本日ご案内するのは、地元「銚子市」「満願寺」で2月3日(火)に開催されます「節分会・追儺豆まき」です。
「満願寺」(2010年12月11日のブログ参照)は、「銚子市」「天王台」にある「真言宗」の「寺院」です。
「満願寺」の「御本尊」ですが、「十一面観世音菩薩」で、「寺名」ですが、「補陀洛山満願寺」と呼ばれます。
「満願寺」「御本尊」の「十一面観世音」ですが、「京都」の「仏師」「松久朋琳」・「宗琳」「作」で、「像高」一丈三尺(約4.3m)、「御州檜」に刻まれた美しい「尊像」で、昭和49年「弘法大師」ゆかりの「坂東二十七番」「飯沼山圓福寺」(2012年2月19日のブログ参照)「本尊」「写し」の「尊像」として「造顕」「奉安」されています。
「満願寺」は、「徳道上人」が「創設」以来の「巡礼」の「歴史」と「伝統」を受け継いで開設されたそうです。
「満願寺」の「歴史」ですが、1974年(昭和49年)4月の「満願寺建立発願」から始まり、1976年(昭和51年)12月に、「銚子市」「犬吠埼」(「小畑池」から「犬吠埼灯台」(2011年1月1日のブログ参照)へ通じる「道路」沿いで、現在は「ホテル」の「駐車場」になっている場所)に「本尊仮奉安所」を建立したそうです。
そして、1978年(昭和53年)4月に「天王台」の「現在地」を「建立地」に決定し、同年12月に「仮本堂」を建て、1981年(昭和56年)6月に「本堂」を建立しました。
その後は、1982年(昭和57年)3月に「鎮守堂」、同年12月に「行堂」(薬師堂)、1983年(昭和58年)6月に「四国霊場本尊奉安満願堂」、同年10月に「百観音霊場本尊奉安満願堂」、1984年(昭和59年)12月に「中門」が完成して「第1期建立計画」が完了し、1985年(昭和60年)4月に「落慶法要(らっけいほうよう)」が行われました。
続いて1987年(昭和62年)6月に「本堂」「奥殿」、1988年(昭和63年)12月に「鐘楼」・「交通安全祈祷殿」・「文殊堂」・「寺務所」、1990年(平成2年)11月に「大師堂」が完成して「第2期建立計画」が完了し、「開創十五周年慶讃大法会(きょうさんだいほうえ)」が行われました。
更に1999年(平成11年)6月に「本堂」「向拝」・「開山大塔」の「完成」及び「諸仏」の「奉安」を行い、「第3期建立計画」が終了したそうです。
同年6月からは「第3期建立計画」の「延長」として、2003年(平成15年)10月に「仁王門」が完成した他、「時期」は戻りますが、2002年(平成14年)6月に「駐車場」から「本堂」へ行く為の「介護用エレベーター」、同年12月に「烏枢沙摩(ウスサマ)明王堂」(トイレ施設)などが完成して「一連」の「計画」が終了し、2004年(平成16年)6月に「開創三十周年開山大祭大法会」が行われました。
「第3期建立計画」で建立された「開山大塔」は、「満願寺」「本堂」「正面」から「直結」した「金色舞台造り」の「さざえ堂様式」の「建物」で、「塔内」「最上部」に「釈迦三尊(しゃかさんぞん)」、「地下」に「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)」を「奉安」し、それをつなぐ「らせん状階段」には、「三十三変化観音像」と、「一千巻」の「写経文(しゃきょうもん)」を納めた「三百三十三勝縁寳筒(しょうえんほうとう)」が「奉安」されています。
「満願寺」には、古くから「信仰」に支えられた「西国」・「坂東」・「秩父」「百観音霊場」や、「弘法大師」が開かれた「四国八十八ヶ所」を勧請し、その他「諸国霊場」を「満願成就」した「人々」の「浄財」で「吉報東端」、「犬吠埼」(2012年4月16日のブログ参照)の切りたった「愛宕山」の「中腹」「岩肌」を「背」に、5000坪の「景勝地」の「境内」に「寺務所」(巡礼の会本部事務所)、「本堂」、「文殊堂」、「不動堂」、「行堂」(修養道場)(薬師堂)、「霊場本尊奉安満願堂」、「修行大師像」(木彫)「奉安」の「大師堂」、「鐘楼」、「鎮守堂」、「烏枢沙摩(ウスサマ)明王堂」、「開山大塔」、「諸国霊場」の「お砂踏場」があり、「中門」「左手」より「本堂」へ向かうと「観音巡礼」の「元祖」「徳道上人」と「閻魔大王」が「奉安」され、つづいて「四国八十八ヶ所本尊」(木彫「松久朋琳」・「宗琳」「作」・昭和49年造顕)が「奉安」されています。
また「満願寺」「本堂」「向拝」には、「宝塔様式金色舞台造り」の「二層」の「さざえ堂」が建立され、「堂内」には「三百三十」の「勝縁宝筒」・「三十三観音像」が「安置」され、「本堂」の「天井」には「百観音本尊御影」・「三百三十」の「椿絵」があります。
「満願寺」は、「開山」以来、「全国各地」の「霊場巡拝」の「巡礼」はもとより、多くの「全国」の「有縁」の「人々」が参拝しに訪れ、「願いがかなう観音様」として深く「信仰」されています。
