本日ご案内するのは、となりまち「香取市」「香取神宮」で4月1日(土)・2日(日)に開催されます「御田植祭(オタウエサイ)」です。
「香取神宮」(2010年11月5日・6日のブログ参照)は、「香取市」「香取」に鎮座する「日本屈指」の「神宮」で、「式内社」(名神大社)、「下総国一宮」、「旧社格」は「官幣大社」で、現在は「神社本庁」の「別表神社」です。
「香取神宮」は、「関東地方」を中心として「全国」に約400社ある「香取神社」の「総本社」であり、「鹿嶋市」に鎮座する「鹿島神宮」(2010年11月8日・9日・10日のブログ参照)、「神栖市」に鎮座する「息栖神社(イキスジンジャ)」(2010年11月7日のブログ参照)とともに「東国三社」(2010年10月23日のブログ参照)の一社であり、「宮中」の「四方拝」で遥拝される一社です。
また、平安時代に成立した「延喜式」によりますと、江戸時代以前から「神宮」と称されていたのは、「伊勢神宮」・「鹿島神宮」・「香取神宮」の三社だけで、その「創建」は「神武天皇」「十八年」(紀元前643年)と神代の時代まで遡(サカノボ)る古い「歴史」のある「神社」です。
「香取市」は「香取神宮」とともに「歴史」を歩み、数千年以上もの昔から「人々」の「崇敬」を集め、時には「地域」の「守護的」な「役割」を担ってきました。
また「香取神宮」は、古来より「軍神」としての性格が強く、「テレビ」などで良く目にするように「武術」の「道場」には「鹿島大明神」、「香取大明神」と書かれた二軸の「掛軸」が対になって掲げられています。
「香取神宮」の「創建」ですが、上述の「神武天皇」の「御代18年」と伝えられ、「香取神宮」の「御祭神」ですが、「日本書紀」の「国譲り神話」に登場する「建国の神」である、「鹿島神宮」の「御祭神」「武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)」とともに活躍した「神様」「経津主大神(フツヌシノオオカミ)」です。
「香取神宮」の約37000坪ある「境内」には、「本殿」、「幣殿」、「拝殿」、「祈祷殿」、「楼門」、「宝物館」、「神徳館」、「弓道場」、「社務所」等があります。
中でも「香取神宮」「本殿」・「中殿」・「拝殿」が連なる「権現造」の「社殿」は、「鹿皮」のような「色」をした「桧皮葺」の「屋根」に「黒塗り」の「姿」が実に美しい「建造物」となっています。
現在の主(オモ)な「香取神宮」「社殿」は、江戸時代の元禄13年(1700年)、「江戸幕府」「五代将軍」「徳川綱吉」公の「命」により造営されたもので、この時に「本殿」・「拝殿」・「楼門」が整えられましたが、うち「拝殿」は昭和11年(1936年)から昭和15年(1940年)の「大修築」に伴って改築がなされ、現在では「祈祷殿」として使用されています。
この「昭和の大修築」では、「幣殿」・「神饌所」も造営され、「主要社殿」の「形式」は、「大修築」前後とも「本殿」・「幣殿」・「拝殿」が連なった「権現造」となっており、「本殿」・「楼門」は「国」の「重要文化財」に、「旧・拝殿」(現・祈祷殿)は「千葉県指定文化財」に指定されており、「現・拝殿」は「国」の「登録有形文化財」に登録されています。
「香取神宮」「本殿」は、上述のように元禄13年(1700年)の「造営」、「三間社流造」、「檜皮葺」で、南面しており、この形式の「社殿」としては「最大級の規模」となっています。
「本殿」は、前面の「庇(ヒサシ)部分」を「室内」に取り込んでおり、背面にも短い「庇」を有しており、「重要文化財」指定時の「名称」では「流造」と記されていますが、背面に「庇」を有することから「両流造」の一種とする見方もあります。
「本殿」の「壁」や、「柱」は「黒漆塗」で、「黒」を基調とした特色的な「外観」であり、「屋根」は現在「黒皮葺」ですが、かつては「柿葺」であったとされています。
「本殿」の「様式」は近世前期を象徴するもので、「桃山様式」が各部に見られる一方、慶長期の手法も取り入れられており、「昭和の大修築」に際しては、「本殿」にも大規模な「修繕」が行われました。
