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「松山神社の筒粥神事」(匝瑳市)
 本日ご案内するのは、近隣市「匝瑳市」「松山神社」で1月15日(日)に開催されます「松山神社の筒粥神事」です。

 「松山神社」は、「匝瑳市」の中心である「旧・八日市場市」「市街地」の「北西」の「丘陵地帯」に鎮座している「古社」です。
 「松山神社」の「所在地」ですが、「JR総武本線」「八日市場駅」から「県道16号線」を約18km北上後、左折し「県道106号線」を1km程行った「場所」にあり、「松山神社」の「隣」には「匝瑳小学校」があります。
 なお「松山神社」や、「匝瑳小学校」の「敷地」は、その昔「匝瑳の名門」「千葉一族」の「椎名氏」の「居城」であったとされる「松山城」の「跡」なのだそうです。

 「松山神社」の「旧社格」は「村社」で、「松山神社」「御祭神」は「伊弉册命(イザナミノミコト)」、「譽田別命(ホンダワケノミコト)」、「天兒屋根命(アマノコヤネノミコト)」を祀っています。
 「松山神社」の「創建」ですが、「松山神社」「社殿」によりますと、大同元年(806年)と非常に古く、中世には「源頼朝」公が「神領三十貫」を寄せているとされています。

 「松山神社」では、「匝瑳市」の「市指定天然記念物」の「松山神社大杉」があります。
 「松山神社大杉」ですが、「幹周り」7.95m、「樹高」29m、「樹齢」300年以上の「存在感抜群」の「古木」となっています。
 「松山神社」周辺には、その他数本の「杉の巨木」が林立し、「神々しさ(コウゴウシサ)」が漂っています。
 「松山神社」「本殿」は、「風格」のあるしっかりとした「造り」で、「松山神社」「拝殿」には「彫刻」が施されており、「威厳(イゲン)」がある「造り」をしています。

 「正月」を迎え「匝瑳市」各地の「神社」では、「新年」ならではの「特殊神事」が行われ「匝瑳市」「匝瑳地区」に鎮座する「松山神社」の「粥占神事(カユウラナイシンジ)」「松山神社の筒粥神事」もそのひとつなのだそうです。
 「松山神社の筒粥神事」は、古くより伝わる「神事」で、1984年(昭和59年)に「千葉県神社庁特殊神事編纂委員会」が刊行した「房総の祭事」には、「松山神社」の「粥占(夕膳祭(ユウゼンサイ))」が記載されているそうです。
 それによると、「松山神社の筒粥神事」「前日」の「夕方」から「当番」の「家」で、「米」と、「小豆」を混ぜ、「釜」で炊き、その中に「宮司(グウジ)」が準備した「一握り」程の「長さ」の「竹筒」52本を入れます。
 「松山神社の筒粥神事」「当日」15日の「早朝」、「松山神社」の「御神前」に「釜」ごと持参し、「当番」が「竹筒」の中の「粥」と、「小豆」の「入り具合」によって「吉凶」を判断、「神事目録」に記載するそうです。
 「松山神社の筒粥神事」で占うものは、「五穀」をはじめとする「農産物」、「民生」のこと、3月から9月までの「日照り」、「雨水」、「風量」の「多少」等とされています。
 ちなみに、こうした「神占」は、「菅粥(スゲカユ)」、「筒粥神事(ツツカユシンジ)」等とも呼ばれ、「県内」17か所の「神社」で行われていたことが、「房総の祭事」に記載されているそうです。

 「松山神社の筒粥神事」は、260年以上続いている「松山神社」の「神事」で、上記のように「青竹(アオタケ)」の「筒(ツツ)」を入れ、「一晩」煮た「粥(カユ)」の中から、その「竹筒」を取り出して一本づつ割り、中に詰まった「粥の分量」によってその年の「吉凶」を占う「粥占神事」です。
 「松山神社の筒粥神事」ですが、昔「粥の白米」、「小豆」各1升の「割合」でしたが、現在では「小豆」を3合に減らして煮ているそうです。

 「松山神社の筒粥神事」「筒粥占い」の「青竹」ですが、「松山神社」の「正月飾り」を使用。
 古来「占いの青竹」は、7本を1束として7束49本だったものが、現在では53本に改められています。
 「占いの青竹」1本1本に「1年12ヶ月」の「日」、「水」、「風」と、「米」や、「大豆」、「麦」、「芋」等の「作物名」を墨書、また「民」、「百姓」から「地方庁」、「諸官省」、「大臣」とまで記したものもあり、「天下国家」の「吉凶」も占ってきたそうです。
 「松山神社の筒粥神事」は、「年」を重ねるごとに「筒粥神事」の「内容」も少しずつ「変化」をみせています。

 「松山神社」の「氏子」ですが、約百二十戸で、「筒粥神事」はこれを「8地区」程に分けた「当番集落」が受け持っています。
 「筒粥神事」「当日」には、「各地区」の「総代」ら三十人程集まり、「鍋」から上げた「青竹」が「短刀」で二つに割られると、中に詰まった「粥の量」を「真剣」な「表情」で吟味し、「量」を裁定し占うそうです。

 「杉」の「巨木」が林立し「神々しさ」漂う「匝瑳」の「古社」「松山神社」で260年以上続く「粥占神事」「松山神社の筒粥神事」。
 この機会に「匝瑳市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「松山神社の筒粥神事」詳細

 開催日  1月15日(日)

 開催会場 松山神社 匝瑳市松山1127

 問合わせ 匝瑳市生涯学習課生涯学習室 0479-67-1266

 備考
 「松山神社の筒粥神事」が行われる「松山神社」「神社年中祭事社用帳」が伝わり、「元日」から「大晦日(オオミソカ)」までの「行事」と、「役割」を担う「村人」の「名前」や、七つの「寺院名」が詳しく書かれており、この「記録」で確かなように「松山神社の筒粥神事」は、260年以上続いていることが確認されています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=3284 |
| 地域情報::匝瑳 | 02:20 PM |
「URANAI de Choshi Port Tour」(銚子市)
 本日ご紹介するのは、地元「銚子市」「銚子ポートタワー」「展望室」で1月15日(日)に開催されます「URANAI de Choshi Port Tour」です。

 「銚子ポートタワー」(2011年11月30日・2010年9月30日のブログ参照)は、「利根川」(2011年10月9日のブログ参照)「河口」近くにあり、「銚子漁港」(2012年1月24日のブログ参照)を見下ろす「高台」にある「ビュースポット」、「観光スポット」です。
 「銚子ポートタワー」ですが、「高さ」57.7m、「ハーフミラー」で覆われた「建造物」で、「総反射ガラス張り」の「おしゃれ」な「タワー」となっています。
 「銚子ポートタワー」「展望室」からは、「太平洋」の「大海原」をはじめ、遠く「鹿島灘(カシマナダ)」(2012年6月16日のブログ参照)や、「日本一」の「銚子漁港」、「利根川」「河口」も一望でき、「眺望」は素晴らしく「利根川」に沈む「夕景」も楽しめる「観賞スポット」となっています。

 「銚子ポートタワー」は、「千葉県」により、「水産物卸売センター」「ウオッセ21」(2011年4月26日・2010年8月25日のブログ参照)と並ぶ「観光部門施設」として建設され、1991年(平成3年)に竣工しました。
 なお「銚子ポートタワー」は、「千葉県」の「ふるさと千葉5ヶ年計画」の「一環」として建てられたものなのだそうです。
 「銚子ポートタワー」の「設計者」ですが、「(株)横川建築設計事務所」で、「構造様式」は「鉄骨造りハーフミラーガラス」「ツインタワー」となっており、「(一社)銚子市観光協会」が「指定管理」・「運営」しています。

 「銚子ポートタワー」の「概要」ですが、1Fに「インフォメーション」、「昇降ロビー」・「イベントコーナー」・「売店」があります。
 また「銚子ポートタワー」1Fには、「銚子」の「観光」を「ガイド」してくれる「検索システム」も用意されています。
 「銚子ポートタワー」2Fには、「展望ロビー」が設けられており、「展示会」・「イベント」・「催事」・「会議室」などに使われています。
 「銚子ポートタワー」3Fは、「展望ロビー」(高さ・43.05m)、「銚子ポートタワー」4Fが「展望ホール」(高さ・46.95m)となっており、三方を「海」と「川」で囲まれた「銚子の風景」を見渡すことができます。

 「銚子ポートタワー」「隣地」には、「新鮮」な「魚介類」や「国内外」から取り寄せられた「豊富」な「海の幸」を販売している「水産物卸売センター」「ウオッセ21」や「シーフードレストランうおっせ」があります。
 「水産物卸売センター」「ウオッセ21」では、「週末」や「年末」など、「新鮮」な「魚」を買いに来る「買い物客」や「観光客」、「ツアー客」の「皆さん」で賑わいをみせます。
 なお「銚子ポートタワー」から「水産物卸売センター」「ウオッセ21」には、1Fで「連絡用歩道橋」で結ばれて(繋(ツナ)がって)います。

 「占星術(センセイジュツ)」または「占星学(センセイガク)」は、「太陽系内」の「太陽」・「月」・「小惑星」などの「天体」の「位置」や、「動き」などと、「人間」・「社会」の「あり方」を「経験的」に結びつけて占う「科学」(占い)です。
 「占星術」ですが、「古代バビロニア」を「発祥」とするとされ、「ギリシア」・「インド」・「アラブ」・「ヨーロッパ」で発展した「西洋占星術」・「インド占星術」と、「中国」など「東アジア」で発展した「東洋占星術」に大別することができます。

 「占星術」ですが、「古代バビロニア」で行われた「大規模」な「天体観測」が「起源」であり、「ギリシア」・「インド」・「アラブ」・「ヨーロッパ」・「中国」へ伝わったといわれており、主に「国家」や、「王家」の「吉凶判断」に使われていたそうです。
 「バビロニア占星術」は紀元前3世紀頃に「ギリシア」に伝わり、「個人」の「運勢」を占う「ホロスコープ占星術」に発展しました。
 「占星術」を指す「単語」は、「古代ギリシア語」の「アストロロギア」(astrologia)に由来するそうです。
 「アストロロギア」(astrologia)の「アストロ」(astro)という「接頭辞」は「古代ギリシア語」の「astron星」であり、「astrologia」とは「星」について考えたことという「意味」になるそうで、「アストロノミア」(astronoia、英語のastronomy)「天文学」とは「astrologia」のなかで「星」の「動き」などについての「学問」であったそうです。
 (nomasは秩序の意味)
 ちなみに、astrogistは「占星術者」です。

 「中東」・「ヨーロッパ」の「占星術」ですが、「西洋占星術」の「起源」は「バビロニア」にあり、「バビロニア」では、紀元前2千年紀に「天」の「星々」と、「神々」を結びつけることが行われ、「天」の「徴」が「地上」の「出来事」の「前兆」を示すという「考え」も生まれたそうです。
 「エヌーマ・アヌ・エンリル」(Enuma anu enlil、紀元前1000年頃)はそうした「前兆」をまとめたものであるそうですが、ただし、当時「前兆」と結び付けられていた「出来事」は、専ら「君主」や、「国家」に関わる「物事」ばからで、その「読み取り」も「星位」を描いて占うものではなく、「星」にこめた「象徴的」な「意味」(火星は軍神ネルガルに対応していたから凶兆とするなど)を読み取るものに過ぎなかったそうです。
 332年に「アレキサンター大王」によって占領された後、「エジプト」は「ギリシャ」の「支配下」にあったそうで、「ヘレニズム文化」が栄える中で、初めて「本格的」に「ホロスコープ」を用いる「占星術」が現れたそうです。
 「出生時」における「星々」の「位置」から「個人」の「星位図」を「トレース」する「試み」が普及したことは、「西洋占星術」への「ギリシャ人」の「最大」の「貢献」であり、この「システム」は「ホロスコープ占星術」と名付けられました。
 「ギリシャ」で大いに発展したとはいえ、「占星術」のその「大部分」は「バビロニア」からもたらされたものであったそうです。

 「インド占星術」は、「ナクシャトラ」を用いた「インド固有」の「占星術」で、「白道」上の「月」の「位置」に着目し、「天」の「黄道」を27分割に分けた物で占う「占星術」でしたが、ヘレニズム時代に「太陽」と「月」、「5惑星」と「ラーフ」、「ケートゥ」といった「九曜」、「十二宮」と「十二室」に基づく「ホロスコープ方式」の「占星術」を取り入れて、現在の「ナクシャトラ」(白道二十七宿)と、「黄道十二宮」を併用した「形」になったといわれていますが、古い時代のことなのではっきりしたことはわかっていません。
 また「仏教」を取り入れられたものは、「簡略化」(月の厳密な度数で決めず、1日に1つというように割り当てる)・「仏教化」し「宿曜経」にまとめられ、「密教」の一部として「中国」に伝えられたそうです。
 さらに、平安時代には「日本」にも伝えられて「宿曜道」となりました。

