ご予約・お問合せ 0479-23-5111(代) 受付時間)9:30〜20:00 チェックイン)15:30 チェックアウト)10:00
犬吠埼観光ホテルホームページ
波打ちぎわの天然温泉露天風呂
トップページ
■CALENDAR■
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31   
<<前月 2024年10月 次月>>
■NEW ENTRIES■
■CATEGORIES■
■ARCHIVES■
■POWERED BY■
BLOGNPLUS(ぶろぐん+)
■OTHER■


携帯からもご覧いただけます

「小高のはだか参り」(匝瑳市)
 本日ご案内するのは、近隣市「匝瑳市」「妙長寺」から「八坂神社」で1月11日(日)に開催されます「小高のはだか参り」です。

 「匝瑳市」は、「千葉県」「北東部」に位置する「市」で、2006年(平成18年)1月23日に「八日市場市」と「匝瑳郡」「野栄町」が合併した「市」として誕生し、「発足時」の「人口」ですが、約4万2000人だったそうです。
 ちなみに現在の「匝瑳市」の「人口」ですが、38756人となっており、「男性」19065人、「女性」19691人、「世帯数」14450世帯となっています。
 (平成26年12月31日現在)

 「匝瑳市」の「市名」の「由来」ですが、「旧・八日市場市」と「旧・野栄町」が「匝瑳郡」に属していたことだそうで、「匝瑳市」は、「竹内正浩」さんの「日本の珍地名」(文春新書)で「難読・誤読地名番付」の「東の横綱」として紹介されています。
 「匝瑳市」の「市役所」「本庁」ですが、「旧・八日市場市役所」を使用しており、「匝瑳市」の「市区域」のうち、「旧・八日市場市」は、「植木」(苗木)の「産地」として「有名」であり、「匝瑳市」は、「植木の栽培面積」が「日本一」(2011年9月30日のブログ参照)となっています。

 「小高のはだか参り」ですが、毎年「成人の日」の「前日」、午後10時(22時)から午後11時(23時)頃に行われる「恒例」の「真冬」の「水ごり行事」です。
 「小高のはだか参り」は、「妙長寺」の「門前」に集まった「下帯」1本の「若者たち」が「辻」で「水垢離(みずごり)」をし、「身」を清めた後、「駆け足」で約500m離れた「八坂神社」まで行き、「無病息災」・「家内安全」・「五穀豊穣」を祈願するそうです。
 「小高のはだか参り」では、「帰り」は「手」を取り合い、

 「ヒーヒーガンガン」

 と面白い「かけ声」をあげながら戻ってきて、最後は「お供え餅」も奪い合って終わりとなるそうです。

 「小高のはだか参り」の「参加者」ですが、40人前後となっており、「規模」は小さな「お祭り」ですが、「奇祭」として「遠方」からの「見物客」も「年々」増えているそうです。
 「小高のはだか参り」の「見どころ」のひとつ「水垢離」では、汲み置かれた「水」を「手桶」で勢いよく浴びる「場合」です。
 「水垢離」の「場面」ですが、凍(い)てつく「寒さ」の中での「水垢離」の際、「体」から「湯気」が湧き出て、その「勇壮さ」に見ている者も興奮してしまうそうです。

 「小高のはだか参り」の「始まり」ですが、今から300年前、あるいは500年前から行われてきたといわれていますが、詳しい「資料」が残っていないため、どのようにして行われてきたのかは定かではありませんが、「小高のはだか参り」でお参りされる「八坂神社」は、「男性器」を摸った「棒」が祀られている「子宝の神様」でもあり、「小高のはだか参り」が「成人の日」の「前夜」に行われていることからも、「子孫繁栄」を願って始められたのではないかといわれています。
 (「小高のはだか参り」は、江戸時代後期に「日蓮宗」の「僧侶」の間で行われていた「水垢離」の「行」が「起源」という「説」もあり、以後、「八坂神社」の「子授け信仰」と結びつき、今日の「姿」の「お祭り」として定着したともいわれています。)

 「小高のはだか参り」が行われる「匝瑳市」では、「小高のはだか参り」「会場」近くに「駐車場」はないため、

 「近所のご迷惑にならないようご協力ください。」

 と呼びかけています。

 「真冬」の「飯高地区」「小高」の「寺社」「妙長寺」から「八坂神社」で行われる「勇壮」な「お祭り」「小高のはだか参り」。
 この機会に「匝瑳市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「小高のはだか参り」詳細

 開催日時 1月11日(日) 22時〜23時頃

 開催会場 妙長寺 匝瑳市小高194

 問合わせ 匝瑳市産業振興課 0479-73-0089

 備考
 「小高のはだか参り」では、「参加希望」の「問い合わせ」が「時々」あるそうですが、「真冬」の「夜」の「水垢離」はとても寒く、実際の「参加者」は、「小高のはだか参り」を終えると「地元・近所」の「家」の「お風呂」を借りているため、「一般人」の「参加」は事実上「無理」があるようです。
 また「小高のはだか参り」の「会場」「妙長寺」、「八坂神社」には「トイレ」がありませんのでご注意下さい。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=2370 |
| 地域情報::匝瑳 | 04:01 PM |
「青木半治杯」「第66回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」(銚子市)
 本日ご紹介するのは、地元「銚子市」で1月11日(日)に開催され、「8区間」22.9kmを駆け抜ける「青木半治杯」「第66回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」です。

 「銚子市」(2010年9月20日のブログ参照)は、1933年(昭和8年)2月11日、「銚子町」、「本銚子町」、「西銚子町」、「豊浦村」の「3町1村」が合併し、「全国」で116番目、「千葉県」では「県庁所在地」「千葉市」に次いで「2番目」の「市」として誕生しました。
 その後、「銚子市」は、1937年(昭和12年)に「高神村」、「海上村」、1954年(昭和29年)に「船木村」、「椎柴村」、1955年(昭和30年)に「豊里村」、1956年(昭和31年)に「豊岡村」と順次合併し、発展してきました。
 現在の「銚子市」の「人口」ですが、67001人となっており、「世帯数」は27922世帯となっています。
 (2014年(平成26年)12月1日現在)

 「銚子市」は、「関東地方」の「東部」、「千葉県」の「北東部」にある「市」で、「全国屈指」の「漁港のまち」で、「市」の「北部」には「坂東太郎」「利根川」(2011年10月9日のブログ参照)が流れ、「銚子市」で「太平洋」に注いでいます。
 「銚子市」は、「東京」から100km圏内に位置し、「関東平野」の「最東端」に位置し、上記のように「北」は「利根川」、「東」と「南」は「太平洋」に面しています。
 「銚子市」は、江戸時代に「利根川水運」が開発され、「醤油醸造業」と「漁業」で発展、「農業」は「露地野菜」を「中心」に発展した「観光都市」です。
 「銚子市」は、「利根川」沿いの「低地」と「北総台地」(下総台地)(2012年7月10日のブログ参照)からなり、「表層」は「関東ローム層」に覆われています。
 「銚子市」には、「北総台地」(下総台地)「最高峰」の「愛宕山」(「標高」73.6m)があり、「水田」は「台地山間」の「谷津田」と「利根川」沿いに広がっており、「畑地帯」は「台地」の「平坦部」に位置し、比較的「農業」(2011年6月15日・2月19日のブログ参照)に適しています。

 「銚子市」の「位置」・「地勢」ですが、「首都」「東京」から100km、「東経140度50分」、「北緯35度44分」、「関東平野」の「最東端」に位置しています。
 「銚子市」は、「北」は「利根川」を隔て、「茨城県」の「神栖市」に対し、「東」から「南」は「太平洋」に臨み、「利根川」沿い「北西方面」は「香取郡」「東庄町」(2012年4月15日・4月5日のブログ参照)と、「太平洋側」「南西方面」は「旭市」と接しています。
 「銚子市」の「面積」ですが、83.91平方kmで、「沖」を流れる「暖流」・「寒流」の「影響」を受け、「夏」は涼しく、「冬」は暖かい「気候」となっています。

 「青木半治」氏(2011年1月4日のブログ参照)は、「日本」の「スポーツ指導者」、「日本陸上競技連盟」「第5代会長」で、「日本体育協会」「第11代会長」また、「国際陸上競技連盟」と「アジア陸上競技連盟」でも「役員」を歴任、「副会長」を務め、後に「終身名誉副会長」を務められた「人物」です。

 「青木半治」氏は、「千葉県」「長生郡」「太東村」(現「いすみ市」)出身で、「旧制銚子商業学校」(現在の「千葉県立銚子商業高等学校」)卒業、1938年(昭和13年)に「早稲田大学」「商学部」を卒業されました。
 その後「青木半治」氏は、「日立製作所」に入社し、同年「日本陸上競技選手権大会」の「砲丸投げ競技」で「優勝」、その後は、「三徳工業」、「昭和電工」を経て、1945年(昭和20年)に独立し、1946年(昭和21年)「青木金属工業株式会社」を設立、「会社経営」の傍(かたわ)ら、「母校」の「早稲田大学」「陸上部監督」を務められました。
 また「青木半治」氏は、「早稲田大学」「陸上部監督」を務めていた際の「部員」に、元「衆議院」「議長」を務められた「河野洋平」氏が入部されていたそうです。

 その後「青木半治」氏は、1959年(昭和34年)に「日本陸上競技連盟」の「常務理事」、1961年(昭和36年)に「理事長」に就任、同年に「日本体育協会」「評議員」及び「理事」に就任されました。
 その後「青木半治」氏は、上記のように「日本陸上競技連盟」、「日本体育協会」、「国際陸上競技連盟」、「アジア陸上競技連盟」でも活躍され、「陸上競技」の「発展」に寄与されました。
 「青木半治」氏は、数多くの「功績」を残し、2010年(平成22年)5月30日、「急性心不全」のため「東京都内」の「病院」で、94歳で死去されました。

 「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」は、「陸上競技界」を率先されてきた「青木半治」氏の「名前」を冠し、今年(2015年)で「66回目」を数える「歴史」ある「銚子市」の「新春」を彩る「駅伝大会」で、「銚子市内」や「観光名所」を駆け抜ける「一大スポーツイベント」となっています。
 「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」の「大会」の「主旨」ですが、「体育」・「スポーツ」の「普及」及び「中学生」「相互」の「親睦」を図り、「スポーツ」を通して「心身」の「健全」な「育成」と「社会体育」の「振興」を推進するために開催されています。

 「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」の「歴史」ですが、「終戦後」の「混乱期」であった1949年(昭和24年)、「青木半治」氏を「筆頭」に、「銚子市内」に集まった「陸上競技愛好家」の「皆さん」により「協議会」が開かれ、「協議」では、

