項目の「意見書」を提出する等、「反対運動」を行ったそうですが、1974年(昭和49年)の「銚子市長選」で、「誘致」を掲げる「嶋田市長」(当時)が「当選」を果たしたこと等が影響して、進出が決まったそうです。
 しかし、実際に「十字屋」が開店してみると、「銚子駅前」の「商店街」の「通行量」の「増大」や、「地元」の「商店主」らの「積極的」な「営業姿勢」への「転換」等の「効果」をもたらし、「銚子」の「商業発展」につながったとされています。

 「十字屋」「銚子店」は、「銚子市内」「唯一」の「百貨店」であり、1991年(平成3年)に「売上高」約107億円がありましたが、「郊外型店」との「競合」や、「不況」の「影響」等で、2004年(平成16年)に「売上高」が約47.5億円に落ち込み、「産業再生機構」の「支援」を受けて、「経営再建」する「一環」として、2005年(平成17年)11月30日に惜しまれながら、閉店しました。

 「十字屋」「銚子店」の「店舗跡地」は、当初、「ジャパンレジャーサービスグループ」の「松屋百貨店」(注・「東京銀座」等で「百貨店」を経営する「松屋」とは「別企業」)による「商業施設」が「地下1階」が「食品売場」で、「地上1階」は「婦人服売場」等、「全館」を使って、2008年(平成20年)11月14日に開店する「予定」でしたが、「テナント」が集まらず「断念」し、2008年(平成20年)11月下旬から、2009年(平成21年)1月頃にかけて解体されました。
 その後「旧・十字屋跡地」ですが、しばらくは「更地」でしたが、「ジャパンレジャーサービスグループ」の「松屋百貨店」が「運営会社」「てうし横丁」を設立し、2011年(平成23年)7月から「木造平屋建て」の「銚子漁港市場」「てうし横丁」(東和建設・建築)を建設し、2011年(平成23年)12月「オープン予定」とされていましたが、「テナント」が集まらず「延期」となっていました。

 「銚子セレクト市場」(2010年10月3日のブログ参照)は、「銚子」が「大好き」な「地元の人たち」が「セレクト」した「逸品」を紹介・販売している「店舗」です。
 「銚子セレクト市場」ですが、「シティオ」(現在は営業していません)で「地元の逸品」の「隔週販売」を行う「銚子セレクト逸品販売」から始まった「事業」として「営業」を開始、その後「シティオ」で「試行錯誤」しながら、色々な「アイデア」と「ノウハウ」をため込み、その後「銚子駅前通り」(シンボルロード)の「旧・パーラーエビス跡」に、2009年(平成21年)11月13日(金)に「銚子セレクト市場」としてオープンしました。
 「銚子セレクト市場」は、「銚子の逸品」や、「グルメ」、「お土産」、「地元農・水産物」を「住民・観光客向け」に販売する「店舗」となっており、「銚子中心市街地活性化研究会」(川津光雄会長)が、「千葉県」の「ふるさと雇用再生特別基金事業」と、「銚子市」の「ふるさと雇用特別基金事業・銚子賞」の「補助」を受けて「計画」、「菓子」・「パン」・「豆腐」・「シュウマイ」・「農水産物」等「銚子市内」20店舗の「商品」を「一堂」に集めて、販売していました。
 なお「銚子セレクト市場」では、「オープン」に伴い、2009年(平成21年)11月13日(金)9時00分から「オープニングセレモニー」を行い、10時00分から開店しました。
 「銚子セレクト市場」ですが、「季節の商品」や、「イベント」、「観光案内」、「レンタサイクル」(現在、取り扱いしていません)等、「あったらいいな」を詰め込んだ「店舗」となっており、「銚子駅前通り」(シンボルロード)にあった「店舗」では、毎日「お昼頃」「銚子市内」の「各名店」から配達される色々な「お弁当」、「お総菜」が届き、「地元常連客」から「好評」を博していました。
 その他「銚子セレクト市場」では「スイーツ」も豊富に取り揃え、「ヤマサ醤油」の「醤油ソフトクリーム」(2011年7月30日のブログ参照)から「和菓子」、「洋菓子」と、色々販売していました。
 また「銚子セレクト市場」には、「銚子商店街マップ」が掲載されており、「まちあるき」をする際に役立っており、「銚子セレクト市場」「店内」には、「休憩スペース」も併設され、「まちあるき」の「休憩所」としても機能していました。

