本日ご案内するのは、近隣市「四街道市」「和良比皇産霊神社(ワラビムスビジンジャ)」で2月25日(土)に開催されます「和良比はだか祭り(ワラビハダカマツリ)」です。
「千葉県」「北部」に位置し、「県庁所在地」「千葉市」に隣接する「四街道市」は、「東京都心」へも40km圏内にあり、「首都圏」の「ベットタウン」として発達してきました。
「東西南北」、四つの「街道」が交わっていることから「四街道」の「市」の「名前」のとおり、「人」と「情報」と「産物」の「交流地」でもある「四街道市」ですが、江戸時代には「佐倉藩」の「領内」で、「幕末」の「藩主」は「老中」・「堀田正睦」だったそうです。
「堀田正睦」ですが、江戸時代末期の「大名」・「老中首座」で、「下総佐倉藩」の「第5代藩主」であり、「正俊系」「堀田家」「9代」です。
「堀田正睦」の「経歴」は、下記の通りです。
文政8年(1825年)3月 家督相続。従五位下・相模守に叙任。
文政12年(1829年)4月12日 幕府の奏者番となる。
天保5年(1834年)8月8日 寺社奉行を兼帯し、備中守に遷任。
(先任同役に土屋相模守彦直がおり、同役同士が同じ官職に任官しない内規により、遷任)
天保8年(1837年)5月16日 大阪城代に異動し、従四位下に昇叙。備中守如元。
天保8年(1837年)7月9日 大納言(徳川家祥=後の家定)付老中に異動。侍従を兼任。
天保12年(1841年)3月23日 本丸老中に異動。
天保14年(1843年)閏9月8日 老中御役御免。溜間詰格となる。
安政2年(1855年)10月9日 老中再任。老中首座となる。勝手入用掛を兼帯。
安政3年(1856年)10月17日 外国御用取扱兼帯。
安政3年(1856年)月日不詳 名を正睦と改める。
安政5年(1858年)1月8日 幕府使者となり上洛。
安政5年(1858年)4月20日 帰府。
安政5年(1858年)6月1日 養君(世継ぎ徳川慶福=後の家茂)御用。
安政5年(1858年)6月23日 老中御役御免。帝鑑間席となる。
大正4年(1915年)11月10日 贈従三位。
「堀田正睦」の「学問」に関する「特徴」は、「知識」の「コレクション」ではなく「体系的」な「学問」を志向した「結果」として、幕末と明治に「有為」の「人材」を育成した点にあります。
「手塚律蔵」を招いて「日本」で初めて「英語」の「体系的」な「研究」を始めさせたこともそのひとつであり、「堀田」〜「手塚」「人脈」からは「西周」、「神田孝平」、「津田仙」、「内田正雄」、「大築尚忠」、「三宅秀」といった「人物」が輩出され、また「佐倉藩」「人脈」は安政年間の「蝦夷地調査」、明治の「沼津兵学校」「教授陣」等「多方面」に関わっていったそうで、「木戸孝充」も一時期は「手塚門下」であったそうです。
上述のように「堀田正睦」は、「蘭学」、「学問」を推奨したため、「四街道市」の「旧跡」にも「名残」があるそうです。
「四街道市」は、上記のように「都心」から40km圏内、「県庁所在地」「千葉市」「中心部」からも8kmと「利便性」の高い「立地条件」である事から、「JR四街道駅」周辺や「マンション」や「住宅地」が立ち並び、「首都圏」の「ベットタウン」として発展しており、また、「再開発」の進む「四街道駅」「南口」からは、228基もの「ガス灯」が立ち並び、「長さ」も約2300mと「日本一」の「長さ」を誇るそうです。
一方、「四街道市」では、「梨」、「落花生」などの「生産」が盛んな「近郊農業地帯」でもあります。
「四街道市」ですが、上記のように「千葉県」「中北部」の「内陸」に位置し、「下総台地」(北総台地)(2012年7月10日のブログ参照)の「南」に位置する「自治体」で、「南」と「西」に「千葉県」の「県庁所在地」「千葉市」(花見川区、稲毛区、若葉区)、「北」と「東」に「佐倉市」が隣接しており、「四街道市」の「市」の「東縁」を「利根川水系」の「鹿島川」が「印旛沼」(2011年2月3日のブログ参照)へと「北流」しています。