 「戦後の混乱した世相から、スポーツを通じて何事にも全力で当たる気構えをつくろう」

 との「意見」で一致したそうです。
 そして「翌」昭和25年(1950年)、「千葉県立銚子商業高校」「陸上部」が「運営」の「中心」を担い、「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」の「第1回大会」が開催されたそうです。
 「第1回大会」の「参加範囲」ですが、「銚子市」、「海上郡」、「匝瑳郡」、「香取郡」の「16校」が参加し、「八日市場中学校」が2時間26分19秒の「記録」で「優勝」されたそうです。
 以降「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」は、「回」を重ねる毎(ごと)に「参加校」も増加し、現在では「80校」を超える「関東近県」では、「最大規模」の「駅伝大会」となっています。
 「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」は、「第42回大会」より、「当時」「日本体育協会」「会長」であった「青木半治」氏より、「本大会」に「カップ」が寄贈され、「青木半治杯」の「名」を冠する「駅伝大会」となりました。
 ちなみに「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」ですが、平成7年(1995年)に「日本陸上競技連盟創立70周年記念式典」におかれまして、「本大会」が高く「評価」されたそうです。
 なお「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」の「コース」ですが、例年「問題」となっていた「国道356号線」及び「銚子大橋」(2010年12月17日のブログ参照)付近の「渋滞」を解消するため、「第58回大会」から「数回」に及ぶ「コース」の「変更」が行われ、「現在」の「コース」となっています。

 「銚子市」では、「新春恒例」の「青木半治杯」「第66回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」が、1月11日(日)に開催されます。
 「第66回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」には、「県内外」から82校が参加し、「全8区間」22.9kmを「1本」の「タスキ」でつなぐ激しい「レース展開」が期待されます。
 「青木半治杯」「第66回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」の「コース」ですが、上記のように「8区間」22.9kmの「起伏」に富んだ「コース」となっています。
 「青木半治杯」「第66回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」では、「銚子市街地」から「外川」、「犬吠埼」をめぐって「早春」の「銚子半島」を一周する「総延長」22.9kmの「コース」を、「関東各地」から集まった「中学生」の「皆さん」が8つの「区間」に分けられた「コース」を駆け抜けます。
 また「青木半治杯」「第66回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」では、「スタート地点」の「シンボルロード」「銚子駅前通り」から「5区」の「地球が丸く見える丘展望館」(2010年8月30日のブログ参照)までの「高低差」が60m以上に及び、その「過酷」な「コース」を、「選手たち」は「タスキ」を繋ぎ、約1時間強で「コース」を走り抜くそうです。
 「青木半治杯」「第66回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」の詳しい「コース」ですが、下記の通りとなっています。

 1区 (4.9km) シンボルロード・銚子駅前通り 河岸公園(2013年8月16日のブログ参照)前〜名洗

 2区 (2.8km) 名洗〜銚子市漁業協同組合外川支所

 3区 (3.1km) 銚子市漁業協同組合外川支所〜千葉科学大学本部キャンパス消防隊進入口

 4区 (2.0km) 千葉科学大学本部キャンパス消防隊進入口〜地球が丸く見える丘展望館

 5区 (2.3km) 地球が丸く見える丘展望館〜犬吠埼灯台(2011年1月1日のブログ参照)

 6区 (2.8km) 犬吠埼灯台〜黒生(くろはえ)

 7区 (2.0km) 黒生〜川口神社(2010年12月22日のブログ参照)

 8区 (3.0km) 川口神社〜市役所

 ゴール   銚子市役所前

 「新春」の「銚子半島」を疾走する「伝統」ある「駅伝大会」「青木半治杯」「第66回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」。
 この機会に「銚子市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「第66回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」詳細

 開催日時 1月11日(日) 11時半〜 (受付・8時〜)

 開催会場 銚子市内各所 (コースは上記参照)

 問合わせ 銚子市市役所スポーツ振興課 0479-24-9559

 備考
 「第66回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」に際し、「コース」「道路」上への「駐車」は遠慮いただくとともに、「レース」「前後」には「交通規制」を行いますので、ご注意下さい。
 昨年(2014年)に開催されました「第65回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」(2014年1月10日のブログ参照)の「結果」ですが、下記の通りとなっています。
 (上位20位まで記載)

 1 柏市立柏第二中学校

 2 柏市立西原中学校

 3 流山市立北部中学校

 4 鎌ヶ谷市立第四中学校

 5 松戸市立第四中学校

 6 流山市立東部中学校

 7 柏市立田中中学校

 8 我孫子市立白山中学校

 9 銚子市立第五中学校

 10 流山市立南部中学校

 11 野田南部中学校

 12 鎌ヶ谷第二中学校

 13 茅ヶ崎松林中学校

 14 柏酒井根中学校

 15 松戸常盤平中学校

 16 鎌ヶ谷第五中学校

 17 東庄中学校

 18 柏光ヶ丘中学校

 19 柏松葉中学校

 20 我孫子湖北中学校

 なお、「第65回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」で「優勝」した「柏市立柏第二中学校」ですが、7年ぶり「2度目」の「優勝」なのだそうです。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=2366 |
| 地域情報::銚子 | 01:03 PM |
「新春底釣り大会」(旭市)
 本日ご紹介するのは、となりまち「旭市」「長熊釣堀センター」で1月10日(土)に開催されます「新春底釣り大会」です。

 「旭市」は、「千葉県」の「北東部」に位置し、「県庁所在地」「千葉市」から50km圏、また「東京都心」から80km圏に位置している「市」で、「人口」は約7万人の「自治体」です。
 ちなみに現在の「旭市」の「人口」ですが、68020人(「男性」33398人、「女性」34622人、「世帯数」25201世帯)(2015年1月1日現在)となっています。
 「旭市」の「南部」は美しい「弓状」の「九十九里浜」(2012年5月11日のブログ参照)に面し、「旭市」の「北部」には「干潟八万石」といわれる「房総半島」「屈指」の「穀倉地帯」と、なだらかな「丘陵地帯」である「北総台地」(下総台地)(2012年7月10日のブログ参照)が広がっています。
 「旭市」ですが、「旭市」、「香取郡」「干潟町」、「海上郡」「海上町」、「海上郡」「飯岡町」が、2005年(平成17年)7月1日に「対等合併」し、新「旭市」として「スタート」しています。
 「旭市」の「中央部」を「東西」に、「JR総武本線」と「国道126号線」が通り、「周辺」は「市街地」として発展しています。

 「旭市」は、「多彩」な「レジャー」が楽しめる「まち」として知られており、「旭市」では、「海水浴」、「サーフィン」、「パークゴルフ」、「キャンプ」、「釣り」などが楽しめます。
 「旭市」の「主」な「レジャースポット」ですが、下記の通りとなっています。

 「海水浴」「サーフィン」「スポット」

 矢指ヶ浦海水浴場(やさしがうらかいすいよくじょう)(2014年7月14日・2013年7月12日・2012年7月17日のブログ参照)

 飯岡海水浴場(2014年7月14日・2013年7月12日・2012年7月17日のブログ参照)

 「パークゴルフ」

 あさひパークゴルフ
 旭市中谷里8340番地53
 0479-62-8989

 「キャンプ」

 海上キャンプ場
 旭市岩井1000
 0479-55-5250

 「釣り」「スポット」

 長熊釣堀センター(2012年5月4日のブログ参照)
 旭市萬力3566-1
 0479-68-4602

 袋の溜池(袋東公園)
 旭市鎌数4013
 0479-62-7537(旭市観光協会)

 「海釣り」「スポット」

 飯岡漁港(2014年12月3日・2012年6月6日のブログ参照)の釣り船

 飯岡地先海岸部全域(投げ釣り)

 「旭市」の「平均気温」ですが、15℃と「温暖」な「気候」で、「旭市」では、「気候風土」を活かし、「産業」では、「施設園芸」、「畜産」、「稲作」、「露地野菜」など盛んに営まれている「農業」をはじめ、「水産業」、「商業」、「工業」など、「バランス」良く「成長」しています。
 現在、「旭市」は、「東総地域」の「中核都市」として、「今後」の「発展」が期待されており、「新・旭市」では「将来都市像」として

 「ひとが輝き みどりがつくる 健康都市「旭」」

 とし、その「イメージ」から「旭市」の「市章」が「デザイン」されており、「健康」で「元気はつらつ」と躍動する「旭市民」と、「未来」へと飛躍する「活力」ある「旭市」の「姿」を表しているそうです。

 「長熊釣堀センター」ですが、「旭市」にある「長熊スポーツ公園」の「東側」に位置する「公営」の「釣り堀」です。
 「長熊釣堀センター」には、「豊富」な「湧水」があり、「水質」の良い「長熊ため池」を利用していることから、300席ある「釣り座」では、1年中「ヘラ鮒釣り」が楽しむことができ、特に毎年「春」と「秋」に開催されている「釣り大会」には、「大勢」の「太公望(たいこうぼう)」が集まり、「長熊釣堀センター」は、賑わいをみせるそうです。

 「長熊釣堀センター」のある「長熊スポーツ公園」ですが、「野山」に囲まれた「公園」となっており、「公園内」には、「野球場」と「ゲートボール場」が整備されており、「プレイ」することができます。
 また「長熊スポーツ公園」「周辺」には、「紫陽花(あじさい)」や「桜」などの「植栽」が施され、「花の季節」には「彩り」を与え、「長熊スポーツ公園」には、「近隣」より、多くの「観賞客」が訪れます。

 「長熊釣堀センター」は、江戸時代に「椿(つばき)の海」(2011年4月17日のブログ参照)と呼ばれた「潟湖」を干拓した際に造られた、14の「溜池」のひとつを利用した「ヘラブナ釣堀」で、平成21年(2009年)にリニューアルオープンしています。
 「長熊釣堀センター」の「長熊ため池」「湖上」の「浮桟橋」からは、1年を通じ、「釣り」が楽しめ、「長熊釣堀センター」は、「ヘラ鮒釣り」の「メッカ」として知られています。
 「長熊釣堀センター」では、「早春」3月頃から「絶好」の「釣りシーズン」を迎え、朝夕「涼風」を感じる9月頃からは、「待望」の「秋ヘラ」の「シーズン」を迎えるそうです。
 「長熊釣堀センター」は、「釣り好き」な「人達」に、「評判」の「釣り場」となっており、「竿」は、7尺以上だそうです。
 また「長熊釣堀センター」の「水深」ですが、3m〜5.6mと「変化」に富んでおり、「ビギナー」から「ベテラン」まで、幅広い「ニーズ」に応えている「釣り堀」となっています。

 この度(たび)「長熊釣堀センター」では、「新春底釣り大会」が、1月10日(土)7時30分から14時00分まで行われます。
 「新春底釣り大会」の「定員」ですが、40人となっており、「参加費用」ですが、2000円(昼食代含む)となっています。
 「新春底釣り大会」「当日」は、「ベテラン」から「ビギナー」まで、「多く」の「釣り客」の「皆さん」で賑わうそうです。

