本日ご案内するのは、となりまち「東庄町」「東大社」で10月19日(日)に開催されます「東大社流鏑馬神事〜古式、ゆかしき、やぶさめ神事〜」です。
「東大社」(2011年4月24日のブログ参照)は、「香取郡」「東庄町」に鎮座する「神社」で、「旧社格」は「県社」、「御祭神」ですが、「主祭神」が「玉依姫尊(たまよりびめのみこと)」、「鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)」を配祀しています。
ちなみに「玉依姫尊」ですが、「綿津見大神(わたつみのおおかみ)」(海神)の「子」で「豊玉姫」の「妹」、「鵜葺草葺不合尊」も「豊玉姫」の「子」であり、「玉依姫尊」の「夫」です。
「東大社」の「由緒」ですが、「景行天皇」が「東国巡幸」の折に、「春臣命」に命じて「一社」を造営、「玉依姫尊」を祀って「東海の鎮護」をしたことが「はじまり」であるといわれています。
以来「東大社」は「歴代天皇」の「崇敬」が篤く、康和4年(1102年)に「堀川天皇」より「総社玉子大明神」又は「王子大明神」2つの「称号」を受け、享徳3年(1454年)には「後花園天皇」から「勅額」が贈られています。
「東大社」では、「歴代天皇」のほか、寿永3年(1184年)「源頼朝」が「御厨一処」を寄進し、「徳川家康」も天正19年(1591年)に「神領」10石を寄進したそうです。
また「東大社」は「下海上」の「総社」として「東荘」(別称「橘荘」、中世「下総国」「海上郡」の「荘園」)の「総氏神」として「遠近」の「信仰」が篤く、特に「東氏」は「社殿」を造営し、あるいは「神領」を奉納するなど「代々」崇奉したそうです。
「東大社」は、応永2年(1395年)に「東左馬助胤家」が「社殿」を造営、現在の「社殿」ですが、「本殿」は文政9年(1826年)に、「拝殿」は文政10年(1827年)に再建されたもので、「東大社」は、明治6年(1873年)「郷社」に列し、大正8年(1919年)には「県社」に列しています。
「東大社」の「行事」(神事)ですが、20年毎(ごと)に行われ、康和4年(1102年)より始まったといわれている「銚子」「高神の浦」へ「行幸」する「式年三社銚子大神幸祭」(2012年4月12日のブログ参照)があります。
「式年三社銚子大神幸祭」には、「雷神社(らいじんじゃ)」(2011年9月19日のブログ参照)、「豊玉姫神社」(2012年1月9日のブログ参照)の「神輿」を前後に従え、かつての「東荘33郷」より集まった「氏子」は「時代風俗」の「仮装」にて「所作」を演じつつ「供奉」します。
かくて「神輿」は「六里」の「沿道」の「奉迎」をうけつつ「高神」の「海中」に「神幸」し、その「儀」は「勇壮盛大」なのだそうです。
「東大社」では、その他「秋の例祭」として10月20日に「流鏑馬神事」(2013年10月19日・2012年10月18日・2011年10月18日のブログ参照)を執り行っています。
「流鏑馬」とは、疾走する「馬上」から「的」に「鏑矢(かぶらや)」を射る「日本」の「伝統的」な「騎射」の「技術」・「稽古」・「儀式」のことをいいます。
「流鏑馬」では「馬」を馳せながら「矢」を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、「時代」が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれています。
「流鏑馬」を含む「弓馬礼法」は、896年(寛平8年)に「宇多天皇」が「源能有」に命じて制定され、また「右中記」の永長元年(1096年)の「項」などに記されているように、「馬上」における「実践的弓術」のひとつとして平安時代から存在しました。
「関白」「藤原忠通」によって「春日大社」「若宮」の「社殿」が改築され、保延2年(1136年)3月4日「春日」に詣で、「若宮」の「社参」(中右記・祐賢記文永10・2・26条)し、9月17日始めて「春日若宮おん祭」を行い、「大和武士」によって今日まで「流鏑馬十騎」が奉納され続けてきました。
(右中記・一代要記)
「吾妻鏡」には、「源頼朝」が「西行」に「流鏑馬」の「教え」を受け復活させたと記されています。
鎌倉時代には「秀郷流」と呼ばれる「技法」も存在し、「武士」の「嗜み(たしな)」として、また「幕府」の「行事」に組み込まれたことも含めて盛んに「稽古」・「実演」され、「北条時政」の執権時代までに、「鶴岡八幡宮」では47回の「流鏑馬」が納められたとされています。