 「新・銚子セレクト市場」ですが、「旧・十字屋跡地」(「旧名称」「てうし横丁」)に、「銚子セレクト市場」が移転し、「銚子セレクト市場」「セレクト館」として「リニューアルオープン」し、「銚子セレクト市場」「セレクト館」「横」に「農産物直売所」も同時オープンし、「新・銚子セレクト市場」は、

 「市民や観光客のニーズに応え、リピーターや銚子ファンを生み出すための楽しい施設」

 を目指し、開業しました。
 「新・銚子セレクト市場」ですが、5棟18区画あり、2014年(平成26年)12月19日(金)オープン時点では、「銚子セレクト市場」の「機能」としての「セレクト館」と、「農産物直売所」、「専門店」1店舗の「テナント」が営業していました。
 「新・銚子セレクト市場」「セレクト館」では、「市民厳選」の「上質」な「逸品」・「グルメ」・「お土産」・「農産物」・「水産物」を販売・紹介しており、「農産物直売所」では、「地元産」「農産物」を取り揃えています。
 また「新・銚子セレクト市場」「セレクト館」では、「銚子セレクト市場」と同様に「銚子市内」の「名店」より、選(ヨ)りすぐった「お弁当」が揃い、「名店」揃いの「お弁当」・「お総菜」は、「地元常連客」の「皆さん」に「人気」を博しており、「昼前」に無くなってしまう時があるほどなのだそうです。

 「新・銚子セレクト市場」ですが、約3千平方mの「敷地」に、「昭和の町」を「イメージ」した「黒壁」の「レトロ」な「雰囲気」の「木造平屋」が5棟並んでいます。
 「新・銚子セレクト市場」ですが、2014年(平成26年)3月、「旧・てうし市場」の「保有会社」から「施設」を賃借して、新しい「新・銚子セレクト市場」にすることを決め、9月に「経済産業省」が「2014年度」から始まった「地域商業自立促進事業」に採択され、「補助金」を「改築費用」等に充てたそうです。
 「新・銚子セレクト市場」の「運営会社」「ヒューマンライブ」「川津光雄」「社長」は、「オープン」に際し、下記の「コメント」を残しています。

 平素は格別のお引き立てならびにご厚情を賜り心よりお礼申し上げます。
 さて、「新」銚子セレクト市場が、関係者の多くの支援により改装工事が完了し12月19日(金)より業務開始の運びとなりました。
 この「新」銚子セレクト市場には様々な人と人が出会い交流を行うヒューマンステーションとしての役割を担い中心市街地の活性化の拠点として、銚子市民の希望を繋ぐ施設として運営して参ります。
 まずは略儀ながらご挨拶申し上げます。

 現在の「銚子セレクト市場」の「出店店舗」は、下記の通りです。

 「セレクト館」

 銚子が大好きな地元の人たちが自らセレクトした、上質な逸品のご紹介、販売をしております。
 厳選した海産物、農産物、銚子のお土産等をご購入頂けます。

 「農産物直売所」

 地元でとれた新鮮なお野菜や果実を多数取り揃えております。
 どれも地元農家が自信を持って育てた野菜ばかり
 農産物直売所ならではの新鮮で美味しい旬の味覚をお楽しみ下さい。