 「旭」の「釣りのメッカ」「長熊釣堀センター」で開催される「初釣り」が楽しめる「釣り大会」「新春底釣り大会」。
 この機会に「旭市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「新春底釣り大会」詳細

 開催日時 1月10日(土) 7時半〜14時

 開催会場 長熊釣堀センター 旭市萬力3566-1

 定員   40人

 費用   2000円(昼食代含む)

 問合わせ 長熊釣堀センター 0479-68-4602

 備考
 「長熊釣堀センター」のある「長熊スポーツ公園」「周辺」には、「大原幽学記念館」(2011年2月6日のブログ参照)があります。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=2392 |
| 地域情報::旭 | 10:03 AM |
「さよなら列車」「ありがとうデハ1002号運行」(銚子市)
 本日ご紹介するのは、地元「銚子市」「銚子電鉄」の「路線」で1月10日(土)に運行されます「さよなら列車」「ありがとうデハ1002号運行」です。

 「銚子電気鉄道株式会社」(2012年2月11日のブログ参照)は、「銚子市」に「鉄道路線」を有する「鉄道会社」で、「銚子電鉄」あるいは「銚電」と「略称」されています。
 「銚子電鉄」は、「全長」6.4kmの「銚子駅」(2011年5月7日のブログ参照)から「外川駅(とかわえき)」(2011年7月7日のブログ参照)までの「10駅」を「約20分」で結ぶ「地元客」、「観光客」の「皆さん」に「人気」のある「ローカル鉄道」です。
 「銚子電鉄」の「距離」ですが、「芝山鉄道」(「千葉県」・2.2km)、「紀州鉄道」(「和歌山県」・2.7km)、「岡山電気軌道」(「岡山県」・4.7km)、「水間鉄道」(「大阪府」・5.5km)、「流鉄」(「千葉県」・5.7km)に次いで、「全国」で「6番目」に短い「鉄道」なのだそうです。

 「銚子電鉄」は、1913年(大正2年)に現在の「銚子電気鉄道」にあたる「銚子」から「犬吠」間の「鉄道路線」を開業したものの、「利用不振」から1917年(大正6年)に「路線」を廃止して解散した「銚子遊覧鉄道」の「関係者」が、再び「路線」を復活させるために「銚子電鉄」を設立したそうです。
 「銚子電鉄」は、1922年(大正12年)7月5日に「銚子」から「外川」間「開業」、1948年(昭和23年)8月20日に「銚子電気鉄道」に「社名変更」しており、「銚子電鉄」は、2012年(平成24年)に「開業」90周年を迎えています。

 当ブログでは、「銚子電鉄」「各駅見処紹介」と称し、「銚子駅」から、「仲ノ町駅(なかのちょうえき)」(2011年5月11日のブログ参照)、「観音駅」(2011年5月14日のブログ参照)、「本銚子駅(もとちょうしえき)」(2011年5月16日のブログ参照)、「笠上黒生駅(かさがみくろはええき)」(2011年5月20日のブログ参照)、「西海鹿島駅(にしあしかじまえき)」(2011年5月26日のブログ参照)、「海鹿島駅(あしかじまえき)」(2011年5月28日のブログ参照)、「君ヶ浜駅(きみがはまえき)」(2011年5月31日のブログ参照)、「犬吠駅(いぬぼうえき)」(2011年6月21日のブログ参照)、「外川駅」の「順」に、「銚子電気鉄道株式会社」の「各10駅」を紹介し、「各駅」の「特徴」、「歴史」
、「周辺見処紹介」をアップしています。

 「デハ1002号」は、「帝都高速度交通営団」(「営団地下鉄」「元・東京地下鉄」「現・東京メトロ」)「丸ノ内線」「方南町支線」(中野坂上〜方南町)で使われていた「2000形」「2040号」で、1993年(平成5年)に引退後、「分岐線用」「2000形」では「唯一」解体されず「京王重機」へ譲渡され、「2039」の「運転台」と「結合」の上、「銚子電鉄」には「デハ1002号」として1994年(平成6年)に入線しました。
 上記のように「入線」に際しては、「2039号」の「運転台」を流用して「両運転台化」され、「モーター」(電動機)と「パンタグラフ」には「営団地下鉄」「日比谷線用」「3000形」から、「空気圧縮機」と「電動発動機」、「扇風機」は「営団地下鉄」「1500N形」から、「台車」は「富士急行」「5725」の「FS316」を利用したものであり、「営団地下鉄」「2000形」のものではありませんが、「初期」の「高性能車」の「集大成的存在」として「貴重」なものを流用していたそうです。

 今回引退する「車両」「デハ1002号」ですが、本来は「9両」が「茨城県」の「日立電鉄」(現・廃止)に入線し、「3000形」の「増備車」になる予定でしたが、実際には「7両」となったため、「日立電鉄側」の「都合」により「キャンセル」となり、「余剰」の「2両」(デハ1001、1002)が「銚子電鉄」にやってきました。
 「デハ1002号」は、平成23年(2011年)まで「銚子電鉄」の「オリジナルカラー」に変更されていましたが、「営団地下鉄時代」(現・東京メトロ)の「塗装」に「復刻」すべくは「元」の「丸ノ内線カラー」(丸ノ内分岐線色)に戻されていました。
 なお「デハ1002号」の「車両」ですが、1959年(昭和34年)に「製造」された「車両」で、1959年に「営団地下鉄」(当時)「銀座線用」の「2000形」として登場し、「都心」の「地下」を走り続けたのち、上記のように1968年(昭和43年)に「丸ノ内線」の「方南町支線」(中野坂上〜方南町)へ「移動」、そして1994年(平成6年)から、「デハ1002号」として「銚子電鉄」を走り出した「車両」です。
 今回引退する「銚子電鉄」「デハ1002号」、「元・営団地下鉄2000形」は、「銀座線」の「最新車両」である「1000系」(2012年登場)、そして「01系」(1984年登場)の「前」に「同線」を走っていた「車両」になります。

 1994年(平成6年)の「入線」以来、「銚子電鉄」の「路線」を、約20年間走り続けてきた「デハ1002号」。
 本年、2015年(平成27年)1月10日(土)の「運行」を「最後」に、その「歴史」に「幕」を閉じるそうです。
 「銚子電鉄」「デハ1002号」の「引退」にあたり、「銚子電鉄」では、「最終運行」する「デハ1002号」の「さよなら列車」「ありがとうデハ1002号運行」を行うそうです。
 「さよなら列車」「ありがとうデハ1002号運行」「当日」は、「通常ダイヤ」の「合間」に「臨時列車」として「上下」7本ずつ運行し、そのうち4本で「別」の「黄色」の「1車両」(デハ1001号)を連結させる珍しい「協調運転」を実施、「緑色」の「キャベツ畑」の中を「赤色」と「黄色」の「電車」が走る「光景」が見られるそうです。
 「さよなら列車」「ありがとうデハ1002号運行」の「運行時刻」ですが、下記の通りとなっています。

 「銚子駅発」「運行時刻」

 9時47分

 11時07分

 12時22分

 13時30分

 14時21分

 15時15分

 16時11分

 「外川駅発」「運行時刻」

 10時21分

 11時38分

 12時58分

 13時51分

 14時42分

 15時41分

 16時33分

 なお「さよなら列車」「ありがとうデハ1002号運行」では、「銚子駅発」の11時07分と12時22分、「外川駅発」の11時38分と12時58分は、「デハ1001号」との「2両編成」の「臨時列車」「ありがとう1002号」を運行し、「デハ1002号」と「デハ1001号」が「協調運転」が行われ、「乗車整理券」(500円)が「別」に「必要」となっており、「乗車整理券」ですが、「当日」10時から「銚子駅」「銚子電鉄ホーム」で行い、1人「1列車」(1列車当たり50枚程度)につき「2枚」まで発売されるそうです。
 (なくなり次第販売終了となっています。)

 「さよなら列車」「ありがとうデハ1002号運行」開催に際し、「銚子電鉄」では、「イベント開催時」の「お願い」とし、下記の「お願い」をされています。

 デハ1002の引退が発表されてから銚子電鉄沿線で列車を撮影されている人の中でマナーの悪い人が目立つようになってきております。
 以下のような行為は、絶対におやめ下さい。
 危険行為により列車の運行に支障がでた場合、危険と判断し「イベント」を中止させていただく場合もございますのでご了承下さい。
 皆様のご理解とマナー向上にご協力をお願い致します。

 ・線路内への立ち入り

 ・列車接近時、ホームから身を乗り出しての撮影

 ・立入禁止箇所へ許可なく立ち入る行為

 ・沿線の畑への立ち入り、花を踏みつける行為

 ・植物や掲示物などの抜き取り、持ち去り…

 ・私有地内への無断立ち入り

 ・ゴミのポイ捨て

 その他

 ・係員の指示に従って下さい。(物販含む)

 ・列車撮影に関しての事故、トラブル等には一切責任を負えません。

 (「銚子電鉄公式ブログ」「ちょうでんのブログ」より抜粋)

 「協調運転」ですが、「制御系統」が「別々」の「車両」を連結して走らせることで、「車両」ごとに「運転士」が操作するというもので、いまでは「全国的」に珍しいそうです。
 「協調運転」に際し、「銚子電鉄」は、

 「協調運転ができるのはうちぐらい。
 楽しみにしている鉄道ファンもいるので期待に応えたい」

 と話しているそうです。
 また、「銚子電鉄」「さよなら運行」「ありがとうデハ1002号運行」では、「記念グッズ」や「記念乗車券」の「販売」も予定されているそうです。

 「通常」、「引退運行」は、「さよなら運転」と呼ばれますが、「銚子電鉄」では、

 「さよならだと悲しいイメージがあるので、走ってくれた感謝を込めて、ありがとうとした」

 と「コメント」しているそうです。
 「ありがとうデハ1002号運行」で「引退」する「デハ1002号」の「予定」は「未定」で、「同型」の「デハ1001号」の「予備部品用」として、しばらくは「仲ノ町車庫」にとどめる「見込み」となっているようです。

 「人気」の「ローカル鉄道」「銚子電鉄」で活躍してきた「デハ1002号」の「最後」の「雄姿」が見える「さよなら列車」「ありがとうデハ1002号運行」。
 この機会に「銚子市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「さよなら列車」「ありがとうデハ1002号運行」詳細

 開催日時 1月10日(土) 9時47分(下り)〜

 開催区間 銚子電鉄 銚子駅〜外川駅

 問合わせ 銚子電気鉄道株式会社 0479-22-0316

 備考
 「銚子電鉄」「デハ1002号」ですが、「引退前」の昨年(2014年)11月12日から12月中旬の「間」、「朝」の「時間帯限定」で「笠上黒生駅」で、「デハ1001号」との「交換シーン」が見ることがてきたそうです。
 「デハ1002号」ですが、「引退」までは「記念ヘッドマーク」や「記念方向幕」等を掲げて運転する「予定」となっています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=2376 |
| 地域情報::銚子 | 09:35 AM |
「大般若会」(成田市)
 本日ご案内するのは、近隣市「成田市」「成田山新勝寺」で1月8日(木)に開催されます「大般若会」です。