「四街道市」の「市」の「中央部南方」を「JR総武本線」が「南東」から「北西」に、「四街道市」の「中央部北方」を「東関東自動車道」が「東西」に走っており、「四街道市」の「中央部南方」に「四街道駅」が、「四街道市」の「北東部」に「物井駅」と「東関東自動車道」の「四街道IC(よつかいどうインターチェンジ)」があり、「四街道市」の「南部」を「国道51号線」が「南東」から「北西」に走っており、「吉岡交差点」は、「交通情報」の「渋滞情報」でよく登場するそうです。
「四街道市」の「市域」「大半」は「印旛沼」「南側流域」の低い「台地」となっており、「樹枝状」の「谷津田」が多数切れ込んでいるそうです。
「四街道市」の「主要」な「谷津田」は、「東部」から「南部」の「鹿島川」とその「支川」、「中央部」の「手繰川」「源流」、「西北部」の「勝田川」「支川」となっており、「西部」のごく一部が、「津川水系」「葭川(ヨシカワ)」の「流域」となっています。
「四街道市」「全体」として「印旛沼」へ流れ込む「河川」に沿った、「南」が高く「北」が低い「微傾斜」となっており、「四街道市」の「最低標高点」は、「最北端」の「鹿島川」へ「小河川」が流れ込む「合流点」で、約5m、「四街道市」の「最高標高点」は、「最南部」の「吉岡新開」の「御成街道」付近で、40m強となっています。
「四街道市」の「市名」の「由来」ですが、「四街道駅」から「西」に500mほどの「場所」(現在の「四街道十字路」)に、「北 成田山道」、「南 千葉町道」、「東 東宇がね(東金)道、馬渡道」、「西 東京、船橋道」という「名」がついたそうです。
(「和良比地区」に「字・四海道」も存在します。)
ちなみに近くには「御成街道」や「千葉街道」、「成田街道」や「佐倉街道」(年貢道)がありますが、「成田街道」と「佐倉街道」が交わるのは「佐倉城下」であり、これらの「街道」は、「四街道」の「地名」とは直接関係がないそうです。
「和良比皇産霊神社(ワラビムスビジンジャ)」ですが、「四街道市」「和良比地区」に鎮座する「神社」で、「和良比皇産霊神社」の「御祭神」ですが、「高皇産霊大神(タカミムスビノオオカミ)」が祀られています。
「和良比皇産霊神社」は、「JR四街道駅」の「南」1km程の辺り、「千葉郊外」の「住宅地」の「外れ」に鎮座しています。
「和良比皇産霊神社」は、「和良比どろんこ祭り」が行われていることでも知られている「神社」ですが、もともとは「大六天」が祀られていた「和良比大六天社」であったそうです。
古くに勧請されたといわれている「和良比大六天社」の他に「建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)」と、「高皇産霊大神」が祀られていたそうです。
江戸時代、「和良比皇産霊神社」は、もとは「西」に数百m離れた「字御屋敷」という「場所」に鎮座していたそうで、そこは「神仏習合」の「地」で、同じ「建物」の「半分」が「真言宗豊山派」の「吉祥院」(創建年不明)という「寺院」、残りの「半分」が「皇産霊神社(ミムスビジンジャ)」となっていたそうです。
明治時代の「神仏分離令」により、「真言宗豊山派」「吉祥院」と、「皇産霊神社」を分離、「皇産霊神社」を「大六天社」に合祀し、現在に至るかたちとなっていったそうです。
その結果、「字御屋敷」には「真言宗豊山派」「吉祥院」、「字中山」には「皇産霊神社」が、鎮座するかたちになり、現在でも、その名残として、「和良比皇産霊神社」「社殿」に掲げられている「額」には、「大六天」とあります。
「和良比はだか祭り」ですが、「和良比皇産霊神社」と、「神社」「隣」の「和良比ヶ丘公園」内「神田(シンデン)」で行われる「神事」・「伝統行事」です。
「和良比はだか祭り」の「原型」ですが、明治初年に「真言宗豊山派」「吉祥院」から「和良比皇産霊神社」が遷宮する際に執り行われた「まつり」とされており、古くは「和良比皇産霊神社」に合祀されている「厄除神」として「信仰」の篤い「大六天」の「まつり」であったそうで、「御遷宮」の際に「御手洗池(ミタラシイケ)」(神田)で水ごりした「習慣」が「はじまり」といわれています。
