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佐原の偉人「伊能忠敬」(香取市)
 日本晴れで天気の良い週末を迎えた犬吠埼。
 肌寒い陽気のせいか、立ち寄り湯でご利用のお客様が多くお見えになっています。
 なお、本日の海の様子を写メでアップしました。

 そんな中、本日ご紹介するのは、となりまち香取市佐原の偉人「伊能忠敬」です。

 「伊能忠敬」は、言わずと知れた「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」を完成させ、日本の歴史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした「江戸時代」の商人・測量家です。

 「伊能忠敬」の生涯ですが、「延享2年」(1745年)1月11日、「神保貞恒」氏の次男として「上総国山辺郡小関村」(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主「小関五郎左衛門」家で生まれました。
 (幼名は「三治郎」。)
 6才の時、母が亡くなり、婿養子だった父は兄と姉を連れ実家の「武射郡小堤村」(現・横芝光町)の「神保」家に戻りますが、「三治郎」は、祖父母の元に残り、その後生家を叔父(母の弟)が継ぎ、「三治郎」が10歳の時に父の元に引き取られたそうです。

 「宝暦12年」(1762年)18歳の時に、「下総国香取郡佐原村」(現・香取市佐原)の「伊能」家に「婿養子」に入り、以来しばらくは商人として活動していたそうです。
 「伊能」家は、「酒」、「醤油」の製造、「貸金業」を営んでいた他、「利根水運」などにも関わっていたそうです。
 商人としてかなりの才覚の持ち主であったようで、「伊能」家の再興に一役買い、「佐原の役職」を勤めた記録が残されており、かなりの財を築いたそうです。

 「寛政6年」(1794年)12月、50歳の時に、家督を長男「景敬」に譲り隠居、翌年江戸に出て、「江戸幕府」の「天文方」「高橋至時」に師事し、「測量・天文観測」などを修めたそうです。
 その際「天体観測」を利用し地球の大きさを仮定しますが、「高橋至時」に、基準とする距離の問題点(距離が短すぎ不正確)を指摘され、江戸と蝦夷地ほどの距離を元にすれば推測も可能であろうと一笑に付されたそうです。
 この事が、後に「伊能忠敬」が「測量の旅」に出るきっかけのひとつになったそうです。

 「寛政12年」(1800年)「伊能忠敬」56歳の時に、「第一次測量」を開始。
(「文化13年」(1816年)第10次測量「江戸府内」まで実施)
 幕府は、「伊能忠敬」に全国の測量をさせると共に、「薩摩藩」の偵察の意味合いも重きをおいて全国に派遣させていたとされているそうです。
 最初の測量は「蝦夷地」(現在の北海道)及びその往復の「奥州街道・蝦夷地、太平洋岸・奥州街道(北関東・東北地方)」において180日間実測。
 当時、「伊能忠敬」がその弟子であった「間宮林蔵」に依頼して行わせた測量結果を基に作図が行われたようです。

 第2次測量は、「享和元年」(1801年)「三浦半島・伊豆半島・房総半島・東北太平洋沿岸・津軽半島・奥州街道」を230日間実測。

 第3次測量は、「享和2年」(1802年)「奥州街道・山形・秋田・津軽半島・東北日本海沿岸・直江津・長野・中山道」を132日間実測。

 第4次測量は、「享和3年」(1803年)「東海道・沼津・太平洋沿岸・名古屋・敦賀・北陸沿岸・佐渡・長岡・中山道」を219日間実測。

 第5次測量「文化2年」(1805年)から「幕府直轄事業」となる。
 「東海道・紀伊半島・大阪・琵琶湖・瀬戸内海沿岸・下関・山陰沿岸・隠岐・敦賀・琵琶湖・東海道」を実測。

 第6次測量は、「文化5年」(1808年)「東海道・大阪・鳴門・高知・松山・高松・淡路島・大阪・吉野・伊勢・東海道」を実測。

 第7次測量は、「文化6年」(1809年)「中山道・岐阜・大津・山陽道・小倉・九州東海岸・鹿児島・天草・熊本・大分・小倉・萩・中国内陸部・名古屋・甲州街道」を実測。