この「本殿」に関しては、かつて「神宮」に存在した「アサメ殿」という「社殿」を継承すると見られているほか、通常の「両流造」では「本殿内」の「神座」が「身舎」(大梁の架かる建築構造上の主体部)に設けられているのに対して、「背面庇」(身舎の周囲に取り付く部分)にあるという異例の「形式」が指摘されています。
「拝殿」・「幣殿」・「神饌所」は、「昭和の大修築」による造営、「木造平屋建て」、「檜皮葺」で、「本殿」正面には「千鳥破風」が設けられ、それまでの「拝殿」(旧・拝殿)は「丹塗」でありましたが、この「造営」において「黒漆塗」、「組物」・「蟇股」には「極彩色」が施され、「本殿」に釣り合った体裁に改められたそうです。
「香取神宮」「楼門」は、元禄13年(1700年)の「造営」、「三間一戸」、「入母屋造」、「屋根」は現在「銅板葺」ですが、当初は「挧葺(トチブキ)」であったそうです。
「楼門」は、「順和様」の「様式」であり、「壁」や、「柱」は「丹塗」、「楼門」内にある「随身像」は俗に「左大臣」・「右大臣」と称されますが、正面向かって「右像」は「武内宿禰(タケウチノスクネ)」、「左像」は「藤原鎌足(フジワラノカマタリ)」と伝えられています。
また、「楼門」の「楼上」の「額」は「東郷平八郎」の「筆」だそうで、この「楼門」は、「香取神宮」の「シンボル的」な「建物」に位置付けられています。
「祈祷殿」(旧・拝殿)は、元禄13年(1700年)の「造営」、「拝殿」として造営、使用されていましたが、「昭和の大修築」に伴って「南東」に移築され、昭和59年(1984年)にさらに「西」へ1.5mほど移動し、「間口五間」、「奥行三間」、「入母屋造」となっています。
「祈祷殿」の「屋根」は現在「銅板葺」ですが、当初は「挧葺」で、昭和40年(1965年)に改められています。
「祈祷殿」の「壁」や、「柱」は「丹塗」で、「拝殿」としては比較的大規模なもので、「彫刻」等の随所に「造営時」の「様式」が示されています。
「香取神宮」「境内」には、「摂社」、「末社」が多く祀られており、「摂社鹿島新宮」、「摂社奥宮」、「摂社匝瑳神社」、「末社六所神社」、「末社桜大刀自神社」、「末社裂々神社」、「末社市神社」、「天降神社」、「末社馬場殿神社」、「末社日神社」、「末社月神社」、「末社押手神社」、「末社璽神社」、「末社大山祇神社」、「末社諏訪神社」等を祀っており、「香取神宮」「参道」「左手」に「香取護国神社」(2013年9月25日のブログ参照)が祀ってあります。
「香取神宮」は、「香取の森」と呼ばれる12万3千平方mに及ぶ広大な「山林」の中にあり、「香取の森」は荘厳で「霊気」に満ちた「神秘さ」を深めた「空間」が広がっており、正に「神域」であることを感じることができる「パワースポット」となっています。
「香取神宮」の「社叢林」は3.5ha(ヘクタール)、古くから「神宮の森」として古くから「信仰の場」として「大切」に保護されてきたため、「目通り幹囲鉾(幹周)」3mを越える「スギ」をはじめ、「イヌマキ」・「モミ」等の「巨木」が林立しており、「落葉」に埋もれた「古道」や「古井戸」は往時の「景観」を偲ばせ、「香取の森」は昭和49年(1974年)に「千葉県」の「県指定天然記念物」に指定されています。
「香取の森」、「香取神宮」の位置する「山」(森)は、その「形状」(森の全景)が「亀」に似ていることから、「亀甲山(キッコウサン)・(カメガセヤマ)」とも呼ばれて(称されて)います。
「御田植祭」は、「寺社」や「皇室」の「領田」で行われる「行事」であり、「稲作」の「成功」をあらかじめ祝う「予祝」の「神事」及び「芸能」です。
「新春」の「予祝行事」として行われるものと、「田植え」の「時期」に行われる場合とがありますが、どちらも「農作業」の「行程」を模擬的に演じ、「豊作」を祈念するものです。
「日本人」と「稲作」との、長く深い「係わり」を示すものとして、「日本全国」に、この種の「行事」が伝承され、それを行うための「組織」も「地域」によって異なりますが、「収穫」までの「全生産過程」を演じる例は少なく、「田植」で終わる、いわゆる「御田植祭」が多いといわれています。