 「古代中国」において「天文」とは、「古代世界」の「他」の「文明」でもそうであったように、「狭義」の「天文学」と観測される「天象」による「占い」とが「渾然一体」となったものだったそうです。
 「バビロニア占星術」とは異なり、「天体」の「配置」ではなく「日食」、「月食」、「流星」、「彗星」、「新星」や、「超新星」の出現、そして「星」の「見え方」など「天変現象」に注目したものだったそうです。
 これは「天変」は「天」が与える「警告」であるという「災異説」の「思想」に則ったものであり、これは現代で「天変占星術」とよぶ「人」もいます。
 ただし「バビロニア起源」と考えられる「黄道十二宮」を使った「占星術」の「影響」を受けて成立したと考えられる「六壬神課」の「基本構造」が戦国〜秦〜漢の時代には確立していたそうです。
 「六壬神課」の「式盤」は「サイン」と、「ハウス」で構成された「ホロスコープ」に「中国独自」の「十二天将」を配布したものを表現しています。
 この後、唐の時代に「インド占星術」を漢訳した「宿曜経」が伝来し、「七政四餘」となったそうです。
 「宿曜経」は当時の「日本」でも受容され「宿曜道」となりました。
 しかしその後は実際の「天文観測情報」が「国家」に独占されたこともあり、「煩雑」な「天文計算」の必要がない「暦」を「ベース」とした「占術」が「主流」となって行きました。

 「九星・気学(キュウセイ・キガク)」とは、生まれた「年月日」の「九星」と「干支」、「五行」を組み合わせた「占術」で、「方位」の「吉凶」を知るために使われることが多いそうです。
 「九星術」を元に明治42年に「園田真次郎」氏が「気学」としてまとめたものと、それ以前の「九星術」と合わせて「九星・気学」と総称されます。
 「生年月日」によって定まる「九星」と「十二支」と、「方位」の「吉凶」を知りたい「日」の「九星」と「十二支」を元に占うそうです。
 「九星」と「十二支」は「年」・「月」・「日」・「時」のそれぞれにありますが、このうち「年」と「月」が「運勢」に大きく関係するとされ、また、「生年」によって定まる「九星」を「本命星」、「生まれ月」によって定まる「九星」を「月命星」といいます。

 「九星」はある決まった「法則」で「各方位」を巡回することになっており、「生年月日」によって定まる「九星」と「十二支」との「関係」で「各方位」の「吉凶」を占うそうです。
 「作家」の「池波正太郎」氏は晩年「九星気学」を好んでいたといい、「ミステリー作家」の「高木彬光」氏は「占い全般」に「造詣」が深く、「自身」と「占い」との「関係」や、「気学」の「書物」も残しています。
 「欧米」では、「イギリス」の「風水協会」「会長」、「マクロビオティック協会」の「会長」を務めた、「サイモン・ブラウン」(Simon Brown)が「九星気学」への「造詣」も深く、「全世界」で100万部以上の「ベストセラー」の「著書」もあります。
 「九星」とは以下のこといいます。

 一白水星

 二黒土星

 三碧木星

 四緑木星

 五黄土星

 六白金星

 七赤金星

 八白土星

 九紫火星

 ただし「中国占術」において「九星」と総称されるものは多岐にわたっており、「他」の「九星」と区別する「必要」がある場合は「紫白九星」とよびます。
 これは「園田気学」では否定されましたが、「九星術」の「古形」では三つの「白の星」である、「一白」、「六白」、「八白」を「大吉」とし、「九紫」を「中吉」としたことにちなんでいます。
 なお「五黄」は「大凶」の「星」であり、「五黄」と相対する「方位」も「凶」とされます。

 「銚子」の「人気観光スポット」「銚子ポートタワー」「展望室」では、1月15日(日)に「URANAI de Choshi Port Tour」を開催するそうです。
 「URANAI de Choshi Port Tour」では、「恋愛」、「結婚」、「仕事」、「健康」等、「海」を望む「銚子ポートタワー」「展望室」で、「皆さん」の「運勢」を占うそうです。
 「URANAI de Choshi Port Tour」の「内容」は、下記の通りです。

 「URANAI de Choshi Port Tour」内容

 占い

 タロット
 植物鑑定
 ルノンマンカード
 メモリーオイル
 数秘術

 ※占いは諸事情により、変更する場合がございます。

 料金

 大人380円 小人200円 65歳以上330円

 +占い料金・占いにより料金が異なります。
 (目安・20分 1000円〜)

 「銚子」の「ランドマーク」「銚子ポートタワー」「展望室」で開催される「占い企画」「URANAI de Choshi Port Tour」。
 この機会に「銚子市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「URANAI de Choshi Port Tour」詳細

 開催日時 1月15日(日) 10時〜16時

 開催会場 銚子ポートタワー展望室 銚子市川口町2-6385-267

 入館料  大人380円 小人200円 65歳以上330円

 問合わせ 銚子ポートタワー 0479-24-9500

 備考
 「銚子ポートタワー」「展望室」では、今後も「毎月」「第3日曜日」10時00分から16時00分まで「URANAI de Choshi Port Tour」を開催するそうです。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=3283 |
| 地域情報::銚子 | 02:20 PM |
「新年献詠祭披講式」(香取市)
 本日ご案内するのは、となりまち「香取市」「香取神宮」で1月14日(土)に開催されます「新年献詠祭披講式」です。

 「香取神宮」(2010年11月5日・11月6日のブログ参照)ですが、「香取市」「香取」に鎮座する「日本屈指」の「名社」で、「下総国一宮」です。
 「香取神宮」の「御祭神」ですが、「経津主大神(フツヌシノオオカミ)」(またの名を、伊波比主命(イワイヌシノミコト))を祀っています。
 「経津主大神」は、「天照大神(アマテラスオオミカミ)」の「命令」を受け、「天孫降臨(テンソンコウリン)」に先立ち、「武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)」(鹿島神宮御祭神)とともに「出雲国(イズモコク)」(現在の島根県)に降(クダ)り、「大国主神(オオクニヌシノカミ)」と、「国譲り」を交渉されたことで、「神話」に語られる「神様」で、「神武天皇」「即位」の後、現在の地に奉斎されたと伝承されています。
 本来、「武神」としての「大神」が、「朝廷」の「東国経営」にあたって、奉斎されたとみられています。
 「新抄格勅符抄」806年(大同元年)の「牒(チョウ)」に「神封」70戸とみえ、812年(弘仁3年)以降、「住吉(スミヨシ)社」、「鹿島社」とともに、20年に一度の「式年遷宮」の「制度」が定められ、882年(元慶6年)「下総国」(千葉県北部・茨城県南西部)「神税(シンゼイ)」の「稲」5855把をもって、当時すでに「正一位勲一等」とされていた「本社」の「雑舎料」にあてられ、以後20年毎の「例」とされました。
 「延喜(エンギ)の制」で「名神(ミョウジン)大社」となり、「祈年(キネン)」・「月次(ツキナミ)」・「新嘗(ニイナメ)」の「奉幣」を受けているそうです。
 また、毎年2月と、6月に「藤原氏」1人を「派遣」、「祭儀」を行わせ、「香取郡」を「神郡」として寄せられたそうです。

 古くより「中臣(ナカトミ)氏」、「藤原氏」が崇敬、奉仕しましたが、中世となり、「源頼朝(ミナモトノヨリトモ)」公が崇敬して「神領」を寄進、以後「東国」の「武家」も崇敬、寄進し、近世に入って「徳川家康」公が「朱印領」1000石を寄進、1700年(元禄13年)「将軍」「徳川綱吉(トクガワツナヨシ)」公が「現・本殿」、「楼門」、「神楽殿(カグラデン)」等を造営したそうです。
 「関東」、「東北地方」に「本社」「勧請(カンジョウ)」の「社」が多いのは、「庶民」の「信仰」の「表れ」とみられます。
 「香取神宮」は、明治の制で「官幣大社」となり、「例祭」4月14日、翌15日に「旧・8か町村」の「氏子」が「総出」の「神幸祭」(2015年4月11日・2013年4月9日・2012年4月13日・2011年4月13日のブログ参照)があり、ことに「午年(ウマドシ)」毎の「式年大祭」の「神幸」は「盛大」で、「甲冑姿(カッチュウスガタ)」の「氏子」数千人が供奉(グブ)し、「神輿(ミコシ)」を「利根川」(2011年10月9日のブログ参照)の「御座船」に移しての「船上祭」となるそうです。
 他にも4月「第1週」の「土・日曜日」の「御田植祭(オタウエサイ)」(2016年3月28日・2015年4月3日・2014年4月6日・2013年4月4日・2012年4月6日のブログ参照)には、「一般」に「かとりまち」と呼ばれる「儀」があり、「土曜日」に「拝殿」「前庭」で「耕田式」が、「日曜日」に「田植式」が、多くの「早乙女(サオトメ)」達の「手」で行われます。
 「香取神宮」では、11月30日「夜」の「大饗祭(タイキョウサイ)」(2016年11月27日・2015年11月28日・2014年11月26日・2013年11月26日・2012年11月24日・2011年11月28日のブログ参照)、12月1日の「賀詞祭(ガシサイ)」(2012年11月30日のブログ参照)、12月4日の「内陣神楽(ナイジンカグラ)」(2016年12月3日・2015年12月4日のブログ参照)等、他にも「特殊神事」が多いそうです。
 「香取神宮」には、「社蔵」の「国宝」「海獣葡萄鏡(カイジュウブドウキョウ)」、「古瀬戸黄釉狛犬(コセトオウユウコマイヌ)」「一対」(国指定重要文化財) 、久安(キュウアン)5年(1149年)「在銘」の「双竜文鏡」(双竜鏡)は、「国指定重要文化財」に指定されています。

 「香取神宮」「鳥居」から「香取神宮」「参道」脇は、「サクラ」、「イチョウ」、「ヒマラヤヒダ」、「イロハモミジ」、「スギ」等がみられ、「香取神宮」「社殿」周辺は、「スギ」、「イヌマキ」、「モミ」、「ケヤキ」、「スダジイ」、「カラカシ」、「シロダモ」等があり、「スギ」の「老齢林」として「県下」でも有数です。
 「香取神宮」「社叢(シャソウ)」は、「香取神宮の森」として昭和49年(1974年)に「千葉県」の「県指定天然記念物」に指定されています。
 「香取神宮」「手水舎」脇には、「木母杉」の「跡」があります。
 「木母杉」ですが、「徳川光圀」公が貞享元年(1684年)に「香取神宮」「参宮」の「折」に、「母なるスギ」として命名された「大木」で、現在は枯損して「実生」の「スダジイ」が「跡」に生育しているそうです。
 (貞享元年、水戸光圀公参宮の折、四丈五尺の老木であるのを見て此の宮地の多数の母であろうと木母杉と名付けたとの伝承あり)
 「香取神宮」「社殿」前には、明治44年(1911年)後の「大正天皇」「御手植え」の「クロマツ」があるそうで、「香取神宮」「社殿」周りですが、「スギ」が大半で、その脇に「御神木」の「スギ」があるそうです。
 「御神木」の「スギ」の「樹齢」ですが、1000余年とされ、「目通り」ですが、7.4mとなっています。
 また、「香取神宮」「社殿」脇には「三本杉」があります。
 「三本杉」ですが、「源頼義」公「参拝」の「折」に、

 「天下太平、社頭繁栄、子孫長久の三つの願いが成就せば此の杉三岐に別れよ」

 と祈願したところ、一つの「株」の「スギ」が三つに分かれたという「伝承」があるようです。
 (三本杉、御冷泉天皇御宇源頼義公が参拝し、「天下太平社頭御栄子孫長久の三つの願成就せば杉自ら三岐に別れん」と祈願したところ一株の杉が三岐に別れた。以来これを三本杉と云うとの伝承あり)