 「花と香りのサロン〜Mokkun〜」

 ブリザーブドフラワーを中心とした「加工フラワー」の販売店です。
 贈り物用にアレンジしたものの販売や、アレンジのレッスンも行っています。
 店内にはアレンジ用の花材、資材、雑貨も小売りされていますので、手作りを楽しみたい方にも最適です。
 季節とライフスタイルに合わせて、花と香りをご提案するお店ですので、お気軽に足をお運び下さい。

 「コミュニティ」

 「無料休憩所」

 時間 9時00分〜18時00分(年中無休)

 「ミニ縁日会場」

 「スローフード工房ギゼーム・ジュテーム銚子店」

 焼きたてピザ店
 毎日、焼きたてピザを3つの価格で提供!
 550円・650円・750円(税込)

 「カフェ ランラン」

 ヤマサの工場とカフェ ランランでしか食べられないしょうゆソフトクリーム販売中!(税込324円)
 しょうゆソフト用のしょうゆを使っているのでしょっぱくなくまろやかな甘みの中にしょうゆのコクがマッチして絶妙な美味しさになっています。
 銚子にきたら是非食べてみてください!
 しょうゆソフトクリームの他にお団子、コーヒーなども販売しております。

 「ヘアカラー専門店 A bit Color アビットカラー」

 8月6日にオープンしたヘアカラー専門店。

 「銚子ジオパーク・千葉科学大学」

 銚子ジオパーク ビジターセンター

 銚子ジオパークジオサイトの案内
 ジオパークに関する情報提供
 ジオパーク関連イベントの実施会場

 千葉科学大学 エクステンションセンター

 銚子のことをしっかりと知り、理解する「銚子学」(全学部必修授業を予定)の「エクステンション授業」への対応(本学生向け)
 「まちあるき実習」のステーション機能(学生の集合、解散、振り返りなど)
 本学教員による「公開講座」の会場としての機能(一般+学生)

 「港のひろば」

 ビアガーデン会場
 (期間限定)6月下旬〜9月下旬

 この度(タビ)「銚子セレクト市場」では、「日頃」の「ご愛顧」に応(コタ)え、「銚子セレクト市場」「出店業者大感謝祭」を開催するそうです。
 「銚子セレクト市場」「出店業者大感謝祭」ですが、「銚子セレクト市場」「セレクト館」、「農産物直売所」の「銚子」の「逸品」、「グルメ」、「お土産」、「農水産物」の「出店業者」が約30店舗が出店する「大感謝祭」なのだそうです。
 また、「銚子セレクト市場」「出店業者大感謝祭」では、「模擬店」も多数出店するそうです。

 「銚子」の「海産物」、「農産物」、「お土産」が揃う「セレクトショップ」「銚子セレクト市場」「セレクト館」で開催される「感謝イベント」「銚子セレクト市場」「出店業者大感謝祭」。
 この機会に「銚子市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「銚子セレクト市場」「出店業者大感謝祭」詳細

 開催日時 1月29日(日) 9時〜15時

 開催会場 銚子セレクト市場セレクト館 銚子市双葉町3-6

 問合わせ 銚子セレクト市場セレクト館 0479-26-3123

 備考
 「銚子セレクト市場」「出店業者大感謝祭」が開催される「銚子セレクト市場」の「駐車場」ですが、「イベント」開催のため、利用できないそうで、「銚子市役所」「駐車場」をご利用下さいとのことです。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=3297 |
| 地域情報::銚子 | 07:41 PM |
「大寒禊(ダイカンミソギ)」(鹿嶋市)
 本日ご案内するのは、近隣市「鹿嶋市」「鹿島神宮」「御手洗池」で1月22日(日)に開催されます「大寒禊(ダイカンミソギ)」です。

