本日ご紹介するのは、地元「銚子市」「地球の丸く見える丘展望館」「2F」「映像ブース」で11月29日(日)に開催されます「語り 夢二ひと夏の恋」です。
「地球の丸く見える丘展望館」は、「銚子市」(2010年9月20日のブログ参照)「天王台」にある「施設」で、「銚子市」から「(一社)銚子市観光協会」が「指定管理」を受け、運営しています。
「地球の丸く見える丘展望館」(2010年8月30日のブログ参照)は、「下総台地」(北総台地)(2012年7月10日のブログ参照)の「高所」(73.6m)である「愛宕山」の「頂上」に位置する「展望観光スポット」です。
「地球の丸く見える丘展望館」からの「眺望」ですが、「北」は「鹿島灘(カシマナダ)」(2012年6月16日のブログ参照)から「筑波山」を望み、「東」と「南」は「一望千里」に「太平洋」の「大海原」を、「西」は「屏風ヶ浦(ビョウブガウラ)」(2012年5月20日のブログ参照)から「九十九里浜」(2012年5月11日のブログ参照)まで見渡せます。
「地球の丸く見える丘展望館」では、「標高」約90mの「展望スペース」から360度の「大パノラマ」が広がり、緩やかに「弧(コ)」を描いた「水平線」によって、「その名」の通り、「地球の丸さ」を実感できる「展望施設」となっています。
「地球の丸く見える丘展望館」からは、「銚子市」が「三方」を「水」に囲まれている様子が実感でき、「利根川」(2011年10月9日のブログ参照)「河口」から「君ヶ浜」(2011年6月1日のブログ参照)、「犬吠埼」(2012年4月16日のブログ参照)、上述の「屏風ヶ浦」に至る「海岸線」を望め、「砂浜」あり、「断崖絶壁(ダンガイゼッペキ)」ありと、「変化」に富んだ「雄大」な「景観美」を堪能できるそうです。
「地球の丸く見える丘展望館」には、「地球の丸さ」を実感できる「展望スペース」(屋上)を筆頭に、「銚子」の「特産品」「地酒」・「醤油」をはじめ、「豊富」な「お土産」・「名産品」が揃った「お土産コーナー」(売店)(1F)、「季節ごと」に行われる「各種企画展」が「定期的」に催される「イベントホール」(企画展示室)(2F)、「常設展示」として2012年に認定されました「銚子ジオパーク」(2012年12月9日・9月25日のブログ参照)「関連資料」の「展示」をしている「銚子ジオパーク展示場」(2F)、「銚子海洋研究所」の「イルカウォッチング」(2010年12月19日のブログ参照)で撮影された「写真」の「展示」(2F)、「イルカウォッチング」もしくは「銚子のPR」「映像」を映す「映像鑑賞コーナー」(2F)、「銚子沖」(名洗沖)で「実験稼働中」の「洋上風力発電」の「解説」(2Fエントランス)、「展望スペース」に
向かう途中にある「眺望」のよい「休憩スポット」「喫茶コーナー」・「展望ラウンジ」「くつろぎスペース」「カフェ330」(3F)があります。
「地球の丸く見える丘展望館」の「イベントホール」ですが、上記のように「季節ごと」に、「写真展」や「絵画展」など「各種企画展」が行われており、多くの「観光客」、「地元客」の「皆さん」が訪れています。
「竹久夢二(タケヒサユメジ)」(2011年5月28日のブログ参照)(1884年(明治17年)9月16日〜1934年(昭和9年)9月1日)は、「日本」の「画家」・「詩人」で、「本名」は「竹久茂次郎(タケヒサモジロウ)」です。
「竹久夢二」は、「数多く」の「美人画」を残しており、その「抒情的(ジョジョウテキ)」な「作品」は「夢二式美人」と呼ばれ、「大正ロマン」を代表する「画家」で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともあり、また、「児童雑誌」や、「詩文」の「挿絵」も描いたそうです。
「竹久夢二」は、「文筆」の「分野」でも、「詩」、「歌謡」、「童話」など創作しており、なかでも、「詩」「宵待草」には「曲」が付けられて「大衆歌」として受け、「全国的」な「愛唱曲」となりました。
また、多くの「書籍」の「装幀(ソウテイ)」、「広告宣伝物」、「日用雑貨」のほか、「浴衣(ユカタ)」などの「デザイン」も手がけており、「日本」の「近代グラフィック・デザイン」の「草分け」のひとりともいえます。