 「香取神宮」「参道」から「奥宮」に向かう「小道」の「途中」に「要石(カナメイシ)」があり、その脇の「社叢」に「タケ」が侵入しているそうです。
 「要石」付近には、「タブノキ」、「スダジイ」、「スギ」、「ケヤキ」等が見られ、「奥宮」ですが、「御祭神」の「荒魂」を祀る「お社」で、「奥宮」周辺には「サカキ」、「スギ」が見られるそうです。
 「要石」ですが、「鹿島神宮」のものと同じく、「地震」を起こす「大ナマズ」の「頭」を抑えている「大部分」が「地中」に埋まった「要石」で、「要石」は「地上」に見えている「部分」 はほんの十数cmで、「香取神宮」の「要石」の「地上部分」は丸く、「鹿島神宮」の「要石」の「地上部分」は凹(ヘコ)んでいるそうです。
 ちなみに「鹿島神宮」の「要石」が「大ナマズ」の「頭」、「香取神宮」の「要石」が「大ナマズ」の「尾」を抑えているといわれ、2つの「要石」は「地中」で繋がっているとの「伝承」もあります。
 「香取神宮」の「要石」ですが、「香取神宮」「総門」の「手前」にあり、「鹿島神宮」の「要石」ですが、「鹿島神宮」「境内」ではありますが、「社殿群」から離れた、「鹿島神宮の森」の中にある小さな「祠(ホコラ)」にあります。
 「要石」に纏(マツ)わる「逸話」として、古くは

 「ゆるげどもよもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは」

 と詠(ウタ)われており、江戸時代には、この「歌」を「紙」に書いて、3回唱えて、「門」に張れば、「地震」の「被害」を避けられるといわれたそうです。
 また、「古墳」の「発掘」等も指揮した「徳川光圀」公は、1664年(寛文4年)、「要石」(どちらの「要石」かは「資料」により一定せず)の周りを掘らせたそうですが、「日」が沈んで中断すると、「朝」までの「間」に埋まってしまい、そのようなことが2日続いた後、次は「昼夜兼行」で7日7晩掘り続けたそうですが、「要石」の「底」には達しなかったそうです。

 「香取神宮の森」ですが、「標高」30m〜40m、「香取神宮」「参道」から見ると「亀」に似ていることから、「亀甲山(キッコウサン・カメガセヤマ)」と呼ばれています。
 「千葉県」「西北」、「利根川」(2011年10月9日のブログ参照)「上流」の「野田市」には、「キッコーマン」の「本社」がありますが、「キッコーマン」は、「漢字」で「亀甲萬」と書くそうで、「キッコーマン」の「社名」は、「香取神宮」の「山号」に由来するそうです。
 「香取神宮の森」の「詳細」は、下記の通りです。

 千葉県指定天然記念物

 香取神宮の森

 昭和49年(1974年)3月19日指定

 この地は古くから信仰の場として保護されてきたため、目通り幹囲り3mを超えるスギをはじめ、イヌマキ、モミ等の巨木が林立しており、落葉に埋れた古道や古井戸は往時の景観をしのばせている。
 また森の全景が亀に似ていることから亀甲山と称されている。
 この森の高木層はスギで占めているが、亜高木層にはスダジイ・シカラシ・シロタモ等の常緑広葉樹が多くみられる。
 草木層にはアスカイノデ・フマトシダ・イワガネソウ・ベニシダ等のシダ類をはじめとしてリュウノヒゲ・ヤブラン・フウラン等の草木類が数多く自生している。
 スギの老齢林としては県下でも有数であり、学術的にも貴重なものである。

 昭和60年(1985年)2月1日

 千葉県教育委員会

 「献詠(ケンエイ)」とは、「宮中」や、「神社」等に、「自作」の「詩歌(シイカ)」を奉(タテマツ)ること、また、その「詩歌」の「意味」です。
 「献詠祭」とは、「和歌」を詠んで「宮中」や、「神社」に奉る「祭り」のことです。
 「住吉大社」では、「新年献詠祭」、「松苗神事」、「観月祭」と「年三回」にわたって「献詠祭」が行われており、これらすべて「一般の方」からも「歌」を募集しているそうです。
 「披講」とは、「詩歌」に「曲節」をつけて詠み上げることで、本来、「和歌」は披講することを「前提」としているそうです。
 「披講」の「諸役」には「読師(ドクジ)」・「講師(コウジ)」・「発声(ハッセイ)」各1名、「講頌(コウショウ)」4名があり、「読師」は「司会役」、「読師」が「全句」を「節」をつけずに「歌」を詠み上げた後、「発声」の「先導」によって、「講頌」が唱和するという「形式」で行われます。

 「披講」は、平安時代より「宮中」に伝わってきた「古式」ゆかしい「行事」ですが、鎌倉時代の「鎌倉」においても「源頼朝」公が「花見の宴」を催した際に、「管弦詩歌の儀」を行ったという「記述」が「吾妻鏡(アズマカガミ)」に見られ、また「源実朝」公に至っては「家集」「金塊和歌集」を遺すほど「和歌」に精通し、「源実朝」公は「文人将軍」として知られているそうです。

 「新年献詠祭披講式」ですが、「年」の「初め」、最初に「香取神宮」「御神前」にて「香取神宮献詠会」の「会員」から献上された「短歌」(歌)を「古式」に則り、「独特」の「節回し」で歌い上げ、「年」に一度奉納する「祭事」です。
 「新年献詠祭披講式」は、「神様」に「短歌」(歌)を献上する「お祭り」で、「宮内庁」の「歌会始」に倣(ナラ)い、上記のように「古来」から伝わる「独特」の「節」で「短歌」(歌)を歌うそうです。
 「新年献詠祭披講式」ですが、「終戦」間もない頃から行われている「祭事」で、「香取神宮献詠会」の「会員」の「皆さん」が献上した「歌」の中を、上記のように「宮中」の「歌会始」の「儀」に倣い、奉納する「祭事」となっており、「香取神宮献詠会」「会員」の「皆さん」は、毎月10日までに「歌」を詠進し、14日の「月次祭」に「香取神宮」「神前」に奉納されているそうです。

 「関東屈指」の「名社」「香取神宮」「御神前」に「短歌」(歌)を奉納する「新春」の「祭事」「新年献詠祭披講式」。
 この機会に「香取市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「新年献詠祭披講式」詳細

 開催日時 1月14日(土) 10時半〜

 開催会場 香取神宮 香取市香取1697

 問合わせ 香取神宮 0478-57-3211

 備考
 「新年献詠祭披講式」の「見学」ですが、「一般の方」は「昇殿」出来ませんが、「香取神宮」「社殿」の「外」からの「見学」は出来るそうです。

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「金原の大篝(オオカガリ)」(匝瑳市)
 本日ご案内するのは、近隣市「匝瑳市」「三社神社」で1月9日(祝・月)に開催されます「金原の大篝(オオカガリ)」です。

 「匝瑳市」は、「千葉県」「北東部」に位置する「市」で、2006年(平成18年)1月23日に「八日市場市」と、「匝瑳郡」「野栄町」が合併して誕生し、「匝瑳市」の「発足時」の「人口」約4万2000人だったそうです。
 ちなみに、現在の「匝瑳市」の「人口」ですが、「総人口」37766人、「男性」18659人、「女性」19107人、「世帯数」14500世帯となっています。
 (平成28年11月30日現在)
 「匝瑳市」の「市名」の「由来」ですが、「旧・八日市場市」と、「旧・野栄町」が「匝瑳郡」に属していたことからだそうで、「市名」「匝瑳」ですが、「竹内正浩」氏の「日本の珍地名」(文春新書)で、「難読・誤読地名番付」の「東の横綱」と紹介されています。
 「匝瑳市」の「市役所」「本庁」ですが、「旧・八日市場市役所」を使用し、「匝瑳市」の「市区域」のうち、「旧・八日市場市」は、「植木」(苗木)の「産地」として有名であり、「匝瑳市」は「植木」の「栽培面積」が「日本一」(2011年9月30日のブログ参照)となっています。

 「匝瑳市」の「気候」ですが、1年を通して良好なため、上記のように「温暖な気候」を活かした「農業」が、「匝瑳市」の主(オモ)だった「産業」となっており、「県内屈指」の「米どころ」「水稲」をはじめ、1年を通し出荷され「高品質」を維持している「トマト」、「栽培」の「歴史」が長い「イチゴ」等の「施設栽培」の「野菜」や、「果物」、「ネギ」等の「露地野菜」も盛んに生産されています。
 また「匝瑳市」は、「千葉県唯一」の「赤ピーマン」(2011年6月27日のブログ参照)の「産地」として知られており、「露地物」の「茄子(ナス)」や、「周囲」約30cm・「長さ」1mの「日本一」の「大きさ」を誇る「特大ごぼう」「大浦ごぼう」(2011年1月10日のブログ参照)、「肉質」の良い「黒毛和牛」と、「発育」の良い「乳用牛」をかけ合わせ誕生し、柔らかい「肉質」が「ステーキ」や、「すき焼き」にぴったりな「ブランド牛」「若潮牛(ワカシオギュウ)」等が作られています。

 「匝瑳市」は、「九十九里浜」(2012年5月11日のブログ参照)や、「みどり」豊かな「自然」に恵まれ、上記のように「日本有数」の「植木」や、「水稲」、「施設園芸」、「海の幸」等「恵み」の多い「まち」です。
 また、「匝瑳市」では、「将来像」として掲(カカ)げた

 「海・みどり・人がはぐくむ活力あるまち」

 の「実現」を目指し、「匝瑳市民」の「皆さん」と「力」を合わせて「まちづくり」に取り組まれているそうです。

 「三社神社」ですが、「匝瑳市」「飯倉」に鎮座する「神社」で、「三社神社」の「御祭神」ですが、「伊弉諾尊(イザナミノミコト)」、「事解男命(コトサカノオノミコト)」、「速玉男命(ハヤタマオノミコト)」を祀っています。
 「三社神社」は、「JR総武本線」「飯倉駅」「下車」、「飯倉台」の「住宅地」を通り抜け、約10分程歩くと、「山の端」に「神社」の「鳥居」が見えるそうです。
 「三社神社」ですが、「石段」を上り詰めると、深い「木々」に囲まれたところに「社殿」が建っており、「三社神社」「境内」には「拝殿」、「本殿」があり、「三社神社」「本殿」には、細かい「彫り物」が施されているそうです。
 「三社神社」の「由緒」ですが、下記の通りです。

 この地、匝瑳庄は熊野神宮領であった。
 詳らかではないが、南紀熊野より飯倉西之内の地に勧請し、飯倉郷の鎮守にして、当時十八ヶ村の鎮守として崇敬され、元禄五年壬申の時に再営されたものとされています。
 (「御祭神」、「由緒」ともに「匝瑳郡誌」参照)

 上述のように「金原」には、「鎮守」として「三社神社」が祀られており、江戸時代には「金原」、「安久山」、「片子」、「大堀」の4か村の「村びと」の「信仰」があったそうです。
 「三社神社」の「石灯籠」には、1805年(文化2年)に「同村」の「佐藤四良兵衛」と、4か村の「男女」の「寄付」で、立てられたことが刻まれており、明治時代になり、「三社神社」は、「金原村」だけの「鎮守」となったそうです。

 「金原の大篝(オオカガリ)」ですが、「金原の御奉謝(カナバラノオビシャ)」ともいわれる「三社神社」で、毎年「成人の日」の「未明」に行われている「大篝(オオカガリ)」と、「御的神事」です。
 「金原の大篝(オオカガリ)」は、「成人の日」の「前日」の「午後」から「当番」の「人々」の「手」で準備され、「松薪」や、「青竹」等が、「円錐形(エンスイケイ)」に、「大人」の「背丈」よりも高く「山」のように積み上げられます。
 「金原の大篝(オオカガリ)」では、「三社神社」「社殿」で、「儀式」を行った後、「大篝(オオカガリ)」(高さ約6m、周囲15m)に「火」が入り、「火」が入ると「参拝」の「人」も集まり、「篝火(カガリビ)」を囲み、「御神酒(オミキ)」が振る舞われるそうです。
 「金原の大篝(オオカガリ)」の「大篝(オオカガリ)」ですが、赤々と燃え上がり、時折「青竹」が勢いよくはじけ、まさに「悪疫」を払う、文字通り「炎の神事」となっています。
 また「三社神社」「拝殿」の「周り」には、「弓」と、「的」があり、「大篝(オオカガリ)」に「火」を入れた後、「七五三」の「男子」(子どもたち)が「射手」となり、「矢」を射ることから、「金原の御奉謝(カナバラノオビシャ)」とも呼ばれています。
 なお「金原の大篝(オオカガリ)」の「炎」にあたると、「風邪」をひかないといわれています。

 「飯倉郷十八ヶ村」の「鎮守」「三社神社」で開催される「成人」を祝い、「悪疫」を払う「炎の神事」「金原の大篝(オオカガリ)」。
 この機会に「匝瑳市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「金原の大篝(オオカガリ)」詳細