 「成田山新勝寺」(2010年11月14日・15日・16日のブログ参照)は、「成田市」にある「真言宗智山派」の「寺」であり、「真言宗智山派」の「大本山」のひとつです。
 「成田山新勝寺」は、1000年以上の「歴史」をもつ「全国有数」の「霊場」で、「成田」を「代表」する「観光地」でもあり、「正月3が日」には約300万人、「年間」約1000万人以上の「参拝客」が訪れています。
 「成田山新勝寺」の「御本尊」は「不動明王」で、「成田山新勝寺」は上記のように「関東地方」「有数」の「参詣人」を集める「著名寺院」で、「家内安全」、「交通安全」などを祈る「護摩祈祷」のために訪れる方が多い「不動明王信仰」の「寺院」のひとつであり、「成田のお不動さま」の「愛称」で親しまれています。

 「成田山新勝寺」の「御本尊」である「不動明王」ですが、「真言宗」の「開祖」「弘法大師」「空海」が自ら「一刀三礼」(ひと彫りごとに三度礼拝する)の「祈り」をこめて「敬刻開眼」された「御尊像」なのだそうです。
 「成田山新勝寺」では、この「霊験」あらたかな「御本尊」「不動明王」の「御加護」で、千年以上もの間、「御護摩」の「火」を絶やすことなく、「皆様」の「祈り」が「一体」となり「清浄」な「願い」となって現れるそうです。
 「成田山新勝寺」は、「開山1080年」を間近に控えた現在も「成田山のお不動さま」として数多くの「人びと」の「信仰」を集めています。

 「成田山」の「開山の祖」「寛朝大僧正(かんちょうだいそうじょう)」は、延喜16年(918年)に生まれ、天慶3年(940年)「平将門の乱」を鎮めるため「朱雀天皇」の「勅命」により「関東」に下り、「この地」に「成田山新勝寺」が開山されました。
 「寛朝大僧正」は、「皇室」との「血縁」もある大変に「格」の高い「僧侶」で、後に「真言宗」初めての「大僧正」に任じられ、「成田山」の他にも「京都」に「遍照寺」を開山しているそうです。

 「成田山新勝寺」は、上記のように平安時代中期に起きた「平将門の乱」の際、939年(天慶2年)「朱雀天皇」の「密勅」により「寛朝大僧正」を「東国」に遣わしたことに「起源」を持ちます。
 「寛朝大僧正」は、「京」の「高雄山」(神護寺)「護摩堂」の「空海」作の「不動明王像」を奉じて「東国」へ下り、翌940年(天慶3年)、「海路」にて「上総国」「尾垂浜」に上陸、「平将門」を調伏するため、「下総国」「公津ヶ原」で「不動護摩」の「儀式」を行ったそうです。
 「成田山新勝寺」では、この天慶3年を「開山の年」としています。
 「平将門の乱」「平定後」の永禄年間(1566年)(永禄9年)に「成田村一七軒党代表」の「名主」が「不動明王像」を背負って「遷座」され「伽藍」を建立された「場所」が、現在の「成田市」「並木町」にある「不動塚」周辺と伝えられており、「成田山発祥の地」といわれています。
 「成田山新勝寺」の「寺名」ですが、「また新たに勝つ」という「語句」に因(ちな)み「新勝寺」と名づけられ、「東国鎮護」の「寺院」となったそうです。

 「成田山新勝寺」では、平成20年(2008年)に「開基1070年祭記念大開帳」が行われ、これにあわせて、平成19年(2007年)には「総欅造り」の「総門」が「落慶」され、「新勝寺」の「表玄関」として「荘厳」な「たたずまい」を見せています。
 この「総門」は、開かれた「庶民のお寺」「成田山」と「門前町」とをつなぐ「担い手」として、「大開帳」を記念し創建されたもので、「総門」前にある「門前広場」は「参拝客」の「憩いの場」となっています。

 「成田山新勝寺」ですが、「総門」をくぐって、「境内」に入ると大きな赤い「提灯」のある「仁王門」があり、「境内」には、数多くの「建造物」が立ち並んでいます。
 「仁王門」から「東海道五十三次」にならった53段の「石段」を上がると、「成田山」の「シンボル」である「大本堂」が現れ、「成田山新勝寺」「大本堂」では、「世界平和」と「人々の幸せ」を願って「開山」以来「毎日」欠かさずに「御護摩祈祷」が厳修されています。

 「成田山新勝寺」の「伽藍」ですが、「JR」および「京成電鉄」の「成田駅」から「成田山新勝寺」への「参道」が伸び、「参道」を10分ほど歩き、「急」な「石段」を上った先の「台地上」に「境内」が広がっています。
 「石段」の「途中」に「仁王門」、「石段」を上った先に「正面」に「大本堂」、その手前「右手」に「三重塔」、「鐘楼」、「一切経堂」などが建っています。
 この他、「大本堂」の「左手」に「釈迦堂」、「大本堂」の「背後」の「一段」高くなった「地」には「額堂」、「光明堂」、「開山堂」、「平和の大塔」(2012年5月7日のブログ参照)などが建っており、「成田山新勝寺」「境内」の「東側」は「広大」な「成田山公園」(2011年11月8日・2010年11月12日のブログ参照)があります。
 「成田山新勝寺」にある「釈迦堂」、「光明堂」、「表参道」にある「薬師堂」(2013年5月22日のブログ参照)ですが、「歴代」の「成田山」の「大本堂」です。
 これほどの「数」の「御堂」が現存している「寺院」は大変珍しく、それぞれの「建物」には「建立時」の「建築様式」を「今」に伝えており、江戸中期から末期の「建物」である「仁王門」、「三重塔」、「釈迦堂」、「額堂」、「光明堂」の「5棟」が「国」の「重要文化財」に指定されています。

 「大般若経」ですが、「お釈迦様」が説かれた「お経」で、「仏教」の「中心思想」である「一切皆空」の「理(ことわり)」が述べられています。
 「大般若会」とは「大般若経」「六百巻」を「転読(てんどく)」することによって、「般若経」の「空(くう)」の「教え」を「体得」し、すべての「苦厄(くやく)」を消しさって、「内外」の「怨敵(おんてき)」を「退散(たいさん)」させ、「五穀豊穣」や「国家安寧(こっかあんねい)」を祈念し、「人々」を「幸福」な「生活」にみちびいてゆくことを「目的」とした「大法要」となっています。

 この「大般若会」には、「本堂」「中央」「須弥壇」上に「十六善神様」の「掛軸」をお祀りするそうです。
 「十六善神様」の「掛軸」の「まん中」の「仏さま」は「お釈迦様」で、「お釈迦様」の「右手前」に、「獅子」にまたがっておられる「仏さま」は「文殊菩薩」、「三人寄れば文殊の智恵」といわれるように「智恵」を「代表」する「仏さま」で、「左」の「方」に、「文殊菩薩」と向き合って「象」に乗っている「仏さま」は「普賢菩薩」だそうです。
 「文殊菩薩」が「仏さま」の「智恵」を「代表」するのに対して、「普賢菩薩」は「仏さま」の「慈悲」の「象徴」で、「仏さま」の「徳」は「悲智円満」といい、「慈悲」と「智恵」とを「円満」に備えておられるそうで、その「仏さま」の「徳」を「二人」の「菩薩さま」がそれぞれ「代表」しておられます。
 次に、「お釈迦様」の「左右」に「八人」づつ、「剣」や「槍」や「斧」などを持った恐ろしい「顔」をした「方々」が描かれており、これは「十六善神」といい、「大般若経」を「守護」し、「仏法」を信じる「皆」を護ってくださる「方々」の「姿」なのだそうです。
 このほか、やさしい「顔」の「法桶菩薩」、「泣き顔」をした「常啼菩薩」、ともに「大般若経」に深い「因縁」のある「菩薩さま」なのだそうです。

 「大般若会」ですが、上記の「大般若経」の「転読」で「五穀豊穣」を願う、「仏教」の「思想」に基づいた「仏陀」の「説法」を記録した「大般若経」「六百巻」を、「転読」という「方法」で流し読み、「世界平和」や「五穀豊穣」を祈祷する「行事」となっています。
 「成田山新勝寺」では、1月8日(木)11時00分から「成田山新勝寺」「光明堂」「横」の「清瀧権現堂」にて「天下泰平」・「万民豊楽」・「五穀豊穣」・「息災延命祈願」の「大般若会」が権修されます。
 「大般若会」ですが、「大唐西域記」で知られる「玄奘三蔵」が「翻訳」した「経典」「大般若経」「六百巻」を「職衆僧侶」が「転読」し、「天下泰平」・「万民豊楽」・「五穀豊穣」・「息災延命」を祈願するものだそうです。
 「大般若会」では、「経典」を「転読」する「風」にあたると、1年間「無病息災」の「御利益」をいただけるということから、多くの「参詣客」が「参列」されるそうです。
 また、「大般若会」「法会後」には、「参詣客」の「皆さん」に「大般若特別札」を受けるそうです。

 「成田」の「名刹」「成田山新勝寺」で開催される「大般若経」を「転読」し「天下泰平」・「万民豊楽」・「五穀豊穣」・「息災延命」を「祈願」する「行事」「大般若会」。
 この機会に「成田市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「大般若会」詳細

 開催日時 1月8日(木) 11時〜

 開催会場 成田山新勝寺 成田市成田1

 問合わせ 成田山新勝寺 0476-22-2111

 備考
 「大般若会」が催行される「成田山新勝寺」では、同日に「初薬師」も催行されます。
 「初薬師」とは、その「年」「最初」の「薬師如来」の「縁日」で、毎年「正月8日」の1月8日に催行されています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=2404 |
| 地域情報::成田 | 06:51 PM |
「常世田薬師(とこよだやくし)」「御本尊御開帳」(銚子市)
 本日ご案内するのは、地元「銚子市」「常世田山常灯寺」で1月8日(木)に開催されます「常世田薬師(とこよだやくし)」「御本尊御開帳」です。

 「常世田山常灯寺」(2011年1月11日のブログ参照)ですが、「銚子市」「常世田町」にある「真言宗智山派」の「寺院」で、「山号」は「常世田山」です。
 「常世田山常灯寺」の「御本尊」は「薬師如来」、「常世田山常灯寺」は「地名」である「常世田町」と「御本尊」の「名称」「薬師如来」の「名称」から「常世田薬師(とこよだやくし)」と呼ばれています。