「竹久夢二」は、「彼自身」の独特な「美意識」による「夢二式美人画」と呼ばれる「作品」の多くは、「日本画」の「技法」で描かれ(軸物や、屏風仕立てで遺る)、また、「洋画」(キャンバスに油彩)「技法」による「女性像」や、「風景画」も遺されています。
好んで「様々」な「表現形式」を試みたそうですが、むしろ、それらは後世になってから評価されたもので、当時の時点においては、印刷された「書籍」の「表紙」や、「広告美術」などが多くの「目」に触れ、「大衆人気」という形で「脚光」を浴びたのであったそうです。
「竹久夢二」ですが、一時は「中央画壇」への「憧れ」もあったようですが、受け入れられず、終生
「野」にあって新しい「美術のあり方」を模索したそうです。
「世の動き」としてみた場合、「当時の画壇」では「様々」な「芸術思潮」が交錯し、ある意味で「胎動期」の不足のさなかであったそうです。
「都市」における「大衆文化の開花」による「消費生活の拡大」を背景とした、新しい「応用美術」としての「デザイン」というものの「黎明の時代」であり、「夢二」もこれに着目したそうです。
「竹久夢二」「生涯」の「後期」にいたっては、「彼」の「図案家」としての「才能」の「実績」において、「生活」と結びついた「美術」を目指し、あるいは「産業」と融合すべきとの「理念」を持ち、むしろ「積極的」に、「商業美術」(のちにいわれるグラフィック・デザイン)の「概念」を描いていたようです。
「竹久夢二」の「榛名山産業美術研究所」の「構想」や、「先進欧米視察」への「野望」がこのことを裏付けています。
「竹久夢二」の「画集」、「詩文集」・「童話」は21世紀に入っても「様々」な「装丁」で刊行されています。
「竹久夢二」の関わった「女性達」ですが、「竹久夢二」の「恋愛遍歴」についても「数々」の「評伝」があり、「自身」の「日記」や、「手紙」などで語られる「愛の言葉」は、後世の多くの「創作」の「題材」ともなっています。
特に、下記3人が「夢二をめぐる3人の女性」として、しばしば取り沙汰されています。
たまき
1882年(明治15年)7月28日〜1945年(昭和20年)7月9日、石川県金沢市出身、本名は岸他万喜。
戸籍上唯一妻となった女性である。
兄を頼って上京後、結婚歴があり死別した前夫との間に二児があった。
自立のために早稲田鶴巻町に開店した絵葉書店「つるや」に、夢二が客として毎日店に通いつめた挙句、2ヶ月後には結婚にいたった。
2年後には離婚するが、その翌年に再び同棲、そして、別居を繰り返す。
夢二が彦乃を知った後の大正4年(1915年)、たまきと画学生東郷鉄春(青児)との仲を疑い、富山県の海岸で夢二がたまきの腕を刺すことによって破局を迎え絶縁にいたる。
しかし、たまきは結核療養中の夢二を信州まで見舞い、また夢二亡き後も終生彼を慕い続けたという。
彦乃
1896年(明治29年)3月29日〜1920年(大正9年)1月16日、山梨県南巨摩郡西島村(現・身延町西島)生まれ、本名は笠井ヒコノ。別名に山路しの。
日本橋の紙問屋の娘として裕福に育ち、女子美術学校の学生であった。
夢二のファンであり、絵を習いたいと「港屋絵草子店」を訪問し、交際が始まる。
たまきと別れ京都に移り住んだ夢二としばらく同棲するが、大正7年(1918年)九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核を発病。
父の手によって東京に連れ戻され、夢二は本郷菊富士ホテルに移るが、面会を遮断される。
御茶ノ水順天堂医院に入院した彦乃は、そのまま短い人生を終える。
夢二は彦乃を最も愛していたようであり、その死後しばらくショックから立ち直れなかった。
「彦乃日記」をのこす。
お葉
1904年(明治37年)3月11日〜1980年(昭和55年)10月24日、秋田県出身、本名は永井カ子ヨ。
上京後、東京美術学校のモデルとして人気があった。
藤島武二、伊藤晴雨らのモデルをつとめた後に、菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲、渋谷(現在の渋谷ビーム、同地に石碑あり)に所帯をもつ。
大正13年(1924年)、夢二が設計した世田谷「少年山荘」に一緒に移り住んだ。
一児をもうけるが夭折。