 開催日時 1月9日(祝・月) 6時〜

 開催会場 三社神社 匝瑳市金原275

 問合わせ 匝瑳市産業振興課 0479-73-0089

 備考
 昭和50年代前半に、「旧・八日市場市域」を調査したところ、1月から2月にかけて、2、3の「集落」を除き、ほとんどが「大字」(集落)「単位」で、「オビシャ」や、「セイレン」が行われていたそうです。
 「旧・八日市場市」では、「行事」の「由来」や、「内容」を記した「記録」も探したそうですが、わずかしか見つからず、その中に、江戸時代の「金原村」(飯高地区)での「御奉謝(オビシャ)」があったそうです。
 「金原村」には「日蓮宗」・「妙大寺」があり、「同寺」で3つの「御奉謝(オビシャ)」が行われていたそうです。
 1月13日は、「本尊」・「三宝様(サンポウサマ)」の「御奉謝(オビシャ)」で、この時に集金した「お金」は、「村内」の「橋」の「架け替え費用」等に充てていたそうです。
 1月28日は、「鬼子母神(キシボジン)」の「オビシャ」があったそうで、1751年(寛延4年)頃から始められたと記され、明治の「記録」にも「お堂」が存在し、「鬼子母神」が「安産信仰」されたことから、おそらく「女オビシャ」であったと推測されています。
 2月8日は、「妙大寺」の「お曽師(ソシ)様」(日蓮)の「オビシャ」で、1852年(嘉永5年)に「村役人」に願い出て始まったとされています。

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「祝新成人イベント」「20歳〜大人への階段チャレンジ〜」(銚子市)
 本日ご紹介するのは、地元「銚子市」「銚子ポートタワー」「階段」、「展望室」で1月8日(日)に開催されます「祝新成人イベント」「20歳〜大人への階段チャレンジ〜」です。

 「銚子市」(2010年9月20日のブログ参照)は、1933年(昭和8年)2月11日、「銚子町」、「本銚子町」、「西銚子町」、「豊浦村」の3町1村が合併し、「全国」で116番目、「千葉県」では「県庁所在地」「千葉市」に次いで「2番目」の「市」として誕生しました。
 その後、「銚子市」は、1937年(昭和12年)に「高神村」、「海上村」、1954年(昭和29年)に「船木村」、「椎柴村」、1955年(昭和30年)に「豊里村」、1956年(昭和31年)に「豊岡村」と順次合併、発展してきました。
 現在の「銚子市」の「人口」ですが、64355人となっており、「世帯数」は27552世帯となっています。
 (2017年(平成29年)1月1日現在)

 「銚子市」は、「関東地方」の「東部」、「千葉県」の「北東部」にある「市」で、「全国屈指」の「漁港のまち」で、「市」の「北部」には「坂東太郎」「利根川」(2011年10月9日のブログ参照)が流れ、「銚子市」で「太平洋」に注いでいます。
 「銚子市」は、「東京」から100km圏内、「関東平野」の「最東端」に位置し、「北」は「利根川」、「東」と「南」は「太平洋」に面しています。
 「銚子市」は、江戸時代に「利根川水運」が開発され、「醤油醸造業」と「漁業」で発展、「農業」は「露地野菜」を中心に発展した「観光都市」です。
 「銚子市」は、「利根川」沿いの「低地」と「北総台地」(下総台地)(2012年7月10日のブログ参照)からなり、「表層」は「関東ローム層」に覆われています。
 「銚子市」には、「北総台地」(下総台地)「最高峰」の「愛宕山」(「標高」73.6m)があり、「水田」は「台地山間」の「谷津田」と「利根川」沿いに広がっており、「畑地帯」は「台地」の「平坦部」に位置し、比較的「農業」(2011年6月15日・2月19日のブログ参照)に適しています。

 「銚子市」は、三方を「水」に囲まれ、「利根川」「河口」から「君ヶ浜」(2011年6月1日のブログ参照)、「犬吠埼」(2012年4月16日のブログ参照)、「屏風ヶ浦(ビョウブガウラ)」(2016年3月2日・2012年5月20日のブログ参照)に至る「海岸線」は、「砂浜」あり、「断崖絶壁(ダンガイゼッペキ)」ありと、「変化」に富んだ「雄大」な「景観美」を織り成しています。
 「銚子市」は、上記のように「利根川」沿いの「低地」と、「北総台地」(下総台地)からなり、「表層」は「関東ローム層」に覆われています。
 「銚子市一」「標高」が高い「愛宕山」(「標高」73.6m)は、「北総台地」(下総台地)「最高峰」の「高さ」を誇り、「愛宕山」の「頂上」付近には、「地球の丸く見える丘展望館」(2010年8月30日のブログ参照)という「人気観光スポット」があり、「北」は「鹿島灘(カシマナダ)」(2012年6月16日のブログ参照)から「筑波山」を望み、「東」と「南」は「一望千里」に「太平洋」の「大海原」を、「西」は「屏風ヶ浦」から「九十九里浜」(2012年5月11日のブログ参照)まで見渡せ、文字通りの「絶景スポット」となっています。
 「銚子市」の「観光スポット」、「見どころ」ですが、「犬吠埼灯台」(2011年1月1日のブログ参照)、「地球の丸く見える丘展望館」、「銚子ポートタワー」(2011年11月30日・2010年9月30日のブログ参照)、「銚子漁港」(2012年1月24日のブログ参照)、「銚子電鉄」(2012年2月11日のブログ参照)、「銚子マリーナ」(2012年10月4日・2010年10月18日のブログ参照)、「水産物卸売センター」「ウオッセ21」(2011年4月26日・2010年8月25日のブログ参照)、「犬吠埼温泉郷」、「外川の町並み」(2010年12月13日のブログ参照)、「銚子ジオパーク」(2012年12月9日・9月25日のブログ参照)等となっています。

 「銚子市」の「位置」・「地勢」ですが、「首都」「東京」から100km、「東経140度50分」、「北緯35度44分」、「関東平野」の「最東端」に位置しています。
 「銚子市」は、「北」は「利根川」を隔て、「茨城県」「神栖市」に対し、「東」から「南」は「太平洋」に臨み、「利根川」沿い「北西方面」は「香取郡」「東庄町」(2012年4月15日・4月5日のブログ参照)と、「太平洋側」「南西方面」は「旭市」と接しています。
 「銚子市」の「面積」ですが、83.91平方kmで、「沖」に流れる「暖流」・「寒流」の「影響」を受け、「夏」は涼しく、「冬」は暖かい「気候」となっています。

 「銚子ポートタワー」は、「利根川」「河口」近くにあり、「銚子漁港」を見下ろす「高台」にある「ビュースポット」、「観光スポット」です。
 「銚子ポートタワー」ですが、「高さ」57.7m、「ハーフミラー」で覆われた「建造物」で、「総反射ガラス張り」の「おしゃれ」な「タワー」となっています。
 「銚子ポートタワー」「展望室」からは、「太平洋」の「大海原」をはじめ、遠く「鹿島灘(カシマナダ)」や、「日本一」の「銚子漁港」、「利根川」「河口」も一望でき、「眺望」は素晴らしく「利根川」に沈む「夕景」も楽しめる「観賞スポット」となっています。

 「銚子ポートタワー」は、「千葉県」により、「水産物卸売センター」「ウオッセ21」と並ぶ「観光部門施設」として建設され、1991年(平成3年)に竣工しました。
 なお「銚子ポートタワー」は、「千葉県」の「ふるさと千葉5ヶ年計画」の「一環」として建てられたものなのだそうです。
 「銚子ポートタワー」の「設計者」ですが、「(株)横川建築設計事務所」で、「構造様式」は「鉄骨造りハーフミラーガラス」「ツインタワー」となっており、「(一社)銚子市観光協会」が「指定管理」・「運営」しています。

 「銚子ポートタワー」の「概要」ですが、1Fに「インフォメーション」、「昇降ロビー」・「イベントコーナー」・「売店」があります。
 また「銚子ポートタワー」1Fには、「銚子」の「観光」を「ガイド」してくれる「検索システム」も用意されています。
 「銚子ポートタワー」2Fには、「展望ロビー」が設けられており、「展示会」・「イベント」・「催事」・「会議室」などに使われています。
 「銚子ポートタワー」3Fは、「展望ロビー」(高さ・43.05m)、「銚子ポートタワー」4Fが「展望ホール」(高さ・46.95m)となっており、三方を「海」と「川」で囲まれた「銚子の風景」を見渡すことができます。

 「銚子ポートタワー」「隣地」には、「新鮮」な「魚介類」や「国内外」から取り寄せられた「豊富」な「海の幸」を販売している「水産物卸売センター」「ウオッセ21」や「シーフードレストランうおっせ」があります。
 「水産物卸売センター」「ウオッセ21」では、「週末」や「年末」など、「新鮮」な「魚」を買いに来る「買い物客」や「観光客」、「ツアー客」の「皆さん」で賑わいをみせます。
 なお「銚子ポートタワー」から「水産物卸売センター」「ウオッセ21」には、1Fで「連絡用歩道橋」で結ばれて(繋(ツナ)がって)います。

 「水産物卸売センターウォッセ21」は、「銚子市」「川口町」に平成3年(1991年)6月23日にオープンした「銚子市」の「第3セクター」「銚子水産観光株式会社」が9億2千万円をかけて建設した「海産物の販売」や「銚子の特産品」を「紹介」・「販売」をしている「観光商業施設」です。
 「水産物卸売センターウオッセ21」では、オープン当初、15軒の「海産物業者」が出店していたそうで、現在、「水産物卸売センターウオッセ21」には、14店舗の「店」と、「水産物卸売センターウオッセ21」「2F」に「シーフードレストランうおっせ」が営業しています。
 「水産物卸売センターウオッセ21」ですが、「Aブロック商店街」と「Bブロック商店街」からなり、それぞれの「店ごと」に「逸品」が揃っています。

 「水産物卸売センターウオッセ21」「Aブロック商店街」の「店舗」は、下記の通りです。

 活きな魚や網元 久保甚

 水産加工品 つじの

 無形文化財 銚子ちぢみ (2012年1月11日のブログ参照)

 食事どころ 魚座屋

 海産物全般 ヤマワカ

 練り物・磯揚げ 嘉平屋 (2010年9月4日のブログ参照)

 「水産物卸売センター」「ウオッセ21」「Bブロック商店街」の「店舗」は、下記の通りです。

 旬味処 たかね

 キッチンライフ 銚子東洋

 味処 まほろば

 濡れせん・銚子地酒 海風 (2011年12月11日のブログ参照)

 高級干物 一政

 ふるさとの味 しだや

 さかな工房 かねまた水産

 干物工房 あてんぼう

 となっています。

 「水産物卸売センターウオッセ21」の「Aブロック商店街」、「Bブロック商店街」で買った「商品」は「宅急便」で送ることができるので、「クーラーバック」がなくても安心なのだそうです。
 また「水産物卸売センターウオッセ21」「2F」には、上記のように「シーフードレストランうおっせ」があり、「ウオッセ21」の「中庭」には、「中庭休憩所」、「自動販売機コーナー」があります。

 この度(タビ)「銚子ポートタワー」では、「新成人」になる「皆さん」に「展望室」まで「階段」で登る「催し」「祝新成人イベント」「20歳〜大人への階段チャレンジ〜」を開催するそうです。
 「祝新成人イベント」「20歳〜大人への階段チャレンジ〜」ですが、「成人の日」(1月9日)の「前日」1月8日(日)に開催され、「地上」47mの「銚子ポートタワー」「展望室」を目指し、「素敵」な「男性」または「女性」になるべく、一歩一歩「階段」を登って行くという「内容」で行われるそうです。
 ちなみに「銚子ポートタワー」「展望室」までの「階段」の「段数」ですが、245段なのだそうです。
 「祝新成人イベント」「20歳〜大人への階段チャレンジ〜」「参加方法」は、下記の通りです。

 「階段チャレンジ参加方法」

 一、自らの足で登ることを宣言する

 ※銚子ポートタワー1階受付カウンターでスタッフにお伝えください

 二、自分が新成人であることを証明する

 ※年齢の確認できる身分証(運転免許証など)を受付カウンターでスタッフにお見せください

 三、展望室入場券を買い求める

 ※一・二のあと「展望室入場券」を特別料金(380円〜200円)で購入してください。

 四、エレベーターホール脇より展望室へ続く階段をひたすら登る

 ※タイムレースではありませんので自分のペースで登ってください

 五、階段途中にある障害をクリアする

 ※階段途中に用意してあるクイズに挑戦してください

 六、展望室のコーヒーショップにて登りきったことを伝える

 ※展望室入場券とクイズの答えをスタッフに伝えてください

 「祝新成人イベント」「20歳〜大人への階段チャレンジ〜」では、見事「銚子ポートタワー」「展望室」まで登り切った方には、「登頂証明書」と、「記念品」をお渡しするそうです。
 なお、「祝新成人イベント」「20歳〜大人への階段チャレンジ〜」で、「階段」を登っている途中で「身体」の「不調」を感じた時は「銚子ポートタワー」「スタッフ」が巡回しているそうですので、お声掛け下さいとのことです。

