本日二つ目にご紹介するのは、地元「銚子市」の「偉人」のひとり「濱口梧陵(はまぐちごりょう)」です。
「濱口梧陵」(文政3年6月15日(1820年7月24日)〜1885年(明治18年)4月21日)は、「紀伊国広村」(現「和歌山県」「有田郡広川村」)出身の「実業家」・「社会事業家」・「政治家」で、「梧陵」は「雅号」で、「字」は「公輿」、「諱」は「成則」です。
「醤油醸造業」を営む「濱口儀兵衛家」(現「ヤマサ醤油」(2010年12月6日のブログ参照))「当主」で、「七代目濱口儀兵衛」を名乗りました。
また「津波」から「村人」を救った「物語」「稲むらの火」(2010年12月12日のブログ参照)の「モデル」としても知られています。
「濱口梧陵」は、「紀州湯浅」の「醤油商人」である「濱口分家」・「七右衛門」の「長男」として生まれます。
「濱口梧陵」は、12歳で「本家」(濱口儀兵衛家)の「養子」となって、「銚子」に移ります。
「濱口梧陵」はその後、若くして「江戸」に上って「見聞」を広め、「開国論者」となったそうです。
「濱口梧陵」は、「海外留学」を志願しますが、「開国直前」の「江戸幕府」の受け容れるところとならず、30歳で帰郷して「事業」を行いました。
嘉永5年(1852年)、「同業」の「濱口吉右衛門」(東江)・「岩崎重次郎」(妙岳)とともに「広村」に「稽古場」「耐久舎」(現在の「和歌山県立耐久高等学校」)を開設して「後進」の「育成」を図り、嘉永7年(1854年)頃、「七代目濱口儀兵衛」を相続したそうです。
「稲村の火」ですが、安政元年11月5日(1854年)夜、「安政南海地震」の「津波」が「広村」に襲来した後に、「梧陵」は自身の「田」にあった「藁(わら)の山」に「火」をつけて安全な「高台」にある「広八幡神社」への「避難路」を示す「明かり」とし、速やかに「村人」を誘導することができ、結果として「村人」の9割以上を救ったそうです。
この「故事」から、「津波」から「命」を救えるかは、「情報」の「伝達」の「速さ」が関わっているという「教訓」を残しており、これをもとに作られた「物語」が「稲むらの火」として知られています。
またこの「災害」の後、「梧陵」は破損した「橋」を修理するなど復旧につとめたほか、当時では最大級の「堤防」・「広村堤防」を約4年をかけて修造。
この「大土木工事」は、荒廃した「被災地」からの「住民離散」を防ぐ「意味」を持つとともに、将来再び襲来するであろう「津波」に備えての「防災事業」であったそうです。
「広村」の「復興」と「防災」に投じた「4665両」という莫大(ばくだい)な「費用」は全て「梧陵」が「私財」を投じたものであり、のちに「小泉八雲」は「生ける神(A Living God)」と賞賛(しょうさん)しています。
「濱口梧陵」は、当時としては「巨大な堤防」の「建設」の際に「住民百世の安堵を図る」との「言葉」を残しており、「堤防完成」から88年後の1946年(昭和21年)、「広村」を「昭和南海地震」の「津波」が襲いましたが、この「堤防」のために「被害」を減らすことができたそうで、「梧陵」の「活躍」をたたえ、「広村堤防」には「感恩碑」(1933年建立)が建てられています。
現在「広川町」では毎年11月に「津波祭」を行い、「梧陵」の「遺徳」をしのぶとともに「災害」の「記憶」と「災害」への「備え」を伝えています。
大規模な「津波被害」が出た2004年12月の「スマトラ島沖地震」によって、「稲むらの火」の「物語」が想起されるとともに、その「モデル」となった「史実」の「濱口梧陵」の「事績」が注目されました。
「NHK」「歴史情報番組」「その時歴史が動いた」(2005年1月12日)では、「百世の安堵をはかれ 安政大地震・奇跡の復興劇」を放送し、「広村堤防築造」を中心に「梧陵の生涯」を紹介しました。
「番組中」で「解説」の「ゲスト」として出演した「河田惠昭」(京都大学防災研究所教授)は、現代のように「災害対策」に「関心」が払われていない「時代背景」(2005年当時)において、「災害対策」の「目的」で、「公共事業」ではなく「一民間人」の「発案」と「私財」をもって「広村堤防建設」が実施されたことを非常に画期的(かっきてき)と評価しています。
また2005年の「スマトラ島沖地震」「津波」後に開かれた「ASEAN緊急会議」に出席した当時の「首相」・「小泉純一郎」は、「シンガポール代表」から「濱口梧陵」の「功績」を尋ねられ、それ以降、「東南アジア」で「知名度」があがりつつあるそうです。
「濱口梧陵」はさまざまな「社会事業」を手がけましたが、とくに「医学」への「支援」を厚く行っています。
「梧陵」の「支援」と「影響」を受けたひとりが、「関寛斎」です。
