本日二つ目にご紹介するのは、近隣市「横芝光町」の「史蹟」「山武姥山貝塚(さんぶうばやまかいづか)」です。
「横芝光町」は、「千葉県」北東部に位置し、「東京都心」から約70km、「県庁所在地」「千葉市」から約40km、「成田国際空港」からは約20kmの「距離」にあります。
「横芝光町」の「形状」は東西約5km、南北約14kmと南北に細長く、「面積」は66.91平方kmで、「北」は「香取郡多古町」と「山武郡芝山町」、「東」は「匝瑳市」、「西」は「山武市」に接し、「南」は「白砂青松」の続く「九十九里浜」(5月11日のブログ参照)が広がり、「太平洋」に面しています。
「横芝光町」の「沿革」ですが、明治22年の「町村制」の「施行」によって、「横芝町」、「大総村」、「上堺村」が誕生し、これら「3町村」が昭和30年2月に合併した旧「横芝町」と、同じく明治22年に「香取郡日吉村」、「匝瑳郡南条村」、「東陽村」、「白浜村」が誕生し、これら「4村」が昭和29年5月に合併した旧「光町」が、平成18年3月27日に合併し、「横芝光町」が誕生しました。
「山武姥山貝塚」は、「山武郡横芝光町姥山」にある縄文時代中期から晩期にかけての「貝塚」で、縄文晩期の「姥山式土器」の「標式遺跡」です。
1956年(昭和31年)以来、6回にわたる「発掘調査」が行われ、数多くの「遺物」が発見されました。
なお、「男性」2人、「女性」2人、「子供」1人の「一家」と思われる5人が悶絶した状態で検出されたことで有名な「市川市」の「姥山貝塚」(国の史跡)と区別するため、「山武姥山貝塚」と呼ばれています。
「標式遺跡」(type site)あるいは「標準遺跡」(standard site)は、「考古学」上の「遺構」、「遺物」又はその一連となる「関連性」の「集合」として定義される特定の「型式」、「形式」、「様式」、あるいは、「年代」、「文化期」、「文化層」の「命名」、簡単に言えば「時期区分名命名」の「契機」を与えた「遺跡」、あるいは、その「基準」となる「遺構」、「遺物」が検出された「遺跡自身」のことをいうそうです。
「山武姥山貝塚」は、「台地」上に形成された「貝塚」であり、「直径」約120mの「範囲」に8箇所の「貝層クラスタ」が「谷頭」に面して形成された「点列環状貝塚」と「環状貝塚」との中間と位置付けられており、縄文時代中期から晩期にかけ、今から5000年前に始まり2500年前迄続いた「村」であったと推定されています。
点在する「貝塚」が全体で「馬蹄形」をなしていますが、時期によって「貝塚」の位置が移動し、最終末になると「貝塚」はほとんどなくなっているそうです。
「貝」は、「チョウセンハマグリ」、「ダンペイキサゴ」、「ヤマトシジミ」、「ウミニナ」、「バイ」、「シオフキ」を主体とする「半鹹半淡」の「貝塚」です。
「山武姥山貝塚」周辺には、「中台貝塚」、「鴻ノ巣貝塚」、「木戸場貝塚」、「牛熊貝塚」など多くの「貝塚」があり、東側に縄文時代の「丸木舟」が多数発見されていることで知られた「水系」である「栗山川」(2月18日のブログ参照)と、南側にその「ラグーン」であったと推定される「坂田池」があります。
また北側には、表情豊かな「人物埴輪」が出土したことで有名な「芝山古墳郡」(5月30日のブログ参照)(「殿塚」・「姫塚」)(6月9日のブログ参照)があります。
縄文時代晩期の「標式遺跡」「山武姥山貝塚」。
「貝塚」、「古墳」が数多く残る「横芝光町」に訪れてみてはいかがでしょうか?
「山武姥山貝塚」詳細
所在地 山武郡横芝光町姥山台253ほか
備考
「山武姥山貝塚」周辺に流れる「栗山川」の若干「上流」の「多古町」及び「匝瑳市」では、「丸木舟」の「出土例」が多く確認されています。
| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=1172 |
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地域情報::匝瑳 | 11:52 AM |