 「銚子」の「ランドマーク」「銚子ポートタワー」「展望室」で開催される「新成人」のために行われる「階段チャレンジ」「祝新成人イベント」「20歳〜大人への階段チャレンジ〜」。
 この機会に「銚子市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「祝新成人イベント」「20歳〜大人への階段チャレンジ〜」詳細

 開催日時 1月8日(日) 9時〜16時の間、随時

 開催会場 銚子ポートタワー展望室 銚子市川口町2-6385-267

 入館料  1名200円(展望室入場特別料金)
 ((通常)大人380円 小人200円 65歳以上330円)

 問合わせ 銚子ポートタワー 0479-24-9500

 備考
 「祝新成人イベント」「20歳〜大人への階段チャレンジ〜」ですが、「年齢」を確認できる「証明書」の「提示」と、「イベント」に参加するということを「銚子ポートタワー」「受付カウンター」で伝えることが必要で、「階段チャレンジ」を参加される方は「階段」を登るため、動きやすい「服装」での「参加」を呼びかけています。

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| 地域情報::銚子 | 06:14 PM |
「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」(香取市)
 本日ご案内するのは、となりまち「香取市」「側高神社」で1月8日(日)に開催されます「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」です。

 「側高神社」ですが、「香取市」「大倉」に鎮座する「神社」で、「側高神社」の「社格」ですが、「香取神宮」「摂社」、「郷社」で、「利根川」(2011年10月9日のブログ参照)「下流域」には「ソバタカ」と、「社名」を読む「神社」が多く分布していますが、「当社」「側高神社」は、それらの「本社」とされています。
 ちなみに「利根川」「下流域」の「ソバタカ」のつく「神社」ですが、「側高」、「側鷹」、「脇鷹」、「蘇羽鷹」、「隣高」、「相馬高」、「祖波鷹」、「蕎高」等、「漢字」で表記すると様々な「表記」となるそうです。
 「側高神社」の「創建」ですが、「香取神宮」(2010年11月5日・6日のブログ参照)と同じ、「神武天皇18年」の「創建」と伝えられ、「側高神社」「御祭神」は、昔から「神秘」とされており、明らかではなく、現在は「一般名称」として、「側高大神」と称されています。
 「香取郡誌」では、「側高神社」の「御祭神」について、「主祭神」を「高皇産霊尊(タカムスビノミコト)」、「神皇産霊尊(カミムスビノミコト)」、「相殿神」を「天日鷲命(アメノヒワシノカミ)」・「経津主神(フツヌシノミコト)」・「天児屋根命(アメノコヤネノミコト)」・「武甕槌命(タケミカヅチノミコト)」・「姫御神(ヒメミカミ)」とされており、これら「側高神社」「御祭神」の中に「忌部氏系」の「天日鷲命」が見られることと、「側高神社」の「成立」との「関係性」が指摘されており、また「経津主命」(香取神宮・御祭神)の「后神」が「御祭神」であるという「説」もあるそうです。
 「側高神社」は、「香取神宮」「第一」の「摂社」であり、慶長・元禄と「江戸幕府」による「造営」があり、1908年(明治41年)に「大倉」「字石神代」の「落文神社(オトシブミジンジャ)」と、「大倉」「字一夜山」の「一夜山神社(ヒトヨヤマジンジャ)」(疱瘡(ボウソウ)除(ヨ)けとして信仰される神社)が合祀されています。

 「側高神社」は、「利根川」を見下ろす「台地」に建立されており、はるか昔は「香取ヶ浦」と呼ばれる「広大」な「内海」が「眼下」に広がっていたであろうと想像され、「側高神社」「境内」には、「樹齢」500年を越えるといわれる「夫婦杉」があり、さらに「太さ」7.4mもの「杉」の「御神木」も見事に聳(ソビ)え立っているそうです。
 ちなみに「香取ヶ浦」とは、現在の「利根川」・「北浦」(2011年12月6日のブログ参照)・「外浪逆浦(ソトナサカウラ)」(2011年1月30日のブログ参照)を含んだ「地域」の「通称」です。
 「側高神社」の「歴史」ですが、「香取志」には、「側高神社」は、上記のように「香取神宮」の「第一摂社」とあり、古くより「香取神宮」との「関係」が深かったことがうかがわれます。
 寛元元年(1243年)の「文書」には、「香取神宮」とともに「造替」があったことが記載されており、鎌倉時代には「社殿」は「一間」で「茅葺」、「作料官米」30石が「造営」に充てられた「旨」が記載されているそうです。
 慶長12年(1607年)、元禄13年(1700年)の「江戸幕府」による「香取神宮」「修造」の際にも、同時に「側高神社」の「修造」が行われており、これらの「古文書」には「脇鷹」、「曽波鷹」という「表記」も見られるそうです。
 「側高神社」ですが、1916年(大正5年)「御代礼記念」とし「社殿」を改造、1931年(昭和6年)には「国鉄成田線」(現・JR成田線)「工事」のために「神井」を「現在地」の「鳥居」脇に移設、「県道」(現・国道356号線)から「階段」(現在は通行不可)が新設されています。

 「側高神社」の「社伝」ですが、上記のように「香取神宮」の「創建」と同じく、「神武天皇18年」の「創建」といわれています。
 また「側高神社」「社伝」には、下記の「伝承」が残っています。

 昔、側高神が香取神の命により、陸奥(東北地方)の馬2000疋を捕らえて、霞ヶ浦の浮島まで帰ってきたところ、陸奥神が馬を惜しんで追いかけてきました。
 そこで側高神は、潮干珠を用い霞ヶ浦を干潟にして潮を引かせ、馬を下総の地に渡らせ、次いで馬を渡し終えると、今度は霞ヶ浦を潮満珠で潮を満たし満潮にして、陸奥神を渡れなくしました。

 との「伝承」があり、この「伝承」から「側高神社」が、古代に担った「役割」が推察されます。
 また「側高神社」の「末社」「落文神社(オトシブミジンジャ)」には、「鹿島神宮」(2010年11月8日・9日・10日のブログ参照)の「神」が、「香取神宮」の「神」に「文」を出し、「使いの鹿」が「猟師」に狙われた時に「文」を落としてしまい、その「心労」のために死んでしまった「使いの鹿」を祀ったものとの「伝承」があります。

 「側高神社」の「文化財」ですが、「側高神社」「本殿」が、「千葉県」の「県指定有形文化財」(昭和57年(1982年)4月6日指定)に指定されています。
 「側高神社」「本殿」ですが、寛文5年(1665年)の「建立」の「一間社流造」の「独自」の「構造」を持つ「本殿」となっており、「彩色文様」や、「彫刻」には、桃山時代の「建築様式」の「特色」が見られるそうです。
 「側高神社」は、上記のように「香取神宮」の「修造」との「関係」や、「建築様式」から、慶長年間に「畿内」「出身」の「名工」に学んだ「工匠」の「手」によるものと見られており、「側高神社」「本殿」は、「地方色」の強い「建築物」となっており、「貴重なもの」という「観点」から、上記のように「千葉県」の「県指定有形文化財」に指定されているそうです。

 「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」ですが、約800年前・鎌倉時代の建保2年(1214年)から続いている「側高神社」に伝わる「伝統行事」で、「香取神宮」「御祭神」「経津主大神」の「御神徳」を称え、「国土の平安」・「五穀豊穣」・「子孫繁栄」を祈念・祈願する「質朴勇壮」な「酒祭」です。
 「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」は、「大倉」「村中」の「氏族別」に18組に分け、「18当番」の「各組」が毎年「相互」に2組ずつ「祭り当番」・「請当番」として奉仕する「しきたり」で、「祭り当番引き継ぎ」の「行事」として執り行われています。
 「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」では、上記のように「氏子」の「間」で「祭り当番」を引き継ぐ「儀式」として、「西側」に座した「当番」が「東側」に座す「新当番」に「酒」を勧める際、「立派」な「髭(ヒゲ)」を撫(ナ)でることから「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」と呼ばれるようになったそうです。

 「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」は、1月第2日曜日の「午後」に催行されている「地区」の「当番引き継ぎ行事」(他地区でいうオビシャ)で、はじめられた「当初」から、「弓」を射らず「祭り当番」の「引き継ぎ式」(引渡し式)と、「五穀豊穣」・「子孫繁栄」を祈念・祈願する「杯事」のみを行います。
 「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」「当日」、「側高神社」「神前」に「注連縄(シメナワ)」を張り、「鶴亀」遊ぶ「蓬莱山(ホウライサン)」を飾り、「両当番」は、「西」と、「東」に分かれて「酒」を飲み合います。
 「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」では、まず「神職」により、「祭り当番」の「引き継ぎ式」(「神祭」をする「当番」の「引き継ぎ式」)が行われ、「七引き合いの杯事」が行われます。
 「七引き合いの杯事」ですが、「年番」のみが「髭(ヒゲ)」をつけており、「紋付羽織袴(モンツキハオリハカマ)」という「古式」の「礼装」に「威儀」を正し、「荒筵(アラムシロ)」の上に「箸座」し、二人ずつ「交互」に出て、「七引き合いの杯事」を行い、「初献」より「七献目」(満献)まで、「一杯」・「三」・「五」・「七」・「七」・「五」・「一杯」と定められています。
 この「定められた杯」を飲み干したのち、「請年番」は断れない「しきたり」になっており、これが「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」といわれる「所以(ユエン)」となっています。
 上述のように「七引き合いの杯事」では、「紋付羽織袴」を着た「新・旧当番地区」の「人」が「互い」に向き合って座り、「髭(ヒゲ)」を撫(ナ)でたら、大きな「椀(ワン)」で、「お酒」を飲み合い、「髭(ヒゲ)」を撫(ナ)でられた「新当番」は「大椀」で、「何杯」でも応じなければならない「作法」により、「酒」を飲み干し、「紋付羽織袴」で、「大仰」に「カイゼル髭(ヒゲ)」を撫でる「姿」が、「笑い」を誘うなんとも「ユーモラス」な「行事」となっています。
 「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」「七引き合いの杯事」では、見事に飲み干す度(タビ)に「勇者」を褒(ホ)めはやす「閧(トキ)の声」が、「新年早々」の「側高山」に沸き上がり、今なお昔ながらの古式ゆかしく、「五穀豊穣」、「子孫繁栄」を祈念して引き継がれており、「貴重」な「伝統文化」として、「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」は、昭和52年(1977年)に「香取市」の「市指定無形民俗文化財」(昭和52年6月1日制定)に指定されており、「千葉県」の「房総の魅力500選」のひとつにも選定されています。

 「香取神宮」の「御祭神」「経津主大神」と、「縁故」の深い「神様」を祀るとされる「神社」「側高神社」で開催される「ユーモラス」な「伝統行事」「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」。
 この機会に「香取市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」詳細

 開催日時 1月8日(日) 13時半頃〜

 開催会場 側高神社 香取市大倉5

 問合わせ 側高神社 0478-57-1545

 備考
 「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」「当日」は、「会場」である「側高神社」「境内」にて、「甘酒」等振る舞われるので、「寒さ」を忘れて「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」を楽しめるそうです。
 「髭撫祭(ヒゲナデサイ)」の催行される「側高神社」には、「四箇の甕」と呼ばれる、4つの「甕」があります。
 「四箇の甕」ですが、「側高神社」の「鳥居」をくぐって、「側高神社」「拝殿」へと向かう「石段」の「脇」にあり、「春の甕」、「夏の甕」、「秋の甕」、「冬の甕」と呼ばれる4つの「甕」で、「四箇の甕」は、それぞれの「甕」の中の「雨水量」(水量)がその年(四季折々)の「降水量」を占う(示す)と伝えられています。

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「平成29年(2017年)銚子市成人式」(第69回銚子市成人式)(銚子市)
 本日ご紹介するのは、地元「銚子市」「銚子市青少年文化会館」「大ホール」で1月8日(日)に開催されます「平成29年(2017年)銚子市成人式」(第69回銚子市成人式)です。