 「常世田薬師」こと「常世田山常灯寺」の「創建年代」等は「不詳」だそうですが、「伝承」によりますと、「行基」によって開創された「寺院」であると伝えられています。
 「常世田山常灯寺」は、「目」の「病気」に「御利益」があるとされ「人々」に篤く信仰され、「常世田薬師」と呼ばれ、広く親しまれていました。
 また「常世田山常灯寺」は、江戸時代から明治時代にかけ、「東総の三薬師」のひとつとして「興隆」を極めていたそうです。
 ちなみに「東総の三薬師」とは、「銚子市」の「常世田山常灯寺」、「旭市」の「尾背川薬師寺」、「匝瑳市」の「泉養院」(現在、廃寺)だったそうです。
 「常世田山常灯寺」「本堂」ですが、「正面」9m、「側面」10.8mの「寄棟(よせむね)造り」で、「茅葺屋根」の「仏堂」でした。
 「常世田山常灯寺」「本堂」「内部」ですが、「内陣」に「宮殿(くうでん)」を安置した「須弥壇(しゅみだん)」を設けており、「宮殿」は、1.8m四方の「大規模」なもので、「禅宗出組(ぜんしゅうでぐみ)」と「板蟇股(いたかえるまた)」を付し、「正面」と「背面」に「扉」を設けており、「本堂」と同時期のものと考えられているそうです。
 「宮殿」の「軸部」の「様式」は、「自然石」の「礎石」上に「丸柱」を建て、「柱」上に「台輪(だいわ)」を置き、「組物」は「唐様二手先(からようふたてさき)」で、「中備(なかぞなえ)」に「蓑束(みのづか)」を用いています。
 「内外陣」の「境」は、「舞良戸(まいらど)」と「格子戸(こうしど)」を用いて仕切り、「天井」は「格天井(ごうてんじょう)」、「建立」は、「棟札」によりますと、1673年(寛文13年)で、「県内」の江戸時代前期の「密教系仏堂」の「代表例」といわれているそうです。
 現在「常世田山常灯寺」ですが、「保存整備事業」のために「解体修理」(2011年2月15日のブログ参照)を行っており、2013年、2014年に「修復」を行い、本年(2015年)3月末に修復される予定となっています。

 「行基」ですが、「日本」の奈良時代の「僧」で、天智天皇7年(668年)に生まれました。
 (667年4月に生まれたという説もあります。)
 「僧侶」と「国家機関」と「朝廷」が定め「仏教」の「一般民衆」への「布教」を禁じた時代に、「禁」を破り「畿内」を「中心」に「民衆」や「豪族層」を問わず、広く「仏法」の「教え」を説き、「人々」より篤く崇敬されました。

 また「行基」は、「道場」・「寺」を多く建てたのみならず、「溜池15窪」、「溝」と「堀9筋」、「架橋6所」を、「困窮者」のための「布施屋」9ヶ所等の「設立」など「社会事業」を「各地」で行ったそうです。

 「朝廷」からは、度々(たびたび)弾圧されましたが、「奈良の大仏」(「東大寺」ほか)「建立」の「実質上」の「責任者」として招聘されたそうです。
 この「功績」により「行基」は、「東大寺」の「四聖」の「ひとり」に数えられています。

 「常世田薬師」こと「常世田山常灯寺」の「本堂」は付随して「宮殿」、「棟札」とともに、昭和54年(1979年)3月2日に「千葉県」の「有形文化財」(建造物)に指定されています。
 「常世田山常灯寺」ですが、「千葉県内」では、江戸時代前期の「密教系仏堂」の「代表例」といわれているそうです。

 「常世田山常灯寺」には、「寺宝」でもある「木造薬師如来坐像」があります。
 「木造薬師如来坐像」ですが、「像高」140.9cm、「坐幅」約100cmあり、「ヒノキ寄木造り」で「坐像」「全面」に「漆箔(しっぱく)」を施(ほどこ)してあり、「金色(こんじき)」に輝いています。
 「常世田山常灯寺」「木造薬師如来坐像」は、「仏像」のふくよかな「顔」が「流麗(りゅうれい)」な「衣文(えもん)」など随所に平安後期の「特徴」(定朝様式)を残している鎌倉時代初期の「代表的」な「仏像」(作例)なのだそうです。
 「常世田山常灯寺」「木造薬師如来坐像」の「台座」は仁治年間に修理されました「八角形」の「裳懸座(もかげざ)」で「金色燦然(こんじきさんぜん)」としています。
 「常世田山常灯寺」「木造薬師如来坐像」の「光背(こうはい)」の「高さ」232cm、「光背」の「頂部」に「胎蔵界大日如来」と「脇侍(きょうじ)」「二尊」を導き、「左右」に6躯ずつ「合計」12体の「飛天」の「数」ですが、「薬師如来」の「十二請願(せいがん)」に合わせたものであろうと「推測」されており、「常世田山常灯寺」「木造薬師如来坐像」「像胎内」に「多数」の「墨書銘(ぼくしょめい)」があり、これにより1243年(明治4年)、「仏師」「豪慶」によって修理したと伝えられています。
 「常世田山常灯寺」「木造薬師如来坐像」ですが、1955年(昭和30年)1月に「千葉県」の「県指定文化財」となり、1959年(昭和34年)6月27日に「国」の「重要文化財」(彫刻)に指定されています。

 「常世田薬師」の「名」で親しまれている「常世田山常灯寺」「本堂」は、上記のように「千葉県指定文化財」で、また「御本尊」「木造薬師如来坐像」は、「国」の「重要文化財」です。
 しかし、「常世田山常灯寺」は、多くの「他の寺院」のように「檀家」を持たず、「歴史」ある「伽藍」は、「地元の町内会」が結成した「常世田薬師奉賛会(とこよだやくしほうさんかい)」によって守られてきました。
 1673年(寛文13年)に建立された「常世田山常灯寺」は、これまで一度も大きな「改修」が行われず、年々「老朽化」していく「本堂」の「姿」に、わずか30年ほどの「町内会」からなる「奉賛会」の「皆さん」も永年「心」を痛めていたそうです。
 ところが、平成20年(2008年)にある「個人の方」から、

 「常世田山常灯寺解体修理に使ってください。」

 と「多額」の「寄付」をいただき、思いがけず、「解体修理」を「開始」できることとなったそうです。

 しかし「解体修理」のための「多額の寄付」をいただいたものの、「解体修理」と「将来」にわたっての「建物」の「維持管理」にかかる「費用」に賄うには十分とはいえず、限られた「費用」の中での「将来」にわたる「維持」・「管理」の「点」から、「幾星霜」を経た「歴史」あるかつての「茅葺屋根」の「趣」を残しつつも、「維持管理」により適した「銅板」を使用することとなったそうです。

 「銚子市」では、「常世田山常灯寺」の「本堂」を、平成22年(2010年)から平成27年(2015年)までの「6か年」で「解体修理事業」を実施する「計画」を立て、「解体修理工事」を開始しています。
 「常世田山常灯寺」「本堂」の「修理完了予定」ですが、2014年(平成26年)の「3月末」でしたが、平成27年度末に「事業」が「終了」する「予定」となりました。
 現在「解体修理」が始まって、3年が経過し、平成24年(2012年)3月には、「建物」の「すべて」の「部材」が「解体」され、「礎石」のみを残す「状態」でした。
 これまでの「解体作業」の「過程」でも、「創建時」から「現在」に至るまでの「建物」の「歴史」を物語る「数多く」の「資料」が発見されたそうです。
 そして平成25年度からは、「部材」をつくろいながら、「組み立て」が始まり、上記のように平成27年度末に「事業」が「終了」する「予定」となっています。

 「常世田薬師」「御本尊御開帳」ですが、「初薬師」にあたる毎年1月8日、7時00分から12時00分まで「常世田山常灯寺」「収蔵庫」を開けて、「常世田山常灯寺」「御本尊」である「寺宝」「木造薬師如来坐像」を御開帳する「行事」で、「国」の「重要文化財」(彫刻)に指定されている「木造薬師如来坐像」を「年」に「一度」開催されるそうです。
 「常世田薬師」「御本尊御開帳」では、「当日」「常世田山常灯寺」にて「子供たち」の健(すこ)やかな「成長」を祈願する「魔除け」の「御朱印」を「おでこ」に押してもらうことが出来るそうです。

 また「常世田薬師」「御本尊御開帳」に合わせて行われる「行事」ですが、上記のように「お札」の「授与」、「常世田町内会」による「甘酒」の「ご接待」が行われるそうです。

 「歴史」ある「常世田山常灯寺」で開催される1月8日午前中のみ公開される「行事」「常世田薬師」「御本尊御開帳」。
 この機会に「銚子市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「常世田薬師」「御本尊御開帳」詳細

 開催日時 1月8日(木) 7時〜12時

 開催会場 常世田山常灯寺 銚子市常世田町53-1

 問合わせ 銚子市教育委員会生涯学習課文化班 0479-24-8739 (平日 8時30分〜17時00分)

 備考
 「常世田薬師」「御本尊御開帳」では、「参拝者」のうち「希望者」には「御朱印」を押してもらえるそうです。
 また「常世田薬師」「御本尊御開帳」の「御朱印」ですが、「体」に押してもらうと「無病息災」の「ご利益」があると言われているそうです。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=2363 |
| 地域情報::銚子 | 12:52 AM |
「髭撫祭(ひげなでさい)」(香取市)
 本日ご案内するのは、となりまち「香取市」「側高神社」で1月11日(日)に開催されます「髭撫祭(ひげなでさい)」です。

 「側高神社」ですが、「香取市」「大倉」に鎮座する「神社」で、「社格」は「香取神宮摂社」、「郷社」で、「利根川」(2011年10月9日のブログ参照)「下流域」には「そばたか」と「社名」を読む「神社」が多く分布していますが、「当社」「側高神社」は、それらの「本社」とされています。
 ちなみに「利根川」「下流域」の「そばたか」のつく「神社」ですが、「側高」、「側鷹」、「脇鷹」、「蘇羽鷹」、「素羽鷹」、「隣高」、「相馬高」、「祖波鷹」、「蕎高」など「漢字」で表記すると「様々」な「表記」となっています。
 「側高神社」の「創建」ですが、「香取神宮」(2010年11月5日・6日のブログ参照)と同じ、「神武天皇18年」の「創建」と伝えられ、「側高神社」「御祭神」は「昔」から「神秘」とされており、明らかではないそうですが、現在は「一般名称」として、「側高大神」と称されています。
 「香取郡誌」では、「側高神社」の「御祭神」について、「主祭神」を「高皇産霊尊(たかむすびのみこと)」、「神皇産霊尊(かみむすびのみこと)」、「相殿神」を「天日鷲命(あめのひわしのかみ)」・「経津主命(ふつぬしのみこと)」・「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」・「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」・「姫御神(ひめみかみ)」とされており、これら「側高神社」「御祭神」の中に「忌部氏系」の「天日鷲命」が見られることと、「側高神社」の「成立」との「関係性」が指摘されており、また「経津主命」(「香取神宮」「御祭神」)の「后神」が「御祭神」であるという「説」もあるそうです。
 「側高神社」は、「香取神宮」「第一」の「摂社」であり、慶長・元禄と「江戸幕府」の「造営」があり、1908年(明治41年)に「大倉」「字石神代」の「落文神社(おとしぶみじんじゃ)」と「大倉」「字一夜山」の「一夜山神社(ひとよやまじんじゃ)」(「痘痩(ほうそう)除(よ)け」として「信仰」)が合祀されています。