翌14年にお葉は自殺を図り、半年後に別離する。
後、医師と結婚し主婦として穏やかな生涯を過ごした。
「夢」と「憧れ」に生きた「叙情詩画人」「竹久夢二」は「房総」に魅せられたひとりで、とくに「銚子」の「海岸」は「夢二」の「詩心」をかきたてたらしく、3回も訪れているそうです。
なかでも3度目は、明治44年(1911年)8月29日から9月6日までの「長期滞在」であったそうで、この時、「宵待草」の「詩想」が生まれたといわれています。
大正2年(1913年)11月「実業之日本社」「発行」の「どんたく」に、「原詩」の「八行詩」に改作して掲載されています。
「宵待草」原詩
遣る瀬ない釣り鐘草の夕の歌が あれあれ風に吹かれて来る
待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の心ともなき
想ふまいとは思へども 我としもなきため涙 今宵は月も出ぬさうな
「宵待草」
待てど 暮らせど 来ぬ人を
宵待草の やるせなさ
今宵は月も 出ぬさうな
大正7年(1918年)秋、この「詩」に「多忠亮(オオノタダスケ)」(当時・宮内庁雅楽部勤務)が「曲」をつけ、「宵待草」は「大ヒット」したそうです。
「宵待草」ですが、「哀愁」に満ちた「詩」と、「感傷的」な「メロディー」は、多くの「人たち」に愛唱され歌い継がれています。
なお「宵待草」は本来、「植物学的」には「マツヨイグサ(待宵草)」が正しく、「ツキミソウ(月見草)」などと「同種」の、群生して「可憐」な「花」(待宵草は黄色、月見草は白〜ピンク)をつける「植物」のことで、「竹久夢二」は後になって「誤り」に気づいたそうですが、「歌」が「有名」になりすぎたので訂正しなかったそうです。
「竹久夢二」は明治40年(1907年)夏に続いて明治43年(1910年)8月、別れたはずの「妻」「たまき」をつれて「銚子」の「海鹿島(アシカジマ)」を訪れました。
当時の「文人・墨客」が利用した「民宿」「宮下」に投宿、この時、「夢二」は「お島さん」という「女性」と「恋仲」になっています。
「宮下」の「南隣」に住む「元」「北海道」「福山藩士」「長谷川康(コウ)」の「三女」「賢(カタ)」が、その人であるといわれています。
翌年8月29日、「夢二」は再び「海鹿島」を訪れましたが、すでに「お島さん」の「姿」はなく、「お島さん」は、「鹿児島」の「教師」のもとに嫁いでいたそうです。
「夢二」は「お島さん」のいない「海鹿島海岸」をさまよい、「夏の日」の「恋」を追憶しながら「宵待草」の「詩」をつくりました。
「海鹿島」にある「詩碑」は、昭和46年(1971年)2月に、「房総夢二会」の「皆さん」により建立され、「長方形」の「コンクリート碑」には、「銅版」に刻んだ「詩文」と、「夢二像」がはめ込まれています。
「語り 夢二ひと夏の恋」ですが、「地球の丸く見える丘展望館」で開催される「イベント」で、11月29日(日)に行われます。
「語り 夢二ひと夏の恋」の「開演」は、13時30分、15時30分となっており、「観劇時間」は、30分位だそうです。
「語り 夢二ひと夏の恋」の「内容」ですが、「竹久夢二」が「避暑(ヒショ)」で訪れた「銚子」を「舞台」に、「宵待草」の「歌」と共に、「夢二」が見ていた「ロマン」あふれる「銚子」を語るそうです。
「語り 夢二ひと夏の恋」の開催される「地球の丸く見える丘展望館」には、「竹久夢二」の「木版画」も展示してあるそうです。
「地球の丸さ」が実感できる「人気スポット」「地球の丸く見える丘展望館」「2F」「映像ブース」で開催される「催し」「語り 夢二ひと夏の恋」。
この機会に「銚子市」に訪れてみてはいかがでしょうか?
「語り 夢二ひと夏の恋」詳細
開催日時 11月29日(日) 開演 13時半〜 15時半〜
開催会場 地球の丸く見える丘展望館 2F映像ブース 銚子市天王台1421-1
入館料 大人 380円 小中学生 200円 65歳以上 330円
営業時間 9時〜17時 (10月〜3月)(晴天時は日没まで)
※4月〜9月は、9時〜18時半
問合わせ 地球の丸く見える丘展望館 0479-25-0930
備考
「地球の丸く見える丘展望館」で開催される「語り 夢二ひと夏の恋」ですが、「観劇無料」、「別途」「入館料」が「必要」となっています。