 「銚子市」(2010年9月20日のブログ参照)は、1933年(昭和8年)2月11日、「銚子町」、「本銚子町」、「西銚子町」、「豊浦村」の3町1村が合併し、「全国」で116番目、「千葉県」では「県庁所在地」「千葉市」に次いで「2番目」の「市」として誕生しました。
 その後、「銚子市」は、1937年(昭和12年)に「高神村」、「海上村」、1954年(昭和29年)に「船木村」、「椎柴村」、1955年(昭和30年)に「豊里村」、1956年(昭和31年)に「豊岡村」と順次合併、発展してきました。
 現在の「銚子市」の「人口」ですが、64355人となっており、「世帯数」は27552世帯となっています。
 (2017年(平成29年)1月1日現在)

 「銚子市」は、「関東地方」の「東部」、「千葉県」の「北東部」にある「市」で、「全国屈指」の「漁港のまち」で、「市」の「北部」には「坂東太郎」「利根川」(2011年10月9日のブログ参照)が流れ、「銚子市」で「太平洋」に注いでいます。
 「銚子市」は、「東京」から100km圏内、「関東平野」の「最東端」に位置し、「北」は「利根川」、「東」と「南」は「太平洋」に面しています。
 「銚子市」は、江戸時代に「利根川水運」が開発され、「醤油醸造業」と「漁業」で発展、「農業」は「露地野菜」を中心に発展した「観光都市」です。
 「銚子市」は、「利根川」沿いの「低地」と「北総台地」(下総台地)(2012年7月10日のブログ参照)からなり、「表層」は「関東ローム層」に覆われています。
 「銚子市」には、「北総台地」(下総台地)「最高峰」の「愛宕山」(「標高」73.6m)があり、「水田」は「台地山間」の「谷津田」と「利根川」沿いに広がっており、「畑地帯」は「台地」の「平坦部」に位置し、比較的「農業」(2011年6月15日・2月19日のブログ参照)に適しています。

 「銚子市」は、三方を「水」に囲まれ、「利根川」「河口」から「君ヶ浜」(2011年6月1日のブログ参照)、「犬吠埼」(2012年4月16日のブログ参照)、「屏風ヶ浦(ビョウブガウラ)」(2016年3月2日・2012年5月20日のブログ参照)に至る「海岸線」は、「砂浜」あり、「断崖絶壁(ダンガイゼッペキ)」ありと、「変化」に富んだ「雄大」な「景観美」を織り成しています。
 「銚子市」は、上記のように「利根川」沿いの「低地」と、「北総台地」(下総台地)からなり、「表層」は「関東ローム層」に覆われています。
 「銚子市一」「標高」が高い「愛宕山」(「標高」73.6m)は、「北総台地」(下総台地)「最高峰」の「高さ」を誇り、「愛宕山」の「頂上」付近には、「地球の丸く見える丘展望館」(2010年8月30日のブログ参照)という「人気観光スポット」があり、「北」は「鹿島灘(カシマナダ)」(2012年6月16日のブログ参照)から「筑波山」を望み、「東」と「南」は「一望千里」に「太平洋」の「大海原」を、「西」は「屏風ヶ浦」から「九十九里浜」(2012年5月11日のブログ参照)まで見渡せ、文字通りの「絶景スポット」となっています。
 「銚子市」の「観光スポット」、「見どころ」ですが、「犬吠埼灯台」(2011年1月1日のブログ参照)、「地球の丸く見える丘展望館」、「銚子ポートタワー」(2011年11月30日・2010年9月30日のブログ参照)、「銚子漁港」(2012年1月24日のブログ参照)、「銚子電鉄」(2012年2月11日のブログ参照)、「銚子マリーナ」(2012年10月4日・2010年10月18日のブログ参照)、「水産物卸売センター」「ウオッセ21」(2011年4月26日・2010年8月25日のブログ参照)、「犬吠埼温泉郷」、「外川の町並み」(2010年12月13日のブログ参照)、「銚子ジオパーク」(2012年12月9日・9月25日のブログ参照)等となっています。

 「銚子市」の「位置」・「地勢」ですが、「首都」「東京」から100km、「東経140度50分」、「北緯35度44分」、「関東平野」の「最東端」に位置しています。
 「銚子市」は、「北」は「利根川」を隔て、「茨城県」「神栖市」に対し、「東」から「南」は「太平洋」に臨み、「利根川」沿い「北西方面」は「香取郡」「東庄町」(2012年4月15日・4月5日のブログ参照)と、「太平洋側」「南西方面」は「旭市」と接しています。
 「銚子市」の「面積」ですが、83.91平方kmで、「沖」に流れる「暖流」・「寒流」の「影響」を受け、「夏」は涼しく、「冬」は暖かい「気候」となっています。

 「銚子市青少年文化会館」は、「市民会館」、「児童文化センター」、「都市青年の家」からなる「公共施設」で、それぞれの「機能」を活かしながら、「総合的」に運営されている「施設」です。
 また「銚子市青少年文化会館」ですが、「自主文化事業」を通して、「芸術文化」に親しめる「機会」を提供することにより、「地域文化」の「向上」を図っています。
 「銚子市青少年文化会館」は、「銚子市民」の「憩いの場」、「交流の場」として、多くの方に利用されています。

 「銚子市青少年文化会館」の「施設内容」ですが、「市民会館施設」として、「大ホール」、「楽屋」等、「児童施設」として「中ホール」、「小ホール」、「展示室」、「工作室」、「プラネタリウム室」等、「青年施設」として「会議室」、「和室」、「学習室」、「視聴覚ライブラリー室」等となっています。

 「平成29年(2017年)銚子市成人式」(第69回銚子市成人式)ですが、「成人の日」の「前日」1月8日(日)10時00分(受付開始・9時30分〜)から「銚子市青少年文化会館」「大ホール」で開催される「催し」です。
 今年(2017年)の「成人式」の「該当者」ですが、平成8年(1996年)4月2日から平成9年(1997年)4月1日までに生まれた「人」で、「銚子市」に「住民登録」がある「人」(銚子市住民登録者)が584人(男性304人、女性280人)、「銚子市外」で「住民登録」しているものの、「故郷」・「銚子」で「成人式」をあげたいと、申し込みをした「人」49人(男性18人、女性31人)を含め、「平成29年(2017年)銚子市成人式」(第69回銚子市成人式)には、「合計」633人の「出席」が見込まれているそうです。
 「平成29年(2017年)銚子市成人式」(第69回銚子市成人式)では、「新成人」を代表して「抱負」を述べるのは、「男性」が「銚子七中」出身の「太田和輝」さんと、「女性」が「銚子三中」出身の「宮内汐海」さんが、それぞれが「仕事」や、「学生生活」を通して感じたこと、将来について考えている「抱負」等を発表するそうです。
 「平成29年(2017年)銚子市成人式」(第69回銚子市成人式)の「タイムスケジュール」は、下記の通りです。

 平成29年(2017年)銚子市成人式(第69回銚子市成人式)タイムスケジュール

 10時00分〜

 小・中学生の卒業アルバムを収録した「スイートメモリーズ」の上映

 10時20分〜

 1 開式の言葉(銚子市教育委員会教育長)

 2 国歌斉唱

 3 銚子市歌斉唱

 4 式辞(越川信一市長)

 5 来賓の激励の言葉

 6 来賓紹介

 7 成人の抱負

 8 閉式の言葉(銚子市社会教育委員長)

 「平成29年(2017年)銚子市成人式」(第69回銚子市成人式)に出席される「成人」の「皆さん」には、「記念品」が贈られるそうで、「成人」になった「お祝い」に贈られる今年(2017年・平成29年)の「記念品」ですが、「犬吠WAONカード」(地域通貨・すきくるスター500スター付与)となっています。
 なお、「銚子市教育委員会」からの「案内ハガキ」をお持ちでない方も、「平成29年(2017年)銚子市成人式」(第69回銚子市成人式)では、当日参加大歓迎だそうです。

 「銚子市民」の「憩いの場」「銚子市青少年文化会館」で開催される「恒例」の「行事」・「式典」「平成29年(2017年)銚子市成人式」(第69回銚子市成人式)。
 「新成人」になる「皆さん」の「多幸」を祈念しています。

 「平成29年(2017年)銚子市成人式」(第69回銚子市成人式)詳細

 開催日時 1月8日(日) 10時〜

 開催会場 銚子市青少年文化会館 銚子市前宿町1046

 問合わせ 銚子市生涯学習スポーツ課 0479-24-9559

 備考
 「銚子市」のとなりまち「茨城県」「神栖市」も、「成人の日」の「前日」1月8日(日)に「神栖市文化センター」「大ホール」にて「神栖市平成29年成人式」が開催されます。
 ちなみに「茨城県」「神栖市」も「対象」は、平成8年(1996年)4月2日から平成9年(1996年)4月1日生まれまでの「新成人」だそうです。
 「神栖市平成29年成人式」ですが、「神栖市文化センター」「大ホール」を「会場」に、9時00分から「受付開始」、10時00分から「式典開始」となっています。

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「小高のはだか参り」(匝瑳市)
 本日ご案内するのは、近隣市「匝瑳市」「妙長寺」から「八坂神社」で1月8日(日)に開催されます「小高のはだか参り」です。

 「匝瑳市」は、「千葉県」の「北東部」に位置し、「首都」「東京」から70km圏、「世界の空の玄関口」(WORLD SKY GATE)「成田国際空港」(2012年12月10日のブログ参照)からは「車」で30分の「距離」にあり、「匝瑳市」の「中心部」を「JR総武本線」と、「国道126号線」が「東西」に走り、「成田方面」とは「国道296号線」で結ばれています。
 「匝瑳市」の「面積」は101.78平方kmで、「匝瑳市」の「市役所本庁」は「旧・八日市場市役所」を使用し、「匝瑳市」の「市区域」のうち、「旧・八日市場市」は「植木」(苗木)の「産地」として「有名」であり、「匝瑳市」は「植木」の「栽培面積」が「日本一」となっており、「匝瑳市」は、「日本有数の植木のまち」(2011年9月30日のブログ参照)として知られています。

 「匝瑳市」の「北部」は「谷津田」が入り組んだ「複雑」な「地形」の「台地部」となっており、一方「匝瑳市」の「南部」は「九十九里浜」(2012年5月11日のブログ参照)に面する「平坦」な「地形」となっています。
 「匝瑳市」に隣接する「自治体」ですが、「旭市」(旭地区、干潟地区)、「香取市」(山田地区)、「香取郡」「多古町」、「山武郡」「横芝光町」(光地区)となっています。
 「匝瑳市」の「気候」は「海洋性」の「温暖」な「気候」で、「年間平均気温」は15度、「東京」周辺と比べると、「夏」涼しく「冬」暖かい、とても過ごしやすい「土地柄」で、「冬」でもほとんど「降雪」は見られません。

 「匝瑳市」は、2006年(平成18年)1月23日、「八日市場市」と「野栄町」が合併して誕生しました。
 「匝瑳市」「合併」の「発足時」の「人口」ですが、約4万2000人で、「匝瑳市」の「市名」の「由来」ですが、「旧・八日市場市」と「旧・野栄町」が「匝瑳郡」に属していたことから「決定」されたそうです。
 ちなみに、現在の「匝瑳市」の「人口」ですが、「総人口」37766人、「男性」18659人、「女性」19107人、「世帯数」14500世帯となっています。
 (平成28年11月30日現在)
 この度(タビ)「匝瑳市」では、「平成29年匝瑳市成人式」を1月8日(日)に「市民ふれあいセンター」「3階大ホール」(匝瑳市役所隣接)で開催するそうで、「平成29年匝瑳市成人式」では、平成8年(1996年)4月2日から平成9年(1997年)4月1日までに生まれた「匝瑳市在住者」及び、「匝瑳市出身者」となっており、「平成29年匝瑳市成人式」ですが、上述のように1月8日(日)10時30分から「開式」(受付は9時30分から)されるそうです。

 なお「匝瑳市」の「市名」ですが、「竹内正浩」氏の「日本の珍地名」(文春新書)で「難読・誤読地名番付」の「東の横綱」と紹介されています。

 「匝瑳市」の「気候」ですが、1年を通して「良好」なため、上記のように「温暖」な「気候」を活かした「農業」が、「匝瑳市」の主(オモ)だった「産業」となっており、「県内屈指」の「米どころ」「水稲」をはじめ、1年を通し出荷され「高品質」を維持している「トマト」、「栽培」の「歴史」が長い「いちご」などの「施設栽培」の「野菜」や「果物」、「ねぎ」などの「露地野菜」も盛んに生産されています。
 また「匝瑳市」は、「千葉県」「唯一」の「赤ピーマン」(2011年6月27日のブログ参照)の「産地」として知られており、「露地物」の「茄子(ナス)」や、「周囲」約30cm・「長さ」1mの「日本一」の「大きさ」を誇る「特大ゴボウ」「大浦ごぼう」(2011年1月10日のブログ参照)、「肉質」の良い「黒毛和牛」と「発育」の良い「乳用牛」をかけ合わせ誕生し、柔らかい「肉質」が「ステーキ」や「すき焼き」にぴったりな「ブランド牛」「若潮牛(ワカシオギュウ)」などが作られています。