 「側高神社」は、「利根川」(2011年10月9日のブログ参照)を見下ろす「台地」に建立されており、はるか昔は「香取ヶ浦」と呼ばれる「広大」な「内海」が「眼下」に広がっていたであろうと「想像」され、「側高神社」「境内」には、「樹齢」500年を超えるといわれる「夫婦杉」があり、さらに「太さ」7.4mもの「杉」の「ご神木」も「見事」に聳(そび)え立っているそうです。
 ちなみに「香取ヶ浦」とは、現在の「利根川」・「北浦」(2011年12月6日のブログ参照)・「外浪逆浦(そとなさかうら)」(2011年1月30日のブログ参照)を含んだ「地域」の「通称」です。
 「側高神社」の「概史」ですが、「香取志」には、「側高神社」は、上記のように「香取神宮」の「第一摂社」とあり、古くより「香取神宮」との「関係」が深かったことがうかがわれます。
 寛元元年(1243年)の「文書」には「香取神宮」とともに「造替」があったことが見え、鎌倉時代には「社殿」は「一間」で「茅葺」、「作料官米」30石が「造営」に充てられた「旨」が見られるそうです。
 慶長12年(1607年)、元禄13年(1700年)の「江戸幕府」による「香取神宮」「修造」の際にも、同時に「側高神社」の「修造」が行われ、これらの「古文書」には「脇鷹」、「曽波鷹」という「表記」も見られるそうです。
 「側高神社」ですが、1916年(大正5年)「御大礼記念」として「社殿」を改造、1931年(昭和6年)には「国鉄成田線」(現「JR成田線」)「工事」のために「神井」を「現在地」の「鳥居」「脇」に移設、「県道」(現「国道356号線」)から「階段」(現在は「通行不可」)を新設されています。

 「側高神社」の「社伝」ですが、上記のように「香取神宮」の「創建」と同じく「神武天皇18年」の「創建」といわれています。
 また「側高神社」「社伝」には、下記のような「伝承」が残っています。

 昔、「側高神」が「香取神」の「命」により、「陸奥」(東北地方)の「馬」2000疋を捕えて、「霞ヶ浦」の「浮島」まで帰ってきたところ、「陸奥神」が「馬」を惜しんで追いかけてきました。
 そこで「側高神」は、「潮干珠」を用い「霞ヶ浦」を「干潟」にして「潮」を引かせ、「馬」を「下総」の「地」に渡らせ、次いで「馬」を渡し終えると、今度は「霞ヶ浦」を「潮満珠」で「潮」を満たし「満潮」にして、「陸奥神」を渡れなくしました。

 との「伝承」があり、この「伝承」から「側高神社」が、古代に担った「役割」が推察されます。
 また「側高神社」の「末社」「落文神社」には、「鹿島神宮」(2010年11月8日・9日・10日のブログ参照)の「神」が、「香取神宮」の「神」に「文」を出し、「使いの鹿」が「猟師」に狙われた時に「文」を落としてしまい、その「心労」のために死んでしまった「使いの鹿」を祀ったものとの「伝承」があります。

 「側高神社」の「文化財」ですが、「側高神社」「本殿」が、「千葉県」の「県指定有形文化財」(昭和57年(1982年)4月6日指定)に指定されています。
 「側高神社」「本殿」ですが、寛文5年(1665年)の「建立」の「一間社流造」の「独自」の「構造」を持つ「本殿」となっており、「彩色文様」や「彫刻」には、桃山時代の「建築様式」の「特色」が見られるそうです。
 「側高神社」は、上記のように「香取神宮」の「修造」との「関係」や「建築様式」から、慶長年間に「畿内」「出身」の「名工」に学んだ「工匠」の「手」と見られており、「側高神社」「本殿」は、「地方色」の強い「建築物」となっており、「貴重なもの」という「観点」から、上記のように「千葉県」の「県指定有形文化財」に指定されているようです。

 「髭撫祭」ですが、約800年前・鎌倉時代の建保2年(1214年)から続いている「側高神社」に伝わる「伝統行事」で、「香取神宮」「御祭神」「経津主大神」の「御神徳」を称え、「国土の平安」・「五穀豊穣」・「子孫繁栄」を祈念・祈願する「質朴勇壮」な「酒祭」です。
 「髭撫祭」は、「大倉村中」の「氏族別」に18組に分け、「18当番」の「各組」が毎年「相互」に「2組」ずつ「祭り当番」・「請当番」として「奉仕」する「しきたり」で、「祭り当番引き継ぎ」の「行事」として執り行われます。
 「髭撫祭」では、上述のように「氏子」の「間」で「祭り当番」を引き継ぐ「儀式」として、「西側」に座した「当番」が「東側」に座す「新当番」に「酒」を勧める際、「立派」な「髭」を撫(な)でることから「ひげなで祭」(髭撫祭)と呼ばれるようになったそうです。

 「髭撫祭」は、「1月第2日曜日」の「午後」に催行されている「地区」の「当番引き継ぎ行事」(「他地区」でいう「オビシャ」)で、はじめられた「当初」から、「弓」を射らず、「祭り当番」の「引き継ぎ式」(引渡し式)と、「五穀豊穣」・「子孫繁栄」を祈念・祈願する「杯事」のみを行います。
 「髭撫祭」「当日」、「側高神社」「神前」に「注連縄(しめなわ)」を張り、「鶴亀」遊ぶ「蓬莱山(ほうらいさん)」を飾り、「両当番」は「西」と「東」に分かれて「酒」を飲み合います。
 「髭撫祭」では、まず「神職」により、「祭り当番」の「引き継ぎ式」(「神祭」をする「当番」の「引き継ぎ式」)が行われ、「七引き合いの杯事」が行われます。
 「七引き合いの杯事」ですが、「年番」のみが「髭」をつけており、「紋付羽織袴(もんつきはおりはかま)」という「古式」の「礼装」に「威儀」を正し、「荒筵(あらむしろ)」の上に「箸座」し、「二人」ずつ「交互」に出て「七引き合いの杯事」を行い、「初献」より「七献目」(満献)まで、「一杯」・「三」・「五」・「七」・「七」・「五」・「一杯」と定められています。
 この「定められた杯」を飲み干したのち、「請年番」は断れない「しきたり」になっており、これが「ひげなでまつり」(髭撫祭)といわれる「所以(ゆえん)」となっています。
 上述のように「七引き合いの杯事」では、「紋付羽織袴」を着た「新旧当番地区」の「人」が「互い」に向き合って座り、「髭(ひげ)」を撫(な)でたら、大きな「椀(わん)」で「お酒」を飲み合い、「髭」を撫でられた「新当番」は「大椀」で「何杯」でも応じなければならない「作法」により「酒」を飲み干し、「紋付羽織袴」で「大仰」に「カイゼル髭」を撫でる「姿」が「笑い」を誘うなんとも「ユーモラス」な「行事」となっています。
 「髭撫祭」「七引き合いの杯事」では、「見事」に飲み干す度(たび)に「勇者」を褒めはやす「閧(とき)の声」が「新年早々」の「側高山」に沸き上がり、今なお「昔」ながらの「手振り」床しく、「五穀豊穣」、「子孫繁栄」を祈念して引き継がれており、「貴重」な「伝統文化」として、「髭撫祭」は、昭和52年(1977年)に「香取市」の「市指定無形民俗文化財」(昭和52年6月1日制定)に指定されており、「千葉県」の「房総の魅力500選」にも選定されています。

 「香取神宮」の「御祭神」「経津主大神」と「縁故」の深い「神」を祀るとされる「神社」「側高神社」で開催される「伝統行事」「髭撫祭」。
 この機会に「香取市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「髭撫祭」詳細

 開催日時 1月11日(日) 13時半頃〜

 開催会場 側高神社 香取市大倉5

 問合わせ 側高神社 0478-57-1545

 備考
 「髭撫祭」「当日」は、「会場」である「側高神社」「境内」にて「甘酒」など振る舞われるので、「寒さ」を忘れて「髭撫祭」を楽しめるそうです。
 「髭撫祭」の催行される「側高神社」には、「四箇の甕」と呼ばれる4つの「甕」があります。
 「四箇の甕」ですが、「側高神社」の「鳥居」をくぐって「拝殿」へと向かう「石段」の「脇」にあり、「春の甕」、「夏の甕」、「秋の甕」、「冬の甕」と呼ばれる「4つの甕」で、「四箇の甕」は、それぞれの「甕」の中の「雨水量」(水量)が「その年」(四季折々)の「降水量」を占う(示す)と伝えられています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=2369 |
| 地域情報::香取 | 04:01 PM |
「新春特別展」「成田山寿(ことほ)ぎの書画」(成田市)
 本日ご紹介するのは、近隣市「成田市」「成田山書道美術館」で1月1日(祝・木)〜2月8日(日)の期間開催されます「新春特別展」「成田山寿(ことほ)ぎの書画」です。

 「成田山書道美術館」(2011年6月5日のブログ参照)は、「成田山新勝寺」(2010年11月14日・15日・16日のブログ参照)の「大本堂」の「奥」に広がる「成田山公園」(2011年11月8日・2010年11月12日のブログ参照)の「一角」に建つ「書」の「専門」「美術館」です。
 「成田山書道美術館」は、「水」と「木々」が快(こころよ)い「調和」を生んでいる「成田山公園」の「三の池」の「畔(ほとり)」に佇んでおり、「成田山書道美術館」「館内」には、「書の世界」が広がっています。
 「成田山書道美術館」は、江戸末期から現代に至る「日本」の「書道作品」や「資料」を収蔵し、展示しており、特に「成田山書道美術館」では、あまりにも現代に近いが故(ゆえ)に見過ごされがちな「近代日本」の「書作品」を広い「視野」から収蔵しています。

 「成田山書道美術館」「展示棟」1階ですが、「吹き抜け」になった「中央プラザ」をもつ「企画展示室」や「高さ」13mの「壁面」をもち、ゆったりとした「空間」で「作品」を鑑賞することができます。
 「成田山書道美術館」2階ですが、「常設展示室」となっており、「回廊式」の「ギャラリー」となっています。
 「成田山書道美術館」は、「書」の「総合美術館」として、優れた「作品」を鑑賞できることはもちろん、「作品」の「保存」・「研究」・「普及」など、「専門家」から「一般の人」が楽しめるそうです。

