本日ご案内するのは、近隣市「成田市」「宗吾霊堂」で明後日(あさって)の9月1日(土)・2日(日)に開催されます「御待夜祭」です。
「成田市」は、「関東地方」の「東部」、「千葉県」の「北部中央」の「北総台地」に位置する「市」で、「成田国際空港」や「成田山新勝寺」(2010年11月14日・15日・16日のブログ参照)などで知られており、「業務核都市(ぎょうむかくとし)」に指定されています。
「業務核都市」とは、「東京圏」における「超過密問題」の「解決」を目的として、「一極依存型」の「回避」を目的に「業務機能」を「柱」とする「諸機能」の「適正配置」の「受け皿」になるべき「都市」として、指定された「都市」を指します。
「多極分散型国土形成促進法」(1988年制定)において「制度化」されています。
「宗吾霊堂」(2010年12月23日のブログ参照)は、「宗吾様」の「名」で親しまれている「古刹」で、9月第一土・日曜日の「御待夜祭」(2011年8月31日のブログ参照)や「紫陽花」の「名所」(2011年6月11日のブログ参照)として知られ、「紫陽花まつり」(2011年6月11日・のブログ参照)も行われることで知られています。
「宗吾霊堂」の「開基」は古く、「桓武天皇」の時代に「征夷大将軍」・「坂上田村麻呂」が、「房総」を平定した時に「戦没者供養」のために建立したと言われています。
「宗吾霊堂」は、正しくは、「鳴鐘山東勝寺」といい、「真言宗豊山派」の「寺院」で、「義民」「佐倉惣五郎」(「佐倉宗吾」)の「墓」が祀られていることから「宗吾霊堂」と広くよばれています。
「成田」といえば「成田山新勝寺」が先に思い浮かぶ方もいらっしゃると思いますが、「新勝寺」は、「東勝寺」より「新しい寺」という「意味」で、この「名」がつけられているそうです。
「義民」「佐倉宗吾」ですが、江戸時代初期、「江戸幕府」4代将軍「徳川家綱」の時代、今から約360年前に、打ち続く「凶作」と過酷な「重税」に苦しむ「農民たち」を救うため、「木内惣五郎」(佐倉宗吾)ら6人の「名主たち」が「幕府」に「農民」の「窮状」を訴えました。
しかし、その「訴状」は受け入れられず、「木内惣五郎」は、当時禁じられていた「将軍」への「直訴」を決行。
この「直訴」により、「農民たち」を苦しめていた「重税」が見直され、「村々の願い」はかなえられましたが、「惣五郎」は「処刑」されることに、また「惣五郎」の「家族」までもがその「対象」となり、承応2年(1653年)8月3日
、幼い「子供ら」まで「刑」に処せられ、まさに「命懸けの直訴」であったそうです。
それから100年後、宝暦2年(1752年)、「佐倉藩」はその「失政」を悔い、「木内惣五郎」の「名誉」を回復し、「宗吾道閑居士」の「法号」を諡号(しごう)し、以来「宗吾様」と呼ばれるようになったそうです。
「宗吾霊堂」は、今では江戸時代の「義民」・「佐倉宗吾様」が祀られている「お寺」として、「全国の信者」が参拝に訪れています。
「御待夜祭」ですが、承応2年(1653年)、「刑場」の「露」と消えた「義民」・「佐倉宗吾」(木内惣五郎)の「命日」が9月3日で、「宗吾」が亡くなった後、彼を慕う人々は「前の晩」に「お籠り」をしたそうで、これが「御待夜(お逮夜)」の「始まり」だそうです。
現在では9月の第1週土・日曜日に「宗吾霊堂」の「例大祭」として「御待夜祭」が行われます。
「御待夜祭」両日中には「護摩」が3回焚かれ、「大般若経」が読まれるそうです。
「御待夜祭」「初日」には「信者」の「人々」によって「客殿」で「お籠り」が行われ、「宗吾霊堂」「境内」では「歌」や「踊り」が奉納され、「一帯」には「名物」の「露店」が所狭しとならび、「初秋」の「風物詩」となっているそうです。
「町内」一帯では、「若衆」らによって「屋体」が曳き廻されます。
また、「弓道」・「剣道」・「カラオケ大会」など様々な「イベント」も行われます。
「義民」・「佐倉宗吾」の「御霊」を慰めるための「お祭り」「宗吾霊堂」「御待夜祭」。
「御待夜祭」の行われるこの機会に「成田市」に訪れてみてはいかがでしょうか?
「宗吾霊堂」「御待夜祭」詳細
開催日時 9月1日(土)・2日(日) 10時〜22時
開催会場 宗吾霊堂 成田市宗吾1-558
問合わせ 宗吾霊堂 0476-27-3131
備考
「宗吾霊堂」は、「紫陽花」の「名所」としていますが、「紫陽花」は「成田市」の「市の花」として認定されています。
| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=1275 |
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地域情報::成田 | 04:33 PM |