 「小高のはだか参り」ですが、毎年「成人の日」の「前日」、午後10時(22時)00分から午後11時(23時)00分頃に行われる「恒例」の「真冬」の「水ごり行事」です。
 「小高のはだか参り」は、「妙長寺」の「門前」に集まった「下帯」1本の「若者たち」が「辻」で「水垢離(ミズゴリ)」をし、「身」を清めた後、「駆け足」で約500m離れた「八坂神社」まで行き、「無病息災」・「家内安全」・「五穀豊穣」を祈願するそうです。
 「小高のはだか参り」では、「帰り」は「手」を取り合い、

 「ヒーヒーガンガン」

 と面白い「かけ声」をあげながら戻ってきて、最後は「お供え餅」も奪い合って終わりとなるそうです。

 「小高のはだか参り」の「参加者」ですが、40人前後となっており、「規模」は小さな「お祭り」ですが、「奇祭」として知られていることから、「遠方」からの「見物客」も「年々」増えているそうです。
 「小高のはだか参り」の「見どころ」のひとつ「水垢離」では、汲み置かれた「水」を「手桶」で勢いよく浴びる「場面」を見ることができるそうです。
 「水垢離」の「場面」ですが、凍(イ)てつく「寒さ」の中での「水垢離」の際、「身体(カラダ)」から「湯気(ユゲ)」が涌き出て、その「勇壮さ」に見ている「観客」も興奮してしまうそうです。

 「小高のはだか参り」の「始まり」ですが、今から300年前、あるいは500年前から行われてきたと伝えられていますが、詳しい「資料」が残っていないため、どのようにして行われてきたのかは定かではありませんが、「小高のはだか参り」で、お参りされる「八坂神社」は、「男性器」を模した「棒」が祀られている「子宝の神様」でもあり、「小高のはだか参り」は「成人の日」の「前夜」に行われてきたことからも、「子孫繁栄」を祈願し、始められたのではないかといわれています。
 (「小高のはだか参り」は、江戸時代後期に「日蓮宗」の「僧侶」の間で行われていた「水垢離」の「行」が「起源」という「説」もあり、以後、「八坂神社」の「子授け信仰」と結びつき、今日(コンニチ)の姿の「お祭り」として定着したともいわれています。)

 「小高のはだか参り」が行われる「匝瑳市」「飯高地区」「小高」では、「小高のはだか参り」「会場」近くに「駐車場」がないため、

 「近所のご迷惑にならないようご協力ください。」

 と呼びかけています。

 「真冬」の「飯高地区」「小高」の「寺社」「妙長寺」から「八坂神社」まで駆け抜ける「勇壮」な「行事」「小高のはだか参り」。
 この機会に「匝瑳市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「小高のはだか参り」詳細

 開催日時 1月8日(日) 22時〜23時

 開催会場 妙長寺〜八坂神社 匝瑳市小高194

 問合わせ 匝瑳市産業振興課 0479-73-0089

 備考
 「小高のはだか参り」では、「参加希望」の「問い合わせ」が時々寄せられるそうですが、「真冬」の「夜」の「水垢離」は、とても寒く、実際の「参加者」の「皆さん」は、「小高のはだか参り」を終えると「地元」・「近所」の「家」の「お風呂」を借りているため、「一般人」の「参加」は事実上、無理があるようです。

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「青木半治杯」「第68回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」(銚子市)
 本日ご紹介するのは、地元「銚子市」で1月8日(日)に開催され、「6区間」15.8kmを駆け抜ける「青木半治杯」「第68回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」です。

 「銚子市」(2010年9月20日のブログ参照)は、1933年(昭和8年)2月11日、「銚子町」、「本銚子町」、「西銚子町」、「豊浦村」の3町1村が合併し、「全国」で116番目、「千葉県」では「県庁所在地」「千葉市」に次いで「2番目」の「市」として誕生しました。
 その後、「銚子市」は、1937年(昭和12年)に「高神村」、「海上村」、1954年(昭和29年)に「船木村」、「椎柴村」、1955年(昭和30年)に「豊里村」、1956年(昭和31年)に「豊岡村」と順次合併、発展してきました。
 現在の「銚子市」の「人口」ですが、64355人となっており、「世帯数」は27552世帯となっています。
 (2017年(平成29年)1月1日現在)

 「銚子市」は、「関東地方」の「東部」、「千葉県」の「北東部」にある「市」で、「全国屈指」の「漁港のまち」で、「市」の「北部」には「坂東太郎」「利根川」(2011年10月9日のブログ参照)が流れ、「銚子市」で「太平洋」に注いでいます。
 「銚子市」は、「東京」から100km圏内、「関東平野」の「最東端」に位置し、「北」は「利根川」、「東」と「南」は「太平洋」に面しています。
 「銚子市」は、江戸時代に「利根川水運」が開発され、「醤油醸造業」と「漁業」で発展、「農業」は「露地野菜」を中心に発展した「観光都市」です。
 「銚子市」は、「利根川」沿いの「低地」と「北総台地」(下総台地)(2012年7月10日のブログ参照)からなり、「表層」は「関東ローム層」に覆われています。
 「銚子市」には、「北総台地」(下総台地)「最高峰」の「愛宕山」(「標高」73.6m)があり、「水田」は「台地山間」の「谷津田」と「利根川」沿いに広がっており、「畑地帯」は「台地」の「平坦部」に位置し、比較的「農業」(2011年6月15日・2月19日のブログ参照)に適しています。

 「銚子市」は、三方を「水」に囲まれ、「利根川」「河口」から「君ヶ浜」(2011年6月1日のブログ参照)、「犬吠埼」(2012年4月16日のブログ参照)、「屏風ヶ浦(ビョウブガウラ)」(2016年3月2日・2012年5月20日のブログ参照)に至る「海岸線」は、「砂浜」あり、「断崖絶壁(ダンガイゼッペキ)」ありと、「変化」に富んだ「雄大」な「景観美」を織り成しています。
 「銚子市」は、上記のように「利根川」沿いの「低地」と、「北総台地」(下総台地)からなり、「表層」は「関東ローム層」に覆われています。
 「銚子市一」「標高」が高い「愛宕山」(「標高」73.6m)は、「北総台地」(下総台地)「最高峰」の「高さ」を誇り、「愛宕山」の「頂上」付近には、「地球の丸く見える丘展望館」(2010年8月30日のブログ参照)という「人気観光スポット」があり、「北」は「鹿島灘(カシマナダ)」(2012年6月16日のブログ参照)から「筑波山」を望み、「東」と「南」は「一望千里」に「太平洋」の「大海原」を、「西」は「屏風ヶ浦」から「九十九里浜」(2012年5月11日のブログ参照)まで見渡せ、文字通りの「絶景スポット」となっています。
 「銚子市」の「観光スポット」、「見どころ」ですが、「犬吠埼灯台」(2011年1月1日のブログ参照)、「地球の丸く見える丘展望館」、「銚子ポートタワー」(2011年11月30日・2010年9月30日のブログ参照)、「銚子漁港」(2012年1月24日のブログ参照)、「銚子電鉄」(2012年2月11日のブログ参照)、「銚子マリーナ」(2012年10月4日・2010年10月18日のブログ参照)、「水産物卸売センター」「ウオッセ21」(2011年4月26日・2010年8月25日のブログ参照)、「犬吠埼温泉郷」、「外川の町並み」(2010年12月13日のブログ参照)、「銚子ジオパーク」(2012年12月9日・9月25日のブログ参照)等となっています。

 「銚子市」の「位置」・「地勢」ですが、「首都」「東京」から100km、「東経140度50分」、「北緯35度44分」、「関東平野」の「最東端」に位置しています。
 「銚子市」は、「北」は「利根川」を隔て、「茨城県」「神栖市」に対し、「東」から「南」は「太平洋」に臨み、「利根川」沿い「北西方面」は「香取郡」「東庄町」(2012年4月15日・4月5日のブログ参照)と、「太平洋側」「南西方面」は「旭市」と接しています。
 「銚子市」の「面積」ですが、83.91平方kmで、「沖」に流れる「暖流」・「寒流」の「影響」を受け、「夏」は涼しく、「冬」は暖かい「気候」となっています。

 「青木半治」氏(2011年1月4日のブログ参照)は、「日本」の「スポーツ指導者」、「日本陸上競技連盟」「第5代」「会長」で、「日本体育協会」「第11代」「会長」また、「国際陸上競技連盟」と、「アジア陸上競技連盟」でも「役員」を歴任、「副会長」を務め、後に「終身名誉副会長」を務められた「人物」です。

 「青木半治」氏は、「千葉県」「長生郡」「太東村」(現・いすみ市)出身で、「旧制銚子商業学校」(現在の「千葉県立銚子商業高等学校」)卒業、1938年(昭和13年)に「早稲田大学」「商学部」を卒業されました。
 その後「青木半治」氏は、「日立製作所」に入社し、同年「日本陸上競技選手権大会」の「砲丸投げ競技」で「優勝」、その後は、「三徳工業」、「昭和電工」を経て、1945年(昭和20年)に独立し、1946年(昭和21年)「青木金属工業株式会社」を設立、「会社経営」の傍(カタワ)ら、「母校」の「早稲田大学」「陸上部監督」を務められました。
 また「青木半治」氏が、「早稲田大学」「陸上部監督」を務めていた時の「部員」には、元「衆議院」「議長」を務められた「河野洋平」氏が入部されていたそうです。

 その後「青木半治」氏は、1959年(昭和34年)に「日本陸上競技連盟」の「常務理事」、1961年(昭和36年)に「日本陸上競技連盟」「理事長」に就任、同年に「日本体育協会」「評議員」及び「理事」に就任されました。
 その後「青木半治」氏は、上記のように「日本陸上競技連盟」、「日本体育協会」、「国際陸上競技連盟」、「アジア陸上競技連盟」でも活躍され、「陸上競技」の「発展」に寄与されました。
 「青木半治」氏は、数多くの「功績」を残し、2010年(平成22年)5月30日、「急性心不全」のため「東京都内」の「病院」で、94歳で死去されました。

 「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」は、「陸上競技界」を率先されてきた「青木半治」氏の「名前」を冠し、今年(2017年)で「68回目」を数える「歴史」ある「銚子市」の「新春」を彩る「駅伝大会」で、「銚子市内」や、「観光名所」を駆け抜ける「一大スポーツイベント」となっています。
 「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」の「大会」の「主旨」ですが、「体育」・「スポーツ」の「普及」及び「中学生」「相互」の「親睦」を図り、「スポーツ」を通して「心身」の「健全」な「育成」と、「社会体育」の「振興」を推進するために開催されています。

 「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」の「歴史」ですが、「終戦後」の「混乱期」であった1949年(昭和24年)、「青木半治」氏を「筆頭」に、「銚子市内」に集まった「陸上競技愛好家」の「皆さん」により「協議会」が開かれ、「協議」では、

 「戦後の混乱した世相から、スポーツを通じて何事にも全力で当たる気構えをつくろう」

 との「意見」で一致したそうです。
 そして翌昭和25年(1950年)、「千葉県立銚子商業高校」「陸上部」が「運営」の中心を担い、「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」の「第1回大会」が開催されたそうです。
 「第1回大会」の「参加範囲」ですが、「銚子市」、「海上郡」、「匝瑳郡」、「香取郡」の16校が参加し、「八日市場中学校」が2時間26分19秒の「記録」で優勝されたそうです。
 以降「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」は、「回」を重ねる毎(ゴト)に「参加校」も増加し、現在では80校を超える「関東近県」では、「最大規模」の「駅伝大会」となっています。
 「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」ですが、「第42回大会」より当時「日本体育協会」「会長」であった「青木半治」氏より、「本大会」に「カップ」が寄贈され、「青木半治杯」の「名」を冠する「駅伝大会」となりました。
 ちなみに「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」ですが、平成7年(1995年)に「日本陸上競技連盟創立70周年記念式典」におかれまして、「本大会」が高く評価されたそうです。
 なお「中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」の「コース」ですが、例年「問題」となっていた「国道356号線」及び「銚子大橋」(2010年12月17日のブログ参照)付近の「渋滞」を解消するため、「第58回大会」から数回に及ぶ「コース」の「変更」が行われ、現在の「コース」となっています。
 なお、本年度(2017年)に開催される「第68回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」でも、「コース」の「変更」が行われ、「8区間」から「6区間」に短縮されるそうです。