 「常陸国一宮」「鹿島神宮」(2010年11月8日・9日・10日のブログ参照)は、「茨城県」「鹿嶋市」に鎮座する「神社」で、「全国」に約600社ある「鹿島神社」の「総本社」です。
 「鹿島神宮」は、「千葉県」「香取市」に鎮座する「香取神宮」(2010年11月5日・6日のブログ参照)、「茨城県」「神栖市」に鎮座する「息栖神社(イキスジンジャ)」(2010年11月7日のブログ参照)と合わせて「東国三社」(2010年10月23日のブログ参照)と呼ばれ、江戸時代から「東国三社めぐり」として「人気」があったそうで、「初詣」には、「全国」から60万人以上が参拝し、「初詣」の「参拝者数」では「茨城県」2位を誇ります。

 「鹿島神宮」は、「茨城県」「南東部」、「北浦」(2011年12月6日のブログ参照)と「鹿島灘(カシマナダ)」(2012年6月16日のブログ参照)に挟まれた「鹿島台地」上に鎮座し、「鹿島神宮」は、「伊勢神宮」・「香取神宮」とともに、明治維新前に「神宮」の「名称」を使用していた「三社」のうちの「一社」です。
 「鹿島神宮」の「御祭神」「武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)」(建御雷神)で、「鹿島神」という「一般名称」でも知られており、「古事記」では、「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」が「軻遇突智(カグツチ)」の「首」を切り落とした際、「剣」についた「血」が「岩」に飛び散って生まれた「三神」のうちの「一柱」とされています。
 「武甕槌大神」は、「香取神宮」の「御祭神」「経津主大神(フツヌシノオオカミ)」とともに、「天孫降臨」に先立ち「国譲り」の「交渉」をしたといわれている「神様」で、「武甕槌大神」は、「武の神」として古くから「皇室」や「藤原氏」の「崇敬」を受け、さらに鎌倉時代以降は「武家政権」の「信仰」も得て、「社殿」・「楼門」・「宝物類」の「奉納」や「所領寄進」が繰り返されてきました。

 「鹿島神宮」「楼門」は、寛永11年(1634年)、「水戸徳川初代藩主」「徳川頼房」公が奉納した「楼門」で「日本三大楼門」のひとつとして知られています。
 「鹿嶋社楼門再興次第記」によれば、「三代将軍」「徳川家光」公の「病気平癒」を「徳川頼房」公が「大宮司」(神宮の最高責任者)「則広」氏に依頼し、「徳川家光」公が快方に向かった為に奉納されたとあり、「浅草」の「水戸藩下屋敷」で130余人の「大工」が切組み、「船筏」で運んで組み立てたそうです。
 「鹿島神宮」「楼門」ですが、昭和15年(1940年)の「大修理」の際、「丹塗り」とし、昭和40年代に「檜皮葺」の「屋根」を「銅板葺」としたそうです。
 また「鹿島神宮」「楼門」は、「鹿島神宮」「境内」「鹿島神宮の森」の「縁」の中にひときわ「朱色」が鮮やかな「楼門」で、「鹿島神宮」「楼門」の「扁額」は「東郷平八郎」「元帥」の「直筆」によるものだそうです。

 「鹿島神宮」「本殿」は、「三間社流造」、「向拝一間」で「檜皮葺」、「漆塗り」で「柱頭」・「組物」等に「極彩色」が施されています。
 風格ある「鹿島神宮」「本殿」は、「江戸幕府」「2代将軍」「徳川秀忠」公より奉納されたもので、「国」の「重要文化財」に指定されています。
 「鹿島神宮」「本殿」ですが、元和5年(1619年)の「造営」までは、現在の「奥宮」の「社殿」を使用されていました。
 「鹿島神宮」「本殿」の背後には「杉の巨木」の「御神木」が立っており、「御神木」ですが、「樹高」43m・「根回り」12mで、「樹齢」約1000年といわれ、さらに後方、「玉垣」を介した位置には「鏡石(カガミイシ)」と呼ばれる「直径」80cmほどの「石」があり、「神宮創祀の地」とも伝えられています。

