久々の日本晴れな犬吠埼。
朝から温かく春が近づいてきているような陽気です。
さて、本日ご紹介するのは、近隣市 成田市の西に位置する「印旛沼」そして近年 成田が力を入れています「成田の鰻(うなぎ)」です。
皆さんご存知の方が多いと思いますが「印旛沼」は、千葉県北西部、六市町(八千代市、佐倉市、成田市、印西市、印旛郡酒々井町、栄町)にまたがる千葉県最大の湖沼です。
「印旛沼」は、「下総台地」の「侵食谷」が地盤沈降により「溺れ谷」となり、その出口を「利根川」の運搬物(土砂など)が塞(せ)き止めて形成されたそうです。
もともとはW字型のより大きい沼であったそうですがが、戦後の干拓によって2つの細い水路で繋がった北部と西部に水域が分かれ、面積は半分以下に減少しているそうです。
詳しく説明すると「印旛沼」は、「北部調節池(北印旛沼)」(成田市、印西市、栄町隣接)と「西部調節池(西印旛沼)」(印西市、佐倉市、八千代市隣接)があり、北部と西部を「印旛捷水路(しょうすいろ)」で繋いでいます。
また「印旛沼」「北部調節池」の水は「長門川」を北に下って「利根川」に合流しているが、「印旛沼」自身の増水(内水)や「利根川」洪水(外水)での逆流入が起こるとそれまでの流出方向とは変わり、「西印旛沼」から「印旛放水路」(新川・花見川)を伝って「東京湾」へと排水されるそうです。
「印旛沼」の流域面積は487.18キロ平方メートルで、流域人口は「琵琶湖」「霞ヶ浦」に次いで日本で三番目に多いそうです。
「印旛沼」の歴史は古く中世末まで「印旛浦」と称されていました。
「縄文時代」の海面が後退していった時期に、現在の「利根川」流域あたりには大きな浅い内海「香取海(かとりのうみ)」があったそうで、「印旛沼」はその入り江のひとつの名残であったと考えられているそうです。
また「印旛沼」周辺の台地には、無数の谷が複雑に入り込む地形「谷津」が形成され、「弥生時代」になるとこの低地に「水田」が作られたようです。
また台地上には「畑」が作られ、集落が営まれましたようです。
豊かな「谷津田」と「斜面林」が織り成す美しい景観を今も「印旛沼」周辺に見ることができるようです。
「江戸時代」には「印旛沼」の洪水対策として「水路開削(すいろかいさく)」と「干拓」が試みられますが失敗(「老中 田沼意次(たぬまおきつぐ)、老中 水野忠邦とも成功せず」)、以後「昭和44年」にようやく「印旛放水路」(新川、花見川)と干拓地が完成したそうです。
そして現在、「印旛沼」の美しい自然景観を守るために、「印旛沼」隣接しているまちの皆様が、様々な取り組みが行われているようです。
現在「印旛沼」は、周囲の「農業用水」、「京葉工業地域」への「工業用水」、「千葉市」「習志野市」「船橋市」の「飲料用水」として供給されているほか、「内水面漁業」も行われ、「鯉」や「鮒」などが漁獲されているそうです。
そんな中、成田市・となりまち印西市では、昔から「印旛沼」や「利根川」の恵み「川魚」をさまざまに調理し味わってきたそうです。
先(2010年11月15日)のブログ「成田山新勝寺の歴史」や(2011年1月19日)の「長命泉」でアップしたように、「江戸時代」に「成田詣」が盛んに行われたそうです。
その参詣客をもてなすために「うなぎ料理」が振る舞われ、それから「成田の鰻」が「成田名物」になっていったようです。
そして今でも「成田山参道」の約60軒のお店で名物「成田の鰻」が味わえるようです。
「成田山参道」のほかにも市内各所に「うなぎ屋」や「川魚料理店」「佃煮店」などあり、「成田の鰻」をPRしています。
近隣市「成田市」にお立ち寄りの際は、お食事やお土産に、伝統の味「成田の鰻」をためしてみてはいかかでしょうか?
問合わせ (社)成田観光協会 0476-22-2102
備考
「印旛沼」の南側沿岸には「京成本線」が走り、「東京のベッドタウン」である佐倉市街地も近いです。
「印旛沼」東側には「成田ニュータウン」があり、北西には「千葉ニュータウン」があります。
「成田スカイアクセス」および現在工事中の「北千葉道路」が「北印旛沼」を横断しています。
その為、「印旛沼」周辺は、「東京都心」から30〜50km圈なのもあって、流域人口は72.7万人に達しているそうです。
| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=391 |
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地域情報::成田 | 10:32 AM |