 「成田山書道美術館」は、「近現代」の「書蹟」の「収蔵」では、「質量」ともに「群」を抜いており、これらを生かした「展示」・「普及」・「研究活動」が行われています。
 「成田山書道美術館」ですが、「書」を「専門」とした「美術館」として「書文化」の「興隆」に貢献し、「書」を含む「美術」「全般」に「目」を向け、「美術館」の「施設」を生かした「複合的」な「展示」に取り組んでおり、「書」は「苦手」という「人」でも「抵抗」なく楽しめるように「展示」・「運営」されています。

 「成田山書道美術館」では、「テーマ」を変えながら「年間」6〜7回「展示」を行っています。
 「近現代」の「書」は、「鑑賞」という「点」において、「絵画」や「彫刻」などと比べるとまだまだ「発展途上」のようですが、「成田山書道美術館」では、「様々」な「切り口」での「展示」を「企画」し、「書の魅力」を「多方面」に感じられる「場」を提供しています。

 「新春特別展」「成田山寿(ことほ)ぎの書画」ですが、「成田山書道美術館」で1月1日(祝・木)から2月8日(日)までの「期間」開催される「催事」です。
 「新春特別展」「成田山寿(ことと)ぎの書画」の「開催要項」ですが、下記の通りとなっています。

 古来、書や絵画はハレの場で多く用いられてきました。
 生誕や結婚、神仏への敬虔(けいけん)な祈り、天の恵みへの感謝、四季の変化を実感する喜び、人びとは、ときに人生の節目を祝い、平安な毎日を寿ぎます。
 新仙や瑞果などの吉祥の図様や言祝ぎの言葉がそれぞれの場を彩り、多くの絵師や書家がそれらの制作にあたりました。
 今回の展覧会では、大本山成田山新勝寺と当館で所蔵する、江戸時代から現代までの書画のなかから、新春にふさわしい寿(ことほ)ぎの書画、約50点を出展します。

 「書」の「総合美術館」「成田山書道美術館」で開催される「新春」の「催事」「新春特別展」「成田山寿(ことほ)ぎの書画」。
 この機会に「成田市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「新春特別展」「成田山寿(ことほ)ぎの書画」詳細

 開催期間 1月1日(祝・木)〜2月8日(日)

 開館時間 9時〜16時(最終入館は15時半まで)

 開催会場 成田山書道美術館 成田市成田640

 休館日  2月2日(月)

 入館料  大人500円 高校・大学生300円 中学生以下無料

 問合わせ 成田山書道美術館 0476-24-0774

 備考
 「成田山書道美術館」で開催される「新春特別展」「成田山寿(ことほ)ぎの書画」ですが、「成田山新勝寺」にて「御護摩」「御修行者」の「方」は、「無料」となっています。
 「新春特別展」「寿(ことほ)ぎの書画」の開催される「成田山書道美術館」の「正月三が日」の「開館時間」ですが、「開閉館」とも30分延長するそうです。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=2365 |
| 地域情報::成田 | 10:20 AM |
「七草御印紋(ななくさごいんもん)」(成田市)
 本日ご案内するのは、近隣市「成田市」「成田山新勝寺」で1月7日(水)に開催されます「七草御印紋(ななくさごいんもん)」です。

 「成田山新勝寺」(2010年11月14日・15日・16日のブログ参照)は、「成田市」にある「真言宗智山派」の「寺」であり、「真言宗智山派」の「大本山」のひとつです。
 「成田山新勝寺」は、1000年以上の「歴史」をもつ「全国有数」の「霊場」で、「成田」を「代表」する「観光地」でもあり、「正月3が日」には約300万人、「年間」約1000万人以上の「参拝客」が訪れています。
 「成田山新勝寺」の「御本尊」は「不動明王」で、「成田山新勝寺」は上記のように「関東地方」「有数」の「参詣人」を集める「著名寺院」で、「家内安全」、「交通安全」などを祈る「護摩祈祷」のために訪れる方が多い「不動明王信仰」の「寺院」のひとつであり、「成田のお不動さま」の「愛称」で親しまれています。

 「成田山新勝寺」の「御本尊」である「不動明王」ですが、「真言宗」の「開祖」「弘法大師」「空海」が自ら「一刀三礼」(ひと彫りごとに三度礼拝する)の「祈り」をこめて「敬刻開眼」された「御尊像」なのだそうです。
 「成田山新勝寺」では、この「霊験」あらたかな「御本尊」「不動明王」の「御加護」で、千年以上もの間、「御護摩」の「火」を絶やすことなく、「皆様」の「祈り」が「一体」となり「清浄」な「願い」となって現れるそうです。
 「成田山新勝寺」は、「開山1080年」を間近に控えた現在も「成田山のお不動さま」として数多くの「人びと」の「信仰」を集めています。

 「成田山」の「開山の祖」「寛朝大僧正(かんちょうだいそうじょう)」は、延喜16年(918年)に生まれ、天慶3年(940年)「平将門の乱」を鎮めるため「朱雀天皇」の「勅命」により「関東」に下り、「この地」に「成田山新勝寺」が開山されました。
 「寛朝大僧正」は、「皇室」との「血縁」もある大変に「格」の高い「僧侶」で、後に「真言宗」初めての「大僧正」に任じられ、「成田山」の他にも「京都」に「遍照寺」を開山しているそうです。

 「成田山新勝寺」は、上記のように平安時代中期に起きた「平将門の乱」の際、939年(天慶2年)「朱雀天皇」の「密勅」により「寛朝大僧正」を「東国」に遣わしたことに「起源」を持ちます。
 「寛朝大僧正」は、「京」の「高雄山」(神護寺)「護摩堂」の「空海」作の「不動明王像」を奉じて「東国」へ下り、翌940年(天慶3年)、「海路」にて「上総国」「尾垂浜」に上陸、「平将門」を調伏するため、「下総国」「公津ヶ原」で「不動護摩」の「儀式」を行ったそうです。
 「成田山新勝寺」では、この天慶3年を「開山の年」としています。
 「平将門の乱」「平定後」の永禄年間(1566年)(永禄9年)に「成田村一七軒党代表」の「名主」が「不動明王像」を背負って「遷座」され「伽藍」を建立された「場所」が、現在の「成田市」「並木町」にある「不動塚」周辺と伝えられており、「成田山発祥の地」といわれています。
 「成田山新勝寺」の「寺名」ですが、「また新たに勝つ」という「語句」に因(ちな)み「新勝寺」と名づけられ、「東国鎮護」の「寺院」となったそうです。

 「成田山新勝寺」では、平成20年(2008年)に「開基1070年祭記念大開帳」が行われ、これにあわせて、平成19年(2007年)には「総欅造り」の「総門」が「落慶」され、「新勝寺」の「表玄関」として「荘厳」な「たたずまい」を見せています。
 この「総門」は、開かれた「庶民のお寺」「成田山」と「門前町」とをつなぐ「担い手」として、「大開帳」を記念し創建されたもので、「総門」前にある「門前広場」は「参拝客」の「憩いの場」となっています。

 「成田山新勝寺」ですが、「総門」をくぐって、「境内」に入ると大きな赤い「提灯」のある「仁王門」があり、「境内」には、数多くの「建造物」が立ち並んでいます。
 「仁王門」から「東海道五十三次」にならった53段の「石段」を上がると、「成田山」の「シンボル」である「大本堂」が現れ、「成田山新勝寺」「大本堂」では、「世界平和」と「人々の幸せ」を願って「開山」以来「毎日」欠かさずに「御護摩祈祷」が厳修されています。

 「成田山新勝寺」の「伽藍」ですが、「JR」および「京成電鉄」の「成田駅」から「成田山新勝寺」への「参道」が伸び、「参道」を10分ほど歩き、「急」な「石段」を上った先の「台地上」に「境内」が広がっています。
 「石段」の「途中」に「仁王門」、「石段」を上った先に「正面」に「大本堂」、その手前「右手」に「三重塔」、「鐘楼」、「一切経堂」などが建っています。
 この他、「大本堂」の「左手」に「釈迦堂」、「大本堂」の「背後」の「一段」高くなった「地」には「額堂」、「光明堂」、「開山堂」、「平和の大塔」(2012年5月7日のブログ参照)などが建っており、「成田山新勝寺」「境内」の「東側」は「広大」な「成田山公園」(2011年11月8日・2010年11月12日のブログ参照)があります。
 「成田山新勝寺」にある「釈迦堂」、「光明堂」、「表参道」にある「薬師堂」(2013年5月22日のブログ参照)ですが、「歴代」の「成田山」の「大本堂」です。
 これほどの「数」の「御堂」が現存している「寺院」は大変珍しく、それぞれの「建物」には「建立時」の「建築様式」を「今」に伝えており、江戸中期から末期の「建物」である「仁王門」、「三重塔」、「釈迦堂」、「額堂」、「光明堂」の「5棟」が「国」の「重要文化財」に指定されています。

 「七草(ななくさ)」ですが、「人日(じんじつ)」の「節句」(1月7日)の「朝」に、「7種」の「野菜」が入った「粥」を食べる「風習」のことです。
 「元々」の「七草」は、「秋の七草」を指し、「小正月」1月15日のものは、「七種」と書き、この「七種」も「ななくさ」と読み、「一般」には7日「正月」のものを「七草」と書くなど、現在では「元々」の「意味」がわからなくなり、「風習」だけが「形式」として残ったそうです。
 これらの事から、「人日」の「風習」と「小正月」の「風習」が混ざり、1月7日に「七草粥」が食べられるようになったと考えられています。
 ちなみに「人日」ですが、「五節句」のひとつで、1月7日、「七種粥」を食べることから「七草の節句」ともいい、また「霊辰(れいしん)」、「元七(がんしち)」、「人勝節」ともいうそうです。

 「春の七種」ですが、下記の「7種類」の「植物」となっています。

 芹(せり) Water dropwort セリ

 薺(なずな) Shepherd's Purse ナズナ(ぺんぺん草)

 御形(ごぎょう) Cudweed ハハコグサ(母子草)

 繁萋(はこべら) chickweed ハコベ(繁萋)

 仏の座(ほとけのざ) Nipplewort コオニタビラコ(小鬼田平子)

 菘(すずな) Turnip カブ(蕪)

 蘿蔔(すずしろ) Radish ダイコン(大根)

 この「7種」の「野菜」を刻んで入れた「かゆ」を「七草がゆ」といい、「邪気」を払い「万病」を除く「占い」として食べ、「呪術的」な「意味」ばからでなく、「御節料理」で疲れた「胃」を休め、「野菜」が乏しい「不足」しがちな「栄養素」を補うという「効能」もあるそうです。
 「七種」は、「前日」の「夜」に「まな板」に乗せて「囃し歌」を歌いながら「包丁」で叩き、「当日」の「朝」に「粥」を入れます。
 「囃し歌」は、「鳥追い歌」に由来するものであり、これは「七種がゆ」の「行事」と、「豊作」を祈る「行事」が結び付いたものと考えられているそうです。
 「歌」の「歌詞」は、