苦しい「田植え」の「作業」を楽しくしようとする「方法」として、「田植歌」を歌いながら、「田植え」をするという「風習」があり、「田の神」を祀って「豊穣」を願う「農耕儀礼」と結びつき、「祭礼」となったのが「起源」とされますが、「歴史的」には「権門」による「勧農」があり、その「模倣」や展開の結果として、多くの「地域」で行われるようになったともいわれています。
このようなことから、「地域」を代表する古くからの「寺社」の「年中行事」として伝えられている場合が多く、いずれも「農作業」の「行程」を「模擬的」に演ずることが中心ではありますが、それぞれの「地域」ごとに様々な「芸能」の「要素」が伝えられ、特徴ある「行事」が伝承されています。
「香取神宮」「御田植祭」(以下「御田植祭」と表記)ですが、その年の「五穀豊穣」を祈る「香取神宮」の「祭事」で、「通称」「かとりまち」ともいわれる「祭事」で、「大阪」の「住吉大社」の「御田植神事(オタウエシンジ)」、「三重」(志摩)の「伊雑宮(イザワノミヤ)」の「磯部の御神田(イソベノオミタ)」とならび、「日本三大御田植祭」のひとつに数えられています。
ちなみに「伊雑宮」ですが、「伊勢神宮」の「別宮」で、「磯部の御神田」ですが、毎年6月に行われる「神事」で、「磯部の御神田」と「住吉大社」の「御田植神事」は、「国指定重要無形文化財」に指定されています。
「御田植祭」ですが、「史料」によると、明徳2年(1391年)には、既に行われていたと記載され、それ以前から行われていたといわれています。
「御田植祭」は、4月の「第1土曜日」、「第1日曜日」に行われ、1日目(初日)の「耕田式」と、2日目の「田植式」からなる「祭事」(神事)が行われています。
「御田植祭」1日目(初日)は、「香取神宮」「拝殿」前で「耕田式」が行われます。
「耕田式」ですが、「苗長」を「先頭」に、「牛方」が「五色絹」に彩られた「牛」の「耕機」をつけて牽き、その後ろから「緋」の「袴」をつけ、「鎌(カマ)」を手にした「少女」、「直垂(ヒタタレ)」を着け、「鋤(スキ)」を手にした「男」、同じく「鍬(クワ)」を持った「男」、そして「白衣緋袴」に「模様」の入った「襷(タスキ)」をかけ、背に「花笠」を背負った「田舞」の「少女」8人、「華傘」をさしかけられ肩車された「早乙女役」の「稚児」8人が、「庭上」に入るそうです。
「鎌入れ」の「所作」、「鋤入れ」・「鍬入れ」の「所作」に続き、「牛」により「代掻き」が行われ、「少女」8人が「苗長」から受け取った「早苗」を手に「田舞」をし、「年配者」の「早乙女手代」による「田植え」の「所作」をもって「耕田式」は終わるそうです。
「御田植祭」2日目では、1日目(初日)と同様、「香取神宮」「拝殿」前にて「露払」・「鎌取」・「老姥」や「華傘」の「稚児」が「庭上」へ進み、「少女」の「田舞」の後、「田植え歌」によって「早乙女手代」が「田植え」の「所作」を行うそうです。
「香取神宮」「拝殿」前の「神事」が終わると「参道」から「斎田」(御神田)へと向かい、「献餞」、「祝詞(ノリト)奏上」などの「神事」が執り行われた後、「早乙女手代」が「田植え歌」を唄いながら、「斎田」(御神田)の「田植え」をするそうです。
今年(2017年)の「五穀豊穣」を祈念する「御田植祭」ですが、例年通り、「初日」の4月1日(土)は、「香取神宮」「本殿」前にて「耕田式」を、2日目の4月2日(日)は「香取神宮」「本殿」前での「儀式」の後、「斎田」(御神田)に向かい、「田植式」を斎行するそうです。
「御田植祭」が終了しますと、「香取地方」では「本格的」な「田植え」が始まるそうです。
「日本屈指」の「名社」「香取神宮」で斎行される「日本三大御田植祭」のひとつに数えられる「祭事」「御田植祭」。
この機会に「香取市」に訪れてみてはいかがでしょうか?
「御田植祭」詳細
開催日時 4月1日(土) 13時〜
4月2日(日) 13時〜
開催会場 香取神宮 香取市香取1697
問合わせ 香取神宮 0478-57-3211
備考
「御田植祭」ですが、「午年」の「式年祭」の年だけは、「日曜日」の1日のみ斎行となっており、2014年(平成26年)は1日のみ斎行されました。