「満願寺」では、毎月18日の「縁日」は、「観音経」「読誦会」(11時から)が開かれ、「大護摩供」を厳修し、「修養道場」で、「季節」の「味」をいかした「一汁一菜」の「精進薬膳ガユ」の「接待」と、「一度」に60名入れる「大浴場」(「薬師堂」「地下」)で「薬湯」(無料)(9時から16時まで)に入ることができ、「近隣」はもとより「東京方面」からの「参拝者」で賑わうそうです。
(「参加希望者」は「前日」までに「申し込み」が「必要」です。)
「満願寺」ですが、「坂東二十七番」「圓福寺」の「奥ノ院」でもありますが、上記のように「坂東巡礼」をはじめ、「諸国霊場」を「巡拝満願」した「有縁」の「人」の「浄財喜捨」によって「開創建立」されたことから、これから「巡礼発願」する「人」から「満願成就」した「人」までの「サービスセンター」としての「役割」をはたすべく「巡礼」・「へんろ」に関する「全国」の「霊場」の「資料収集」をはじめ、「巡拝案内」から毎月「東京」を「中心」に「巡拝団」を募り、「百八十八霊場」はもとより「地方霊場」の「巡拝」「年十五回」以上、三十有余年間続けているそうです。
「節分」は、「雑説」のひとつで、「各季節」の「始まり」の「日」(「立春」・「立夏」・「立秋」・「立冬」)の「前日」のことで、「節分」とは「季節を分ける」ことをも意味しています。
江戸時代以降は、特に「立春」(毎年2月4日ごろ)の「前日」を指す場合が多く、この場合、「節切月日」の「大晦日」にあたるそうです。
「節分」の「概要」ですが、「季節」の「変わり目」には「邪気」(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための「悪霊ばらい行事」が執り行われています。
「節分」の「行事」ですが、「宮中」での「年中行事」であり、「延喜式」では、「彩色」した「土」で作成した「牛」と「童子」の「人形」を「大内裏」の「各門」に飾っていました。
「土牛童子」ともいわれ、「大寒」の「日」の「前夜」の「夜半」に立てられ、「立春」の「日」の「前夜」の「夜半」に撤去されました。
「延喜式」によりますと、「土偶」(土人形の意)も「土牛」も、「各門」での「大きさ」は同じで、「土偶」は「高さ」2尺で、「方」1尺5寸・「厚さ」2寸の「板」を立てます。
「土牛」は、「高さ」2尺・「長さ」3尺で、「長さ」3尺5寸・「広さ」1尺5寸・「厚さ」2寸の「板」を立てます。
「陽明門」および「待賢門」には、「青色」のものを、「美福門」および「朱雀門」には、「赤色」のものを、「都芳門」、「皇嘉門」、「殷富門」および「達智門」には、「黄色」のものを、「藻壁門」および「談天門」には、「白色」のものを、「安嘉門」および「偉鑒門」には、「黒色」のものを、立てるそうです。
「公事根源」十二月には、
「青色は春の色ひんかしにたつ赤色は夏のいろ南にたつ白色は秋のいろ西にたつ黒色は冬の色北にたつ四方の門にまた黄色の土牛をたてくはふるは中央土のいろなり木火金水は土ははなれぬ理有」
とあります。
これは、平安時代頃から行われている「追儺」から生まれたそうです。
「新日本紀」慶雲三年十二月の条によると706年にこの「追儺」が始まり(「是年天下諸国疫疾百姓多死始作土牛大儺」とあります)、室町時代に使用されていた「桃の枝」への「信仰」にかわって、炒った「豆」で「鬼」を追い払う「行事」となって行ったそうです。
「臥雲日件録」(瑞渓周鳳)によりますと、1447年に「鬼外福内」を唱えたと記されています。
近代、上記の「宮中行事」が「庶民」に採り入れられたころから、「節分」「当日」の「夕暮れ」、「柊」の「枝」に「鰯」の「頭」を刺したもの(柊鰯)を「戸口」に立てておいたり、「寺社」で「豆撒き」をしたりするようになったそうです。
「節分会」ですが、「節分」の「際」に、「主」に「仏教寺院」で執り行われる「法会」のひとつです。
「節分会」では、多くの場合、「法要」とともに「豆撒き」が行われるそうです。
「節分会・追儺豆まき」ですが、「満願寺」で行われる「恒例行事」で、2月3日(火)に催されます。
「節分会・追儺豆まき」ですが、13時00分から行われ、「満願寺」には多くの「参拝者」、「豆まき」に訪れた「観光客」で賑わうそうです。
「巡礼の寺」「満願寺」で開催されます「節分」に執り行われる「法会」「節分会・追儺豆まき」。
この機会に「銚子市」に訪れてみてはいかがでしょうか?
「満願寺」「節分会・追儺豆まき」詳細
開催日時 2月3日(火) 13時〜
開催会場 満願寺 銚子市天王台9822-1
問合わせ 満願寺 0479-24-8416
備考
「満願寺」では、毎年6月18日に「開山大祭」が行われているそうです。
また「満願寺」「境内」には、6000本の「椿」が植えられ、「椿寺」として12月末から3月まで「花」が楽しめるそうです。
「満願寺」では今後、「中門」「左側」に「五百羅漢堂(ごひゃくらかんどう)」を「建立」する「予定」で、「計画」が進められているそうです。