本日二つ目にご案内するのは、となりまち「東庄町」「東大社」で明明後日(しあさって)の10月21日(日)に開催されます「東大社流鏑馬神事〜古式、ゆかしき、やぶさめ神事〜」です。
「東庄町」は、「千葉県」「北東部」に位置し、「東京」約80km圏、「成田」から約30km圏の位置にあり、「東」は「銚子市」、「南」は「旭市」、「西」は「香取市」と接し、「北」は「利根川」(2011年10月9日のブログ参照)を隔てて「茨城県」「神栖市」と接しています。
「東庄町」の「面積」は、46.16平方kmで、「地形」は「東西」に約9km、「南北」に約10.5kmの「台形状」をなしています。
「東庄町」の「気候」は「表日本温暖気候」に属しており、「平均気温」は15.5度で、「冬の間」は「東京」より2〜3度暖かく、「夏」は逆に「涼しいまち」です。
「東庄町」「北西」には「八溝山地」の「末端」にある「筑波山」を望み、「東庄町」を含む一帯は「水郷筑波国定公園」(8月3日のブログ参照)の「区域」に属しています。
「東庄町」の「中央」は「北総台地」(下総台地)(7月10日のブログ参照)の一角をなし、「標高」の「最高地点」は「小南城山地先」で5.65mです。
また「北部」・「南部」き傾斜し「低地」を形成し、「最低地点」は「笹川港」付近で1.6mとなっています。
「低地」は「水田」に利用され、「台地」は「斜面」が「森林」に、「上部」の「平地」は「畑作」に利用されています。
「東庄町」の「集落」は、「笹川地区」が「国道356号線」沿いに「街区」を形成しているほか、それぞれの「地区」では「集落形態」で分布しています。
「東大社」(2011年4月24日のブログ参照)は、「香取郡」「東庄町」(下総国香取郡)にある「神社」で、「旧社格」は「県社」です。
「東大社」は、「玉依姫尊(たまよりびめのみこと)」を「主祭神」とし、「鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)」を配祀しています。
「東大社」の「由緒」ですが、「景行天皇」が「東国巡幸」の「折」に、「春臣命」に命じて「一社」を造営、「玉依姫尊」を祀って「東海の鎮護」としたことが始まりであるといわれています。
以来「歴代天皇」の「崇敬」が篤く、康和4年(1102年)に「堀川天皇」より「総社玉子大明神」の「称号」を受け、享徳3年(1454年)には「後花園天皇」から「勅額」が贈られています。
「歴代天皇」の他、寿永3年(1184年)「源頼朝」が「御厨一処」を寄進し、「徳川家康」も天正19年(1591年)に「神領」10石を寄進しています。
また「下海上」の「総社」として「東荘」の「総氏神」として「遠近」の「信仰」が篤く、特に「東氏」は「社殿」を造営し、あるいは「神領」を奉納するなど代々崇奉しました。
応永2年(1395年)に「東左馬助胤家」が「社殿」を造営、現在の「社殿」「本殿」は文政9年(1826年)に、「拝殿」は文政10年(1827年)に再建されたものだそうです。
「東大社」は、明治6年(1873年)「郷社」に列し、大正8年(1919年)には「県社」に列しました。
「東大社」の「行事」(神事)ですが、20年毎(ごと)に康和4年(1102年)より始まるといわれています「銚子」「高神の浦」への「式年三社銚子大神幸祭」があります。
「式年三社銚子大神幸祭」には、「雷神社」(2011年9月19日のブログ参照)、「豊玉姫神社」(1月9日のブログ参照)の「神輿」を前後に従え、かつての「東荘33郷」より集まった「氏子」は「時代風俗」の「仮装」にて「所作」を演じつつ「供奉」します。
かくて「神輿」は6里の「沿道」の「奉迎」をうけつつ「高神」の「海中」に「神幸」し、その「儀」は勇壮盛大です。
「東大社」ではその他「秋の例祭」として10月20日に「流鏑馬神事」(2011年10月18日のブログ参照)があります。
「流鏑馬」とは、疾走する「馬上」から「的」に「鏑矢(かぶらや)」を射る「日本」の「伝統的」な「騎射」の「技術」・「稽古」・「儀式」のことをいいます。
「馬」を馳せながら「矢」を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、「時代」が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれています。