 第8次測量は、「文化8年」(1811年)「甲府・小倉・鹿児島・屋久島・種子島・九州内陸部・長崎・壱岐・対馬・五島・中国内陸部・京都・高山・飯山・川越」を913日間実測。

 第9次測量は、「文化12年」(1815年)「伊能忠敬」は参加しませんでしたが「東海道・三島・下田・八丈島・御蔵島・三宅島・神津島・新島・利島・大島・伊豆半島東岸・八王子・熊谷・江戸」を実測。

 第10次測量は、「文化13年」(1816年)「江戸府内」を実測。
 「文化15年」(1818年)4月13日「伊能忠敬」74歳で死去するが、喪を秘して地図製作を続行し、「文政4年」(1821年)「大日本沿海輿地全図」完成し、没後3年三ヶ月後 喪を公表したそうです。

 「伊能忠敬」の測量が極めて高度なものであったことが幕府に認められ、「第5次測量」からその後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業に育っていったようです。
 「測量」の際「伊能忠敬」は、「地図投影」に必要な地球の大きさを見積もるため、江戸「深川」から「野辺地」に至る路線の測量により、「緯度1度」に相当する「子午線弧」長がおよそ「28里2分」(110.7km程度)に相当すること、またそれを元に、地球全体の外周がおよそ4万km程度であると推測したとされています。
 この値(あたい)は、現在計測されている数値と0.1%程度の誤差であり、「伊能忠敬」の測量の正確さの証左とも言えます。

 こうして作られたのが、「大日本沿海輿地全図」であり、大変精度の高い「日本地図」として評価されたそうです。
 完成したのは、「伊能忠敬」没後の「文政4年」(1821年)。
 (仕上げ作業を担当したのは「高橋至時」の子、「高橋景保」だそうです)
 「伊能忠敬」の死後、上野「源空寺」に埋葬されたそうです。
 (「源空寺」には、「高橋至時」・「高橋景保」・「伊能忠敬」の「大日本沿海輿地全図組三人頭」の墓が並んでいるそうです。)
 また「伊能忠敬」は、佐原「観福寺」にも「遺髪」をおさめた「参り墓」があります。

 ちなみに「伊能忠敬」死後の「文政11年」(1828年)、「シーボルト」がこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した「日本の蘭学者」(「高橋至時」の息子「高橋景保」ら)などが処罰されたそうです。
 (シーボルト事件)
 なお「シーボルト」が国外に持ち出した「伊能図」の写本は、日本に開国を迫った「ペリー提督」も持参していたそうです。
 「ペリー提督」は「伊能図」を単なる「見取図」だと思っていたそうですが、「日本の海岸線」を測量してみた結果、きちんと測量した地図だと知り、驚愕したと言われています。

 また「伊能忠敬」は、生前「高橋至時」の弟子になってからは寝る間を惜しみ、「天体観測」や「測量」の勉強をしていたため「推歩先生」(「推歩」とは「暦学」のこと)と言うあだ名で呼ばれていたそうです。
 「天体観測」も詳しい「伊能忠敬」は、日本で初めて「金星」の「子午線」経過を観測した人物なのだそうです。
 晩年の「伊能忠敬」は、「江戸」の「深川」界隈に住居を構え、「全国測量の旅」に出かける際は、安全祈願のために「富岡八幡宮」に必ずお参りに来ていたそうです。
 そのことから、2001年に「富岡八幡宮」境内に「伊能忠敬」の銅像が建てられているそうです。

 香取市佐原には今も「伊能忠敬」が暮らした町並みが残っています。
 佐原の偉人「伊能忠敬」の息遣いを感じに「佐原」にお出かけしてみませんか?

 備考
 「伊能忠敬」の地元「香取市佐原」では、親しみと尊敬の念をこめて「いのうちゅうけい」さんや「ちゅうけい」さんと呼ばれているそうです。





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| 地域情報::香取 | 12:03 PM |

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