本日二つ目にご紹介するのは、「九十九里町」(「旭市」〜「いすみ市」)を中心として「千葉県」を代表する「海岸」「九十九里浜(くじゅうくりはま)」です。
「九十九里浜」は、「千葉県」「房総半島」東岸にある「刑部岬」(2011年1月27日のブログ参照)と「大東崎」の間の「太平洋」に面している「全長」約66キロメートルの「海岸」で、「日本の白砂青松100選」と「日本の渚百選」に選定されています。
「九十九里浜」の「古名」は「玉浦」(「玉の浦」)ですが、「源頼朝」の「命」で「6町」を「1里」として、「1里」ごとに「矢」を立てたところ99本に達したという「伝承」から「九十九里浜」と言われるようになったとの「説」が有名である。
古くから用いられていた「長さ」の単位の「1里」は「6町」(「1町」は約109メートル)であり、109メートル×6町×99里=約647キロメートルなので、実際にほぼ「99里」なのだそうです。
また「九十九里浜」中央とされる「山武市蓮沼」には「箭挿神社」があり、その故事に因(ちな)んで、「矢指浦」の「別称」があります。
「九十九里浜」の「歴史」ですが、「貝塚」の他多数の「丸木舟」の出土例があり縄文時代から「人類の活動」の盛んだった「地域」で、「日本列島」に沿って北上する「黒潮」がここを境に「日本列島」から離れる個所であり、「黒潮文化」の「北限」に位置しています。
「古代」には「体系」だった「記録」に欠けるものの、中央部の「栗山川」(2月18日のブログ参照)河口南西側の「横芝光町屋形」はその「地名」が「上総介平良兼」の「屋形」があったことに由来するとされ「平高望」や「良兼」との、また北東側の「匝瑳市生尾」にある「老尾神社」(式内社)は「物部小事」との関係が伝えられており、10世紀以前には「桓武平氏」(坂東平氏)や「操作物部氏」(物部匝瑳連)の「拠点」があったとされています。
「大阪冬の陣」の前年の慶長18年(1613年)、「徳川家康」の「命」により、「江戸城」と「九十九里浜」の中央を結ぶ、ほぼ一直線の「道路」が作られました。
(「鷹狩」を名目とした「軍事プレゼンス」とされています。)
このルートは「大政奉還」後、「小間子牧」の「開墾」(鍋島藩)、「陸軍連兵場」=現在の「自衛隊」「下志津駐屯地」(明治新政府)、「房総導水路」「東金ダム」(水資源開発公団)などによって分断されたが、「山武市小松」からが、「千葉県道124号緑海東金線」(砂押県道)、「船橋」までは、「千葉県道69号長沼船橋線」(「船橋」から「江戸城」までは「京葉道路」)として現存しています。
また江戸時代には、現在の「白子町」や「大網白里町」、「九十九里町」などの「九十九里浜」の南部の地域では「紀州漁民」の「入植」が盛んとなり、「紀州」との「つながり」と「漁業」による繁栄があり、
「九十九里浜といえば地曳網(じびきあみ)によるいわし漁」
のように言われるようになったそうです。
また「栗山川」は、「サケの回帰の南限の川」とされ、「親潮」の影響を受ける「南端」の「地域」でもあります。
「栗山川」上流の旧「山田町」(現「香取市」)の「記録」によれば、「サケ」は昭和32年(1957年)までは「自然遡上」していたとのことです。
その後、「両総用水」と「房総導水路」の「取水堰」(「横芝堰」)のため自力では遡上できなくなっていましたが、平成19年(2007年)に竣工した「横芝堰」の改修に伴い「魚道」が設置され、「堰」上流への遡上が復活されています。
「九十九里浜」には、「海水浴場」がたくさんあります。
北から「旭市」に3つの「海水浴場」、「匝瑳市」に3つの「海水浴場」、「横芝光町」に2つの「海水浴場」、「山武市」に6つの「海水浴場」、「九十九里町」に2つの「海水浴場」、「大網白里町」に3つの「海水浴場」、「白子町」に4つの「海水浴場」、「長生村」に2つの「海水浴場」、「一宮町」に3つの「海水浴場」、「いすみ市」に1つの「海水浴場」があります。
美しい「海岸線」が広がる「九十九里浜」。
晩春、初夏のドライブにお出かけしてみてはいかがでしょうか?
備考
「九十九里浜」は、「アサヒビール株式会社」により助成されている「九十九里浜地域」の「環境保全活動」が行われており、多くの団体の協力もあり、大きな成果があげられているそうです。
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地域情報::九十九里 | 07:50 AM |