「流鏑馬」を含む「弓馬礼法」は、896年(寛平8年)に「宇多天皇」が「源能有」に命じて制定され、また「中右記」の永長元年(1096年)の「項」などに記されているように、「馬上」における「実践的弓術」のひとつとして平安時代から存在しました。
「関白」「藤原忠通」によって「春日大社」「若宮」の「社殿」が改築され、保延2年(1136年)3月4日春日に詣で、「若宮」の「社参」(中右記・祐賢記文永10・2・26条)し、9月17日始めて「春日若宮おん祭」を行い、「大和武士」によって今日まで「流鏑馬十騎」が奉納され続けてきました。
(中右記・一代要記)
「吾妻鏡」には「源頼朝」が「西行」に「流鏑馬」の「教え」を受け復活させたと記されています。
鎌倉時代には「秀郷流」と呼ばれる「技法」も存在し、「武士」の「嗜み」として、また「幕府」の「行事」に組み込まれたことも含めて盛んに「稽古」・「実演」されました。
「北条時宗」の執権時代までに、「鶴岡八幡宮」では47回の「流鏑馬」が納められたとされています。
しかし、「個人」の「武勇」に頼っていた時代から、「兵法」や「兵器」が進化して「足軽」や「鉄炮」による「集団戦闘」の時代である室町時代・安土桃山時代と、時が経つに従い、一時廃れてしまったそうです。
江戸時代に入り、享保9年(1724年)、時の「将軍」「徳川吉宗」の「命」を受けた「小笠原流」20代「小笠原貞政」は、「小笠原の伝書」を研究し新たな「流鏑馬制定」、「古式」と共に奥勤めの「武士達」に「流鏑馬」、「笠懸」の「稽古」をつけました。
享保13年(1728年)、「徳川家重」の「世嗣ぎ」のために「疱瘡治療祈願」として「穴八幡宮」北の「高田馬場」(現在の「東京都」「新宿区」「西早稲田三丁目」)にて「流鏑馬」を執り行い、これを奉納したそうです。
(この10年後、無事疱瘡祈願成就した折に報賽として再び行われ、その様子を絵巻にしたものが「流鏑馬絵巻」です。)
この後、「将軍家」の「厄除け」、「誕生祈願」の際などに度々「流鏑馬」が行われるようになりました。
明治維新を経て「幕府解体」、また「第二次世界大戦」と以後の煽り
を受けるなど三度の衰退を見るが、「戦後」に「復興」、現在に至ります。
現在、「流鏑馬」は「神社」の「神事」として、「日本」の「各地」で盛んに行われ、「観光」の「目玉」となっています。
「東大社流鏑馬(やぶさめ)神事〜古式、ゆかしき、やぶさめ神事〜」ですが、今から約900年の康和年間(985年〜996年)の「堀河天皇」の「御代」から始まったと伝えられ、昔は「鎧(よろい)」、「直垂」を着けた「射手」が「乗馬」のまま「紅白の矢」を放ち、「奏楽」のうちに「社殿」を一周、さらに「第二番」以下の「御的」に向かって「矢」を放つ「勇壮」な「神事」です。
「東大社」の「流鏑馬」は毎年10月に行われております。
「東庄町」では「昔」は隣り合わせの「二つの里」が「草刈り」の「境界」のことで「争い」が絶えなかったそうです。
そこで「幕府」の「役人」の「仲介」で「仲直り」ができたことから毎年、「東大社」へ奉納する「的」を同じ「寸法」で作るそうです。
現在では、「馬」が「手」に入らなくなったため、「騎射装束」の「神官」(神職)が「社前」の「庭」から「矢」を射る形に変わっており、「東庄33郷」の「村々」により奉納された「的」13本を狙うそうです。
「的」には「国家安泰」・「五穀豊穣」と書かれています。
「流鏑馬神事」で放たれた「矢」を拾うと「子供」が授かる、「幸運」の「恵み」があるとされ、放たれた「縁起」の良い「矢」を競いあって取り合いますが、この「矢」を拾うと「白い矢」は「男の子」、「赤い矢」は「女の子」が授かるとも言われています。
「東大社流鏑馬神事」の「行事」が終了後、「三枚合わせ」の「中板」を交換して「仲直り」を「再確認」することが、今日まで二百数十年続いているそうです。
また「東大社流鏑馬神事」当日には「弓道大会」や「剣道大会」も催されるそうです。
近隣近在からも多くの「人」が訪れ、人気のある古式ゆかしい「東大社」の「神事」「流鏑馬神事」。
この機会に「東庄町」に訪れてみてはいかがでしょうか?
「東大社流鏑馬神事〜古式、ゆかしき、やぶさめ神事〜」詳細
開催日時 10月21日(日) 14時〜14時40分
開催会場 東大社 香取郡東庄町宮本434
問合わせ 東大社 0478-86-4405
備考
「流鏑馬神事」の行われる「東大社」は「授子安産」の「信仰」があることで知られています。