「寛斎」は1856年(安政3年)、「佐藤泰然」の「推薦」によって「銚子」で「医院」を開業し、「梧陵」との「知遇」を得ました。
当時流行していた「コレラ」の「防疫」に「意」を傾けていた「梧陵」は、「寛斎」を「江戸」の「西洋種痘所」(後の「東京大学」「医学部」)に赴(おもむ)かせ、「伊藤玄朴」、「三宅艮斎」(「三宅秀」の「父」)の下で「コレラ」の「予防法」を学ばせ、「銚子」での「コレラ防疫」に「業績」をあげました。
なお「西洋種痘所」が焼失すると、1859年に「梧陵」は「種痘所」の「再開」のために「300両」を寄付しています。
その「成果」により、「梧陵」は「寛斎」を「経済的」に支援し、1860年(万延元年)「長崎」に留学させ、「蘭学医」・「ポンペ」のもとで1年間学んだ「寛斎」は、1862年(文久2年)、「銚子」に戻りました。
「梧陵」は「寛斎」に「長崎」での「留学」を続けるよう勧めましたが、「寛斎」は翌1863年に「徳島藩」の「藩医」となり「徳島」へ移住しました。
「寛斎」はのちに「梧陵」の「勧め」に従わなかったことを悔いたといわれています。
「梧陵」は1862年に出版された「医学書」「七新薬」(「司馬凌海」著、「関寛斎」校)の「出版」に関わる「費用」を援助するなど、「日本」の「近代医学」の「発展」にも深く関わっています。
「濱口梧陵」は、1868年(慶応4年)には、「商人身分」ながら「異例」の「抜擢」を受けて、「紀州藩」「勘定奉行」(のちの「出納長」に相当)に任命され、後には「藩校教授」や「大参事」(のちの「副知事」に相当)を歴任するなど、「藩政改革」の「中心」に立って「紀州藩」・「和歌山県経済」の「近代化」に尽力しました。
その後、1871年(明治4年)には、「大久保利通」の「要請」で「初代」「駅逓頭(えきていのかみ)」(のちの「郵政大臣」に相当)に就任しますが、半年足らずで辞職しています。
1880年(明治13年)、「和歌山県」の「初代」「県議会議長」に就任、そして「国会」開設に備えて、「木国同友会」を結成したそうです。
1885年(明治18年)にかつての「夢」であった「世界旅行」に行くも、「アメリカ」・「ニューヨーク」で病没しました。
(享年66(満64歳没))
「梧陵」らが創立した「耐久舎」の「伝統」は、現在の「耐久高校」や「耐久中学校」に受け継がれています。
当時の「耐久高校」は(校長は寳山良雄)、「国内」に留まらず「韓国」等からの「留学生」も受け入れる等「革新的」な「校風」であったようで、「文部大臣」・「小松原英太郎」や「伊藤博文」の「補佐」を勤めた「イェール大学」「教授」・「ジョージ・トランブル・ラッド」(「外国人」として初めて「旭日勲章」を授かる)らの「訪問」を受けたそうです。
「ラッド」は、当時の「広村」を訪れた「紀行文」等を記した「日本の稀日」を1910年(実際の「訪問」は1907年)に「アメリカ」で出版しているそうです。
「多方面」で活躍した「濱口梧陵」は、「銚子市」「妙福寺」(2011年4月27日のブログ参照)の「門前」、「ヤマサ醤油工場」に隣接した一角に「梧陵」の「功績」と「人格」を顕彰した「碑」があります。
この「碑」は明治30年に建立された「題額」の「梧陵 濱口君紀徳碑」の「文字」は「梧陵」の「友人」でもあった「勝海舟」が自筆したもので、さらに「日本最初」の「文学博士」の「重野安繹(やすつぐ)」の「撰文」、「近代」の「芸術書道」の「祖」と言われる「日下東作」の「書」によるこの「碑」は当時、その「建立」においては「日本最高」の「組み合わせ」とも言われているそうです。
この「碑文」は「漢文」で「内容」がわからない等の「ご指摘」が以前からあり、この度(たび)「地元郷土史研究家」の「関根昌吾」先生の「協力」のもと、「漢文」の「読み下し」を掲載した「説明板」を「碑」の前に設置し、併せて「案内用」の「石柱」が建てられました。
「幕末」から「維新」にかけ、「近代日本」の「一偉人」として「日本」の「発展」のために「力」を尽くした「濱口梧陵」。
「梧陵」の「功績」と「人格」を顕彰した「碑」「濱口梧陵徳碑」は「ヤマサ醤油」の一角に佇んで立っています。
備考
「濱口梧陵」は、「JIN〜仁〜」で重要な「理解者」である「緒方洪庵」の「支援者」として登場し、「ペニシリン」の「製造量産」、及びその後の「主人公」達の「活動」に「多額」の「援助」を行いました。
なお「JIN〜仁〜」「ドラマ版」では、「主人公」の「仁」が「幕末」に「ヤマサ醤油」が存在していたことに感動する場面があるそうです。
また「ヤマサ醤油工場」敷地内「工場見学センター売店」(2011年5月15日のブログ参照)では、「稲村の火」(本)や「稲村の火」(限定醤油)など豊富なラインナップが並び、「人気の観光スポット」になっています。