本日ご紹介するのは、昨日(11月8日)のブログでアップした「鹿島神宮」の見所です。
見所は多く順をおって案内して参ります。
最初に案内するのは「一の鳥居・大鳥居」です。
「鹿島神宮」の正面の大きな石の鳥居は別名「二の鳥居」と呼ばれています。 「一の鳥居」は、北浦湖畔の大船津に立っています。
こちらに立つ理由は、「鹿島神宮」が漁業・港湾・船舶関係にご縁が深いためと伝えられています。
「鳥居」伝説に、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天石窟(あまのいわや)にかくれたときに、常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり・ニワトリ)を止まり木に止まらせて、鳴かせたことがあった。この止まり木が「鳥居」となったといわれているようです。
つづいての案内は、朱塗りの「楼門」です。
寛永11年(1634年)に水戸初代藩主の徳川頼房(よりふさ)公が奉納されました。
頼房公は水戸黄門光圀(みつくに)公の父親です。 なお、「鹿島神宮」の「桜門」は「日本三大桜門」に数えられています。
また、「本宮」の社殿ですが、本殿・拝殿・石間(いしのま)・幣殿の4つの棟からできています。
現在の社殿は、江戸幕府・二代将軍の徳川秀忠公が、元和5年に奉納されたものです。
「奥宮(おくのみや)」は江戸幕府の初代将軍徳川家康公が奉納されました。
神門より300mのところにあり、慶長10年(1605年)に本殿として奉納された。
元和5年の造営の際に場所を移し、「奥宮」とされました。
「御手洗池」(みたらしのいけ)ですが、誰が入っても同じ深さになる池と言い伝えられています。
また干魃(かんばつ)にも耐えることがない霊泉としても有名です。
そして最後に「鹿島神宮」の見所をふたつをご案内します。
ひとつめは、皆さん御存知の方も多いと思いますが、「要石(かなめいし)」です。
「鹿島神宮」の「要石」は地震を起こす地底の大鯰(おおなまず)の頭を押さえているので、鹿島地方では、大きな地震がないと伝えられています。
「要石」は見かけは小さいように見えますが、実は地中深くまで続いている巨岩なのだそうです。つまり地上の部分は氷山の一角なのです。
「要石」について逸話があるので紹介します。
水戸の徳川光圀公が、「要石」の根本を確かめようと、七日七晩この石の周りを掘りました。
しかし、掘れども掘れども、掘った翌日の朝には元に戻ってしまい、確かめることができませんでした。
さらに、作業中に怪我人も続出した為に掘ることを諦めた。と言う話が「黄門仁徳録」に残っています。
ふたつめは、「鹿園(ろくえん)」についてです。 「鹿園」は神様のお使いとして親しまれている鹿がいる場所。神門から120mの場所にあり、30数頭の日本鹿がいます。
「鹿島神宮」のお使いはなぜ鹿なのか?
神話の「国譲り」の中で、鹿島の御祭神である「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」のところへ、大国主命(おおくにぬしのみこと)から、葦原中国(あしはらのなかつくに)を譲り受けるようにとの、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の命令が下りました。
その命令を伝えに来たのが、天迦久神(あめのかくのかみ)と言う神様です。 天迦久神は、「鹿の神様」とされているところから、「鹿島神宮」のお使いが鹿であると伝えられています。
また、奈良の「春日大社」の創建に際し、767年(神護景雲元年)に、白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良まで行ったとされています。
ちなみに、英語で鹿の枝角をアントラー(antrler)と言い、プロサッカーのJリーグの「鹿島アントラーズ」のチーム名の由来ともなっています。
非常に興味深く馴染みのある逸話、神話が多く残る「鹿島神宮」。
是非立ち寄りたいパワースポットです。
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地域情報::鹿島 | 09:52 AM |