 「鹿島神宮」「奥宮」ですが、1605年(慶長10年)に「鹿島神宮」「本殿」として奉納された「建物」で、「鹿島神宮」では場所を移して「奥宮」としたそうです。
 「鹿島神宮」「奥宮」周辺ですが、神秘的な「雰囲気」を醸し出しており、「鹿島神宮」「奥宮」には、「鹿島神宮」「御祭神」「武甕槌大神」の「荒魂」が祀られています。
 「鹿島神宮」「奥宮」「社殿」は、元々「江戸幕府」を開いた「徳川家康」公が、上述の「鹿島神宮」「本殿」として奉納したものを、元和5年に「徳川秀忠」公の「社殿」奉納に際し、「現在地」へ引移して「奥宮」「社殿」になったそうで、「鹿島神宮」「本殿」と比べると、「重厚さ」が感じられる「建物」となっています。

 「鹿島神宮」の「境内地」ですが、「東京ドーム」15個分(約70ha(ヘクタール))に及ぶ「大きさ」で、「鹿島神宮」の鎮座する「地」は「三笠山(ミカサヤマ)」と称され、この「境内」は「日本」の「歴史上」、重要な「遺跡」であるとして、「国の史跡」に指定されています。
 (摂社坂戸神社境内、摂社沼尾神社境内、鹿島郡家跡も包括)
 「鹿島神宮」「境内」(70ha)のうち約40haは、鬱蒼(ウッソウ)とした「樹叢」で、「鹿島神宮樹叢」の「大きさ」は、「東京ドーム」約15個分の「広さ」を持ち、「鹿島神宮樹叢」として「茨城県指定天然記念物」に指定されています。
 「鹿島神宮樹叢」には約800種の「植物」が生育し、「鹿島神宮」の長い「歴史」を象徴するように「巨木」が多く、「茨城県内」では随一の「常緑照葉樹林」になっており、木漏れ日の中を散策するなど、「森林浴」にも最適な「スポット」となっています。
 その他「鹿島神宮」「境内」には、透き通る「湧水」で「禊(ミソギ)」も行われる「御手洗池」や、「鹿園」など、多くの「見どころ」があります。

 「鹿島神宮」の「創建」ですが、2674年前の「初代」・「神武天皇」「御即位」の「年」にあたり、「神武天皇」は、「東征」の「途上」における「大神」の「布津御霊劔(フツノミタマノツルギ)」による「守護」に感謝され、「鹿島の地」に「大神」を勅祭されたそうです。
 これに先立つ神代の昔、「武甕槌大神」は「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」の「名」を受け、「葦原中国」といわれた「我が国」の「国譲り」から「国造り」まで、その「建国」に大いにその「御神威」を発揮されました。
 「鹿島神宮」は、その「御威徳」から「武の神」として崇められ、日出づる「東方」に坐します「鹿島立ち」の「御神徳」によって、「事始め」、「起業」、「開運」、「旅行交通安全の神」、「常陸帯」(2012年1月13日・2011年10月16日のブログ参照)の「故事」によって「安産」、「縁結び」の「神」を仰がれています。

 「鹿島神宮」「文化財」ですが、「布津御霊劔(フツノミタマノツルギ)」と称される「長大」な「直刀」が「国宝」に指定されているほか、「鹿島神宮」「境内」は「国」の「史跡」に指定され、「本殿」・「本殿」・「楼門」など「社殿」7棟が、「国」の「重要文化財」に指定されており、そのほか「鹿島神宮」は、「鹿」を「神使」とすることでも知られています。
 「鹿島神宮」は、古くから「朝廷」から「蝦夷(エゾ)」に対する「平定神」として、また「藤原氏」から「氏神」として崇敬され、その「神威」は中世の「武家の世」に移って以後も続き、「歴代」の「武家政権」からは「武神」として崇敬され、現代も「鹿島神宮」は「武道」で篤く信仰されています。

