本日二つ目にご紹介するのは、近隣市「横芝光町(よこしばひかりまち)」にあります「殿塚・姫塚古墳」です。
「横芝光町」は、「千葉県」北東部の「町」で、2006年3月27日に「山武郡横芝町」と「匝瑳郡光町」が合併し、新たに発足しました。
発足当時の人口は約2万6000人で、「町役場」は旧「光町役場」となっています。
合併前の「横芝町」と「光町」は、「別の郡」(歴史的にそもそも「上総国」と「下総国」という別の「令制国」)に所属していましたが、現在の「横芝光町」は「山武郡」に属しています。
「横芝光町」の隣接する「自治体」は「山武市」、「匝瑳市」、「山武郡芝山町」、「香取郡多古町」となっています。
「横芝光町」の「歴史」ですが、「縄文前期」には、現在の「横芝光町」の大部分は「海」であったそうです。
(「縄文海進」)
「縄文中期」には、「横芝光町」の北部の「中台」などには「人類の生活跡」である「貝塚」がいくつか残されているそうです。
「縄文後期」になると、「東京湾」岸方面では「人口」の減少があったそうですが、「九十九里沿岸」では引き続き「人類の生活」が認められ、「横芝光町」「姥山」にはこの頃の「標識遺跡」である「山武姥山貝塚」が残されています。
「弥生時代」には、「海岸線」の後退が著しく、現在の「平野」の部分に「陸地」が広がり、「稲作」が盛んになったそうです。
「古墳時代」に、「横芝光町」「小川台」に「下海上国造」との関係が推定される「小川台古墳群」が、「中台」に「武社国造」との関係が推定される「芝山古墳群」(5月30日のブログ参照)が作られました。
「殿塚・姫塚古墳」は、「芝山古墳群」に含まれ「太平洋」にそそぐ「木戸川」上流左岸の「台地」上に位置しており、「前方後円墳」4基、「円墳」13基で構成されています。
「古墳群」には、「盟主的規模」を示す「殿塚古墳」、ほぼ完全な状態で発見された「姫塚古墳」が含まれます。
6世紀から7世紀の「初頭」に設営された二つの「前方後円墳」です。
「殿塚・姫塚古墳」は、「国の指定史跡」であるとともに「全国」で初めて「形象埴輪」の「行列」が発見された「場所」としても有名です。
なおこちらの「形象埴輪」の「行列」は、「大王葬送」の「行列」を表しているといわれています。
「殿塚古墳」は、「長さ」88m、「高さ」13mで二重の「円溝」(「周溝」)をもち、「墳丘」は2段に築かれており、「後円部」南側に位置しています。
1956年(昭和31年)の「発掘調査」で、「円筒埴輪」や「朝顔形埴輪」、「人物埴輪」(55体以上)、「動物埴輪」(馬、猪、犬、牛、鳥など)が多数出土したことで有名になっています。
「埋葬施設」は「横穴式石室」で、「玉類」や「耳環」、「頭椎大刀」、「直刀」、「鉄鏃(てっそく)」などが出土しています。
なお「殿塚古墳」の「築造時期」は6世紀後半とされています。
「姫塚古墳」は、「長さ」58.5m、「高さ」6mで「石室」は「横穴式」で前方側面南側に位置しています。
「墳丘」の周囲を「溝」が2重にめぐっており、「段築」や「葺石」の有無は不明です。
1951年(昭和31年)に「発掘調査」が行われ、「墳丘」の「北側」で「形象埴輪」(「人物」・「馬」など)が、「南側」で「円筒埴輪」が多数出土したそうです。
特に「北側」の「埴輪群」は、当時の「葬送儀礼」を表現したものとみられ、注目を集めていました。
「埋葬施設」は「横穴式石室」で、「方頭大刀」や「直刀」、「馬具」、「金銅製品」、「須恵器」などが出土しました。
「姫塚古墳」の「築造時期」ですが、7世紀初頭と推定されています。
この「地域」に「大型古墳」が出現するのは6世紀になってからで、この2つの「古墳」(「殿塚古墳」・「姫塚古墳」)はこの「地域」の「首長クラス」のものであろうと推定されています。
なお、この2つの「古墳」から出土したものは、「芝山町」にある「芝山仁王尊」「観音教寺」(2011年4月25日のブログ参照)の「芝山ミュージアム」「芝山町立古墳・はにわ博物館」(2011年11月26日のブログ参照)に展示されています。
「古代国家」を現代に残す「遺跡」「殿塚・姫塚古墳」。
「古墳群」を多く有している「横芝光町」に訪れてみてはいかかでしょうか?
「殿塚・姫塚古墳」詳細
所在地 山武郡横芝光町中台字外記
問合わせ 町立芝山古墳・はにわ博物館 0479-77-1828
備考
「殿塚・姫塚古墳」には、昭和32年〜33年頃に植樹された約100本の見事な「ソメイヨシノ」の美しい「花見スポット」としても知られています。
| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=1149 |
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地域情報::匝瑳 | 06:57 PM |