現在「和良比はだか祭り」は、「子供」の「無病息災」、「五穀豊穣」を祈る「まつり」として行われています。
「和良比はだか祭り」ですが、「和良比皇産霊神社」で執り行われる「神事」には、「一般」の「参加」はできないそうですが、「和良比皇産霊神社」「隣」「和良比ヶ丘公園」内「神田」で行われる「幼児祭礼」、「泥投げ」、「騎馬戦」は、「一般」の「参加」もできるそうです。
「和良比はだか祭り」は、上記のように「五穀豊穣」と、「厄除け」を祈る「和良比皇産霊神社」の「伝統行事」で、「通称」「どろんこ祭り」として広く知られています。
「和良比はだか祭り」「当日」ですが、「豊作」を祈願する「神事」で始まり、「裸衆祭礼」、「神田」(または「御手洗池」)で、「しめ縄」の「わら」を「稲」に見立て「田植え」をするそうです。
「和良比はだか祭り」の「神事」では、30〜40人の「締め込み」の「裸衆」が身を清めた後、上記のように「和良比皇産霊神社」「社殿」の「注連縄(シメナワ)」の「わら」を「稲」に見立てて、「神社」の下にある「神田」で、「田植え」を行い「豊作」を祈ります。
続いて「和良比はだか祭り」では、「幼児祭礼」、「騎馬戦」、「泥投げ」と続き、「通称」「どろんこ祭り」の「名称」の通り、「泥だらけ」の「お祭り」となるそうです。
「幼児祭礼」ですが、「子ども参り」となっており、この日に備えて着飾った「満1歳未満」の「赤ん坊」(幼児)を抱え、「神田」にて「額(ヒタイ)」に「泥」を塗るそうで、「赤ん坊」(幼児)の「額」に塗ってもらうことで「厄除け」になると伝えられています。
「幼児祭礼」で「赤ん坊」(幼児)への「祝福」が終わると、「裸衆」に「御神酒(オミキ)」が振る舞われ、「和良比はだか祭り」は、いよいよ「メインイベント」ヘ、「騎馬戦」に続いて「壮絶」な「泥合戦」を3回繰り広げるそうです。
「和良比はだか祭り」の「泥合戦」(泥投げ)の「合間」には、「和良比皇産霊神社」「境内」で「焚き火」を囲み「裸衆」が「暖(ダン)」をとり、さらに「酒」(御神酒)が入るそうです。
「暖」をとり、「酒」の「勢い」もあることから、「和良比皇産霊神社」に「裸衆」の「熱気」があふれ、3回行われる「壮絶」な「最終戦」(最終合戦)ですが、「酔い」も手伝い、激しい「泥」の「投げ合い」が行われるそうです。
「和良比はだか祭り」では、参加している「ふんどし姿」の「裸衆」が「泥まみれ」になるばかりでなく、「裸衆」にも「泥」が飛んでくる「迫力」がある「まつり」で、最後は、「神社総代」(神職)の「胴上げ」を行い、「和良比はだか祭り」はお開きとなるそうです。
「和良比はだか祭り」「日程」は、下記の通りです。
開催日 毎年2月25日
開催時間 13時00分頃〜15時00分頃
当日次第
時間 内容
11時00分〜 祭礼(神事・氏子のみ)
(見学不可)
13時00分〜 裸衆祭礼(お祓い)、幼児祭礼(子ども参り)、泥投げ・騎馬戦、総代胴上げ
(一般見学可)
15時00分頃 終了
「和良比地区」の「産土神」「和良比皇産霊神社」で開催される「神事」・「伝統行事」「和良比はだか祭り」。
この機会に「四街道市」に訪れてみてはいかがでしょうか?
「和良比はだか祭り」詳細
開催日時 2月25日(土) 13時〜
開催会場 和良比皇産霊神社 四街道市和良比692
問合わせ 四街道市産業振興課 043-421-6134
備考
「四街道市」ですが、その名の通り、四つの「街道」、「東」・「東金道」・「馬渡道」、「西」・「船橋道」、「南」・「千葉町道」、「北」・「成田山道」が交わる「場所」であり、「人」、「物」、「情報」の「交流地」でもあり、「JR四街道駅」から「南西」へ500m程行(イ)った「四街道十字路」の「傍ら」には、「駒形方面」の「道標石塔」が立っているそうです。