 「鹿島神宮」では80以上もの「年中行事」の中では「祭頭祭」(2016年3月8日・2015年3月8日・2014年3月5日・2013年3月6日・2012年3月2日・2011年3月6日のブログ参照)、「神幸祭」(2012年8月26日のブログ参照)、また12年に一度「午年」ごとに行われる「式年大祭御船祭」(2014年8月31日のブログ参照)が特に「有名」で、2014年9月1日(月)には、「3日間」に渡って「御船祭」が催行されています。
 (「式年大祭御船祭」「前日」8月31日(日)午後には、「御座船清祓式」(2014年8月29日のブログ参照)が執り行われました。)

 「御手洗池」ですが、「鹿島神宮」「境内」の「東方」に位置する「神池」で、「潔斎(禊)の地」、古くは「西」の「一の鳥居」がある「大船津」から「舟」でこの地まで進み、潔斎をしてから「神宮」に参拝したと考えられており、「御手洗」の「池名」もそれに由来するとされています。
 「御手洗池」には、「南崖」からの「湧水」が流れ込み、「水深」は1m程で、非常に澄んでおり、「御手洗池」に「大人」が入っても、その「水深」は「乳」を越えないといわれ、「御手洗池」は「鹿島七不思議」のひとつに数えられています。

 「大寒禊」ですが、1月22日(日)に執り行われる「行事」です。
 「大寒禊」は、古来より「鹿島神宮」「境内」にある「神職潔斎」の「池」である「御手洗池」で行われる「恒例」の「催し」で、「新年」の「決意」め新たに「鹿島立ち」を希望される方が多く集まります。
 「大寒禊」では、「冷水」に入り、「大祓詞(オオハラヘノコトバ)」を唱えて「心」も「体」も清め、「心身」の「調和」を図るために行われ、毎年「市内」はもちろん「県内外」からの「参加者」約150名が、「精神浄化」と、「一年間」の「無病息災」を祈るそうです。

 「大寒禊」「詳細」は、下記の通りです。

 日程   平成29年1月22日(日)

 場所   鹿島神宮御手洗池(集合は正面参道大鳥居脇「新仲家」)
      駐車場は臨時駐車場(茨城県鹿嶋市宮中1-13)

 参加費  3000円(昼食代含む)

 持参品  男性 白褌・白鉢巻・白タオル・草履(サンダル可)等 ※当日販売あり
      女性 白衣・白襦袢・白鉢巻・腰紐・白タオル・草履(サンダル可)等

 ※先着10名に貸出、別途電話問合わせ

 式次第

 8時00分〜8時50分  受付

 9時00分       正式参拝

 10時00分〜11時00分 禊 (於 御手洗池)

 11時30分      宮司講話 (於 新仲家)
           昼食・散会

 注意点

 ・受付は先着順となり、定員150人に達し次第締め切りとなりますのでご了承下さい。

 ・当神宮の判断による中止の場合、参加費は全額払い戻しいたします。

 ・参加中の事故・怪我・トラブルについては、応急手当または医療施設への搬送にて対応します。

 ・神道行法としての「禊」ですので、迷惑行為や不真面目な態度を認めた場合は参加をご遠慮いただくことがあります。

 「日本屈指」の「名社」「鹿島神宮」「御手洗池」で開催される「禊」の「催し」「大寒禊」。
 この機会に「鹿嶋市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「大寒禊」詳細

 開催日時 1月22日(日) 10時〜(禊開始)

 開催会場 鹿島神宮御手洗池 茨城県鹿嶋市宮中2306-1

 問合わせ 鹿島神宮 0299-82-1209

 備考
 「大寒禊」は、「雨天決行」となっています。
 「大寒禊」ですが、「定員」150人に達しているため、「申込」は締め切っており、本年(2017年)の「参加」、「当日参加」はできませんので、ご注意下さい。

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| 地域情報::鹿島 | 10:00 PM |

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