 「七草なずな 唐土の鳥が、 日本の土地に、 渡らぬ先に、 合わせて、 バタクサバタクサ」

 など「地方」により「多少」の「違い」があります。
 「七種」の「行事」は、「子(ね)の日の遊び」とも呼ばれ、「正月」最初の「子の日」に「野原」に出て「若菜」を摘む「風習」があったそうで、「枕草子」にも、「七日の若菜を人の六日にもて騒ぎ…」とあります。

 「七草御印紋(ななくさごいんもん)」ですが、「成田山新勝寺」で催行される「お不動さま」の「御印」を「額」にいただく「伝統行事」です。
 「七草御印紋」ですが、「七草の日」(1月7日)に行われ、「お不動さま」の「お姿」を表す「梵字(ぼんじ)」が刻まれた「朱印」を「額」に押し、「無病息災」・「身体健全」・「学業成就」を祈念する古くより「成田山新勝寺」に伝わる「伝統行事」だそうです。
 「七草御印紋」の「梵字」ですが、「成田山新勝寺」「御本尊」「不動明王」を表す、「カン」と読む「梵字」だそうで、「七草御印紋」では、上記のように「カン」と刻まれた「朱印」を「参詣者」の「額」にあて、「無病息災」・「身体健全」・「学業成就」を祈ってくれるそうです。
 「七草御印紋」ですが、「お子さま」や「受験生」に「人気」があるそうです。

 「真言宗智山派」の「大本山」のひとつ「成田」の「名刹」「成田山新勝寺」で開催される「七草」の「特別」な「御印紋授与」「七草御印紋」。
 この機会に「成田市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「七草御印紋」詳細

 開催日  1月7日(水) 

 開催会場 成田山新勝寺 成田市成田1

 問合わせ 成田山新勝寺 0476-22-2111

 備考
 「七草御印紋」ですが、1人1人に「御印紋」を当てて祈願してもらうため、「時間」がかかるそうです。
 なお「成田山新勝寺」では、1月1日(祝・木)から1月28日(水)までの「期間」「新春不動明王御印紋授与」が、「大本堂」「東側」で「毎日」行われるそうです。
 「七草御印紋」が行われる1月7日(水)に「成田山新勝寺」では、「新春恒例」の「伝統行事」、「成田山浄書式」が行われるそうです。
 「成田山浄書式」ですが、「橋本貫首大導師」のもと「御本尊」「不動明王」の「御宝前」にて「法楽」し、「読経」の中、「僧侶」が「御護摩札」に浄書するそうです。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=2405 |
| 地域情報::成田 | 06:51 PM |
「白馬祭(おうめさい)」(鹿嶋市)
 本日ご案内するのは、近隣市「鹿嶋市」「鹿島神宮」で1月7日(水)に開催されます「白馬祭(おうめさい)」です。

 「常陸国一宮」「鹿島神宮」(2010年11月8日・9日・10日のブログ参照)は、「茨城県」「鹿嶋市」にある「神社」で、「全国」に約600社ある「鹿島神社」の「総本社」です。
 「鹿島神宮」は、「千葉県」「香取神宮」(2010年11月5日・6日のブログ参照)、「茨城県」「神栖市」の「息栖神社(いきすじんじゃ)」(2010年11月7日のブログ参照)と合わせて「東国三社」(2010年10月23日のブログ参照)と呼ばれ、江戸時代から「東国三社めぐり」として「人気」があったそうで、「初詣」には、「全国」から60万人以上が参拝し、「初詣」の「参拝者数」では「茨城県」2位を誇ります。

 「鹿島神宮」は、「茨城県」「南東部」、「北浦」(2011年12月6日のブログ参照)と「鹿島灘(かしまなだ)」(2012年6月16日のブログ参照)に挟まれた「鹿島台地」上に鎮座し、「鹿島神宮」は、「伊勢神宮」・「香取神宮」とともに、「明治維新」前に「神宮」の「名称」を使用していた「三社」のうちの「一社」です。
 「鹿島神宮」の「御祭神」「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」(建御雷神)で、「鹿島神」という「一般名称」でも知られています。
 「武甕槌大神」ですが、「古事記」では、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」が「軻遇突智(かぐつち)」の「首」を切り落とした際、「剣」についた「血」が「岩」に飛び散って生まれた「三神」のうちの「一柱」とされています。

 「武甕槌大神」ですが、「古事記」では、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」が「軻遇突智(かぐつち)」の「首」を切り落とした際、「剣」についた「血」が「岩」に飛び散って生まれた「三神」のうちの「一柱」とされています。
 「武甕槌大神」は、「香取神宮」の「御祭神」「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)」とともに、「天孫降臨(てんそんこうりん)」に先立ち「国譲り」の「交渉」をしたといわれている「神様」で、「武甕槌大神」は、「武の神」として古くから「皇室」や「藤原氏」の「崇敬」を受け、さらに鎌倉時代以降は「武家政権」の「信仰」も得て、「社殿」・「楼門」・「宝物類」の「奉納」や「所領寄進」が繰り返されてきたそうです。
 「鹿島神宮」「楼門」は、寛永11年(1634年)、「徳川頼房」公が奉納した「楼門」で「日本三大楼門」のひとつとして知られています。
 「鹿島神宮」「楼門」は、「鹿島神宮」「境内」「鹿島神宮の森」の「縁」の中にひときわ「朱色」が鮮やかな「楼門」で、「鹿島神宮」「楼門」の「扁額」は「東郷平八郎」「元帥」の「直筆」によるものだそうです。

 「鹿島神宮」の「創建」ですが、2674年前の「初代」・「神武天皇」「御即位」の「年」にあたり、「神武天皇」は、「東征」の「途上」における「大神」の「布津御霊劔(ふつのみたまのつるぎ)」による「守護」に感謝され、「鹿島の地」に「大神」を勅祭されたそうです。
 これに先立つ神代の昔、「武甕槌大神」は「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」の「名」を受け、「葦原中国」といわれた「我が国」の「国譲り」から「国造り」まで、その「建国」に大いにその「御神威」を発揮されました。
 「鹿島神宮」は、その「御威徳」から「武の神」として崇められ、日出づる「東方」に坐します「鹿島立ち」の「御神徳」によって、「事始め」、「起業」、「開運」、「旅行交通安全の神」、「常陸帯」(2012年1月13日・2011年10月16日のブログ参照)の「故事」によって「安産」、「縁結び」の「神」を仰がれています。

 「鹿島神宮」「文化財」ですが、「布津御霊劔(ふつのみたまのつるぎ)」と称される「長大」な「直刀」が「国宝」に指定されているほか、「鹿島神宮」「境内」は「国」の「史跡」に指定され、「本殿」・「本殿」・「楼門」など「社殿」7棟が、「国」の「重要文化財」に指定されており、そのほか「鹿島神宮」は、「鹿」を「神使」とすることでも知られています。
 上記のように「鹿島神宮」は、古くから「朝廷」から「蝦夷(えぞ)」に対する「平定神」として、また「藤原氏」から「氏神」として崇敬され、その「神威」は中世の「武家の世」に移って以後も続き、「歴代」の「武家政権」からは「武神」として崇敬され、現代も「鹿島神宮」は「武道」で篤く信仰されています。

 「鹿島神宮」では80以上もの「年中行事」の中では「祭頭祭」(2013年3月6日・2012年3月2日・2011年3月6日のブログ参照)、「神幸祭」(2012年8月26日のブログ参照)、また12年に一度「午年」ごとに行われる「式年大祭御船祭」(2014年8月31日のブログ参照)が特に「有名」で、今年(2014年)の9月1日(月)には、「3日間」に渡って「御船祭」が催行されています。
 (「式年大祭御船祭」「前日」8月31日(日)午後には、「御座船清祓式」(2014年8月29日のブログ参照)が執り行われました。)

 「白馬祭(おうめさい)」は、「鹿島神宮」で行われている「神事」で、「鹿島神宮」に祀る「神様」の「お目覚め」の「祭事」です。
 「白馬祭」ですが、「新年」に「白馬」を見ると「一年間」の「邪気」を祓うといわれる「信仰」と、「皇祖」以下「祖霊」や「諸神」をまつる「祭儀」となっています。
 「白馬祭」では、「蹄」の「音」高く「鹿島神宮」「神殿」の「前」を駆け抜け、「白馬祭」が始まると「蹄」の「音」が「鹿島神宮」「境内」に響き渡るそうです。
 「白馬祭」では、「鹿島神宮」「境内」に「神馬」が疾走し、「勇壮」な「鹿島立ち」の「神事」なのだそうです。
 なお「白馬祭」ですが、「日本三大白馬祭」のひとつであり、約750年の「歴史」を持つ「祭事」です。

 「白馬祭」「当日」ですが、「時間」になりますと「鹿島神宮」「楼門」のほうから、「鹿島神宮」「拝殿」のほう(「馬」のいる「稲荷社」のほう)に「神職」が「御神馬(ごしんめ)」(白馬)を迎えに行き、「鹿島神宮」に「御神馬(ごしんめ)」(白馬)が入場します。
 「御神馬(ごしんめ)」(白馬)が入場すると「鹿島神宮」「拝殿」前の「広場」にて、「宮司」が「祝詞(のりと)」を読み上げ、「広場」では、「御神馬(ごしんめ)」(白馬)がぐるぐると歩くそうです。
 「御神馬(ごしんめ)」がくるぐると歩く際、「御神馬(ごしんめ)」が踏んだ「小石」や「ハンカチ」は、「恋愛成就」の「お守り」となるという「民間信仰」もあるそうです。
 また「白馬祭」「当日」、「鹿島神宮」から「甘酒」と「七草粥」の「振る舞い」も行われるそうです。

 「関東」を代表する「名社」「鹿島神宮」「御神馬(ごしんめ)」(白馬)を見ることで、1年の「邪気」が祓われるという「神事」「白馬祭(おうめさい)」。
 この機会に「鹿嶋市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「白馬祭(おうめさい)」詳細

 開催日時 1月7日(水) 18時〜20時

 開催会場 鹿島神宮 茨城県鹿嶋市宮中2306-1

 問合わせ 鹿島神宮社務所 0299-82-1209

 備考
 「白馬祭」では、上記のように「御神馬(ごしんめ)」(白馬)が歩くところに「ハンカチ」(小石)等を置き、「御神馬(ごしんめ)」(白馬)に踏ませるそうです。
 「白馬祭」の「馬」(白馬)に踏まれた「ハンカチ」、「小石」を持つと「心願」が叶うと伝えられており、「ハンカチ」、「小石」は、「恋愛成就」の「お守り」となる「民間信仰」もあるそうです。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=2360 |
| 地域情報::鹿島 | 05:34 PM |

PAGE TOP ↑

(C) Copyright Inubozaki Kanko Hotel. All rights reserved.