しかし、「個人」の「武勇」に頼っていた時代から、「兵法」や「兵器」が進化して「足軽」や「鉄砲」による「集団戦闘」の時代である室町時代・安土桃山時代と、時が経つに従い、一時廃れてしまったそうです。
江戸時代に入り、享保9年(1724年)、時の「将軍」「徳川吉宗」の「命」を受けた「小笠原流」20代「小笠原貞政」は、「小笠原の伝書」を研究し新たな「流鏑馬制定」、「古式」と共に奥勤めの「武士達」に「流鏑馬」、「笠懸」の「稽古」をつけました。
享保13年(1728年)、「徳川家重」の「世嗣ぎ」のために「疱瘡治療祈願」として「穴八幡宮」北の「高田馬場」(現在の「東京都」「新宿区」「西早稲田三丁目」)にて「流鏑馬」を執り行い、これを奉納したそうです。
(この10年後、無事疱瘡治療祈願成就した折に報賓として再び行われ、その様子を絵巻にしたものが「流鏑馬絵巻」です。)
この後、「将軍家」の「厄除け」、「誕生祈願」の際などに度々「流鏑馬」が行われるようになったそうです。
明治維新を経て「幕府解体」、また「第二次世界大戦」と以後の煽りを受けるなど「三度」の「衰退」を見ますが、「戦後」に復興し、現在に至ります。
現在、「流鏑馬」は「神社」の「神事」として、「日本各地」で盛んに行われ、「観光」の「目玉」となっています。
「東大社流鏑馬神事〜古式、ゆかしき、やぶさめ神事〜」ですが、今から約900年前から始まったと伝えられ、昔は「鎧(よろい)」、「直垂(ひたたれ)」を着けた「射手」が「乗馬」のまま「紅白の矢」を放ち、「奏楽」のうちに「東大社」「社殿」を一周、さらに「第二番」以下の「御的」に向かって「矢」を放つ「勇壮」な「神事」で、毎年10月20日に行われています。
「東大社」のある「東庄町」では「昔」、隣り合わせの「二つの里」が「草刈り」の「境界」のことで「争い」が絶えなかったそうです。
そこで「幕府」の「役人」が「仲介」し、「二つの里」が「仲直り」ができたことから、毎年、「東大社」へ奉納する「的」は同じ「寸法」で作るようになったそうです。
現在、「東大社流鏑馬神事〜古式、ゆかしき、やぶさめ神事〜」では、「馬」が「入手困難」な(「手」に入らなくなった)ため、「騎射装束」の「神官」(神職)が「東大社」「社殿」の「庭」から「矢」を射る「形」に変わったそうで、「東庄33郷の村々」(氏子の里)より奉納された「的」13本を狙い、「神官」(神職)が「弓」で射る「神事」が行われます。
「東大社流鏑馬神事〜古式、ゆかしき、やぶさめ神事〜」で使用される「的」には「国家安泰」・「五穀豊穣」と書かれているそうです。
「東大社」では、「東大社流鏑馬神事〜古式、ゆかしき、やぶさめ神事〜」で放たれた「矢」を拾うと「子供」が授かる、「幸運の恵み」があると伝えられており、放たれた「縁起」の良い「矢」を競い合って取り合うそうです。
ちなみに「縁起」が良いとされる「矢」ですが、「白い矢」と「赤い矢」があり、「白い矢」を拾うと「男の子」、「赤い矢」を拾うと「女の子」が授かるともいわれています。
なお「東大社」は「受子安産」の「信仰」があることから上記の「所作」が行われるそうです。
また「東大社流鏑馬神事〜古式、ゆかしき、やぶさめ神事〜」の「神事」が終了後、「三枚合わせ」の「中板」の「交換」を行い、「仲直り」を「再確認」する「所作」も行われており、これらの「所作」を二百数十年たった今日まで続けているそうです。
「東庄」の「古社」「東大社」で開催される「伝統神事」「東大社流鏑馬神事〜古式、ゆかしき、やぶさめ神事〜」。
この機会に「東庄町」に訪れてみてはいかがでしょうか?
「東大社流鏑馬神事〜古式、ゆかしき、やぶさめ神事〜」詳細
開催日時 10月19日(日) 14時〜14時40分
開催会場 東大社 香取郡東庄町宮本434
問合わせ 東大社 0478-86-4405
備考
「東大社流鏑馬神事〜古式、ゆかしき、やぶさめ神事〜」「当日」ですが、「弓道大会」や「剣道大会」も催されるそうです。
毎年10月20日に行われている「東大社流鏑馬神事〜古式、ゆかしき、やぶさめ神事〜」ですが、上記のように「堀川天皇の御代」の康和年間(985年〜996年)に始まったとされ、「流鏑馬」の「矢」を拾うと「幸運」が訪れるとされています。