 「銚子市」では、「新春恒例」の「青木半治杯」「第68回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」が、1月8日(日)に開催されます。
 「第68回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」には、「県内外」から66チームが参加し、上述のように「全6区間」15.8kmの「起伏」に富んだ「コース」となっています。
 「青木半治杯」「第68回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」では、「銚子市街地」から「名洗」、「愛宕山」、「犬吠埼」をめぐって「早春」の「銚子半島」を一周する「総延長」15.8kmの「コース」を、「関東各地」から集まった「中学生」の「ランナー」が6つの「区間」に分けられた「コース」を駆け抜けます。
 また「青木半治杯」「第68回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」では、「スタート地点」の「シンボルロード」「銚子駅前大通り」から「2区」、「3区」の「地球の丸く見える丘展望館」までの「高低差」が60m以上に及び、その「過酷」な「コース」を、「選手たち」は「タスキ」を繋ぎ、約1時間強で「コース」を走り抜くそうです。
 「青木半治杯」「第68回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」の詳しい「コース」は、下記の通りです。

 1区 (1.9km) シンボルロード・駅前大通り 河岸公園(2013年8月16日のブログ参照)前〜名洗

 2区 (2.3km) 名洗〜地球の丸く見える丘展望館

 3区 (2.3km) 地球の丸く見える丘展望館〜犬吠埼灯台

 4区 (2.8km) 犬吠埼灯台〜黒生

 5区 (2.0km) 黒生〜川口神社(2010年12月22日のブログ参照)

 6区 (3.0km) 川口神社〜銚子市役所

 ゴール    銚子市役所前

 (合計6区間・15.8km)

 「新春」の「銚子半島」を疾走する「伝統」ある「駅伝大会」「青木半治杯」「第68回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」。
 この機会に「銚子市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「第68回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」詳細

 開催日時 1月8日(日) 11時半〜 (受付)

 開催会場 銚子市内各所 (コースは上記参照)

 問合わせ 銚子市役所スポーツ振興課 0479-24-9559

 備考
 「第68回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」に際し、「コース」「道路」上への「駐車」は遠慮いただくとともに、「レース」前後には「交通規制」が行われますので、ご注意下さい。
 昨年(2016年)に開催されました「第67回中学校対抗銚子半島一周駅伝大会」(2016年1月10日のブログ参照)の「結果」ですが、下記の通りです。
 (上位10位まで記載)

 優勝  流山北部中

 準優勝 松戸小金中

 3位   我孫子湖北中

 4位  松戸常盤平中

 5位  茅ヶ崎松林中

 6位  我孫子白山中

 7位  我孫子中

 8位  野田一中

 9位  流山常盤松中

 10位  鎌ヶ谷五中

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| 地域情報::銚子 | 05:12 PM |
「白馬祭(オウメサイ)」(鹿嶋市)
 本日ご案内するのは、近隣市「鹿嶋市」「鹿島神宮」で1月7日(土)に開催されます「白馬祭(オウメサイ)」です。

 「鹿嶋市」は、「茨城県」「南東部」に位置する「市」で、「首都」「東京」から110km「東」に位置し、「鹿嶋市」の「市」の「東側」は「太平洋」「鹿島灘(カシマナダ)」(2012年6月16日のブログ参照)に面していることから「海岸」「海水浴場」「平井海水浴場」(2016年3月22日のブログ参照)、「下津海水浴場(オリツカイスイヨクジョウ)」(2016年3月22日のブログ参照)があります。
 「鹿嶋市」の「西側」は「北浦」(2011年12月6日のブログ参照)、「鰐川(ワニガワ)」に面し、「筑波山」を望むことができます。
 「鹿嶋市」は「JR総武本線」の「分岐線系統」である「JR鹿島線」や「東関東自動車道」(厳密には「潮来IC(いたこインターチェンジ)(潮来市内)」)の「沿線」であり、「交通網」が「茨城県」の「県庁所在地」「水戸市」でも「土浦」からでもなく、「千葉県」の「県庁所在地」「千葉市」から「順」に整備されたことから、「茨城県」の「他」の「地域」よりも、「国道51号線」を通じた「千葉県」「東部」(「香取市」、「成田市」、「千葉市」、「銚子市」など)との「関係」が深い「市」です。

 「鹿嶋市」は、「常陸国一宮」である「鹿島神宮」(2010年11月8日・9日・10日のブログ参照)の「門前町」として栄えてきました。
 現在「鹿嶋市」は「となりまち」「神栖市」とともに「重要港湾」である「鹿島港」を中心とした「鹿島臨海工業地帯」を形成し、「新日鐵住金」の「企業城下町」として「鉄鋼企業」を中心とした「工業都市」として知られています。
 現在の「鹿嶋市」の「人口」ですが、67775人(男35072人、女32703人)で、「世帯数」27764世帯となっています。
 (平成28年(2016年)12月1日現在)
 また「鹿嶋市」は、「Jリーグ」「鹿島アントラーズ」の「ホームタウン」(他に「潮来市」、「神栖市」、「鉾田市」、「行方市」)の中心であり、「関東」でも「有数」の「サッカーの街」としても「有名」です。
 「鹿嶋市」は、1995年(平成7年)9月1日に「鹿島町」が「大野村」を編入し、「市制施行」し、「鹿嶋市」となっています。
 「鹿嶋市」の「名称」ですが、「市制施行」の際、「佐賀県」の「鹿島市」と重複しないように、「島」の「異体字」である「嶋」に変えて「鹿嶋」としたそうです。
 「鹿島町」が「大野村」を編入し、「市制施行」した「鹿嶋市」ですが、昨年(2015年)で「市制施行20周年」を迎えており、昨年、「鹿嶋市」では、「市制施行20周年」を記念し、「各種」「記念行事」が催行されました。

 「常陸国一宮」「鹿島神宮」は、「茨城県」「鹿嶋市」に鎮座する「神社」で、「全国」に約600社ある「鹿島神社」の「総本社」です。
 「鹿島神宮」は、「千葉県」「香取市」に鎮座する「香取神宮」(2010年11月5日・6日のブログ参照)、「茨城県」「神栖市」に鎮座する「息栖神社(イキスジンジャ)」(2010年11月7日のブログ参照)と合わせて「東国三社」(2010年10月23日のブログ参照)と呼ばれ、江戸時代から「東国三社めぐり」として「人気」があったそうで、「初詣」には、「全国」から60万人以上が参拝し、「初詣」の「参拝者数」では「茨城県」2位を誇ります。

 「鹿島神宮」は、「茨城県」「南東部」、「北浦」(2011年12月6日のブログ参照)と「鹿島灘(カシマナダ)」(2012年6月16日のブログ参照)に挟まれた「鹿島台地」上に鎮座し、「鹿島神宮」は、「伊勢神宮」・「香取神宮」とともに、明治維新前に「神宮」の「名称」を使用していた「三社」のうちの「一社」です。
 「鹿島神宮」の「御祭神」「武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)」(建御雷神)で、「鹿島神」という「一般名称」でも知られており、「古事記」では、「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」が「軻遇突智(カグツチ)」の「首」を切り落とした際、「剣」についた「血」が「岩」に飛び散って生まれた「三神」のうちの「一柱」とされています。
 「武甕槌大神」は、「香取神宮」の「御祭神」「経津主大神(フツヌシノオオカミ)」とともに、「天孫降臨」に先立ち「国譲り」の「交渉」をしたといわれている「神様」で、「武甕槌大神」は、「武の神」として古くから「皇室」や「藤原氏」の「崇敬」を受け、さらに鎌倉時代以降は「武家政権」の「信仰」も得て、「社殿」・「楼門」・「宝物類」の「奉納」や「所領寄進」が繰り返されてきました。

 「鹿島神宮」「楼門」は、寛永11年(1634年)、「水戸徳川初代藩主」「徳川頼房」公が奉納した「楼門」で「日本三大楼門」のひとつとして知られています。
 「鹿嶋社楼門再興次第記」によれば、「三代将軍」「徳川家光」公の「病気平癒」を「徳川頼房」公が「大宮司」(神宮の最高責任者)「則広」氏に依頼し、「徳川家光」公が快方に向かった為に奉納されたとあり、「浅草」の「水戸藩下屋敷」で130余人の「大工」が切組み、「船筏」で運んで組み立てたそうです。
 「鹿島神宮」「楼門」ですが、昭和15年(1940年)の「大修理」の際、「丹塗り」とし、昭和40年代に「檜皮葺」の「屋根」を「銅板葺」としたそうです。
 また「鹿島神宮」「楼門」は、「鹿島神宮」「境内」「鹿島神宮の森」の「縁」の中にひときわ「朱色」が鮮やかな「楼門」で、「鹿島神宮」「楼門」の「扁額」は「東郷平八郎」「元帥」の「直筆」によるものだそうです。

 「鹿島神宮」「本殿」は、「三間社流造」、「向拝一間」で「檜皮葺」、「漆塗り」で「柱頭」・「組物」等に「極彩色」が施されています。
 風格ある「鹿島神宮」「本殿」は、「江戸幕府」「2代将軍」「徳川秀忠」公より奉納されたもので、「国」の「重要文化財」に指定されています。
 「鹿島神宮」「本殿」ですが、元和5年(1619年)の「造営」までは、現在の「奥宮」の「社殿」を使用されていました。
 「鹿島神宮」「本殿」の背後には「杉の巨木」の「御神木」が立っており、「御神木」ですが、「樹高」43m・「根回り」12mで、「樹齢」約1000年といわれ、さらに後方、「玉垣」を介した位置には「鏡石(カガミイシ)」と呼ばれる「直径」80cmほどの「石」があり、「神宮創祀の地」とも伝えられています。

 「鹿島神宮」「奥宮」ですが、1605年(慶長10年)に「鹿島神宮」「本殿」として奉納された「建物」で、「鹿島神宮」では場所を移して「奥宮」としたそうです。
 「鹿島神宮」「奥宮」周辺ですが、神秘的な「雰囲気」を醸し出しており、「鹿島神宮」「奥宮」には、「鹿島神宮」「御祭神」「武甕槌大神」の「荒魂」が祀られています。
 「鹿島神宮」「奥宮」「社殿」は、元々「江戸幕府」を開いた「徳川家康」公が、上述の「鹿島神宮」「本殿」として奉納したものを、元和5年に「徳川秀忠」公の「社殿」奉納に際し、「現在地」へ引移して「奥宮」「社殿」になったそうで、「鹿島神宮」「本殿」と比べると、「重厚さ」が感じられる「建物」となっています。

 「鹿島神宮」の「境内地」ですが、「東京ドーム」15個分(約70ha(ヘクタール))に及ぶ「大きさ」で、「鹿島神宮」の鎮座する「地」は「三笠山(ミカサヤマ)」と称され、この「境内」は「日本」の「歴史上」、重要な「遺跡」であるとして、「国の史跡」に指定されています。
 (摂社坂戸神社境内、摂社沼尾神社境内、鹿島郡家跡も包括)
 「鹿島神宮」「境内」(70ha)のうち約40haは、鬱蒼(ウッソウ)とした「樹叢」で、「鹿島神宮樹叢」の「大きさ」は、「東京ドーム」約15個分の「広さ」を持ち、「鹿島神宮樹叢」として「茨城県指定天然記念物」に指定されています。
 「鹿島神宮樹叢」には約800種の「植物」が生育し、「鹿島神宮」の長い「歴史」を象徴するように「巨木」が多く、「茨城県内」では随一の「常緑照葉樹林」になっており、木漏れ日の中を散策するなど、「森林浴」にも最適な「スポット」となっています。
 その他「鹿島神宮」「境内」には、透き通る「湧水」で「禊(ミソギ)」も行われる「御手洗池」や、「鹿園」など、多くの「見どころ」があります。

 「鹿島神宮」の「創建」ですが、2674年前の「初代」・「神武天皇」「御即位」の「年」にあたり、「神武天皇」は、「東征」の「途上」における「大神」の「布津御霊劔(フツノミタマノツルギ)」による「守護」に感謝され、「鹿島の地」に「大神」を勅祭されたそうです。
 これに先立つ神代の昔、「武甕槌大神」は「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」の「名」を受け、「葦原中国」といわれた「我が国」の「国譲り」から「国造り」まで、その「建国」に大いにその「御神威」を発揮されました。
 「鹿島神宮」は、その「御威徳」から「武の神」として崇められ、日出づる「東方」に坐します「鹿島立ち」の「御神徳」によって、「事始め」、「起業」、「開運」、「旅行交通安全の神」、「常陸帯」(2012年1月13日・2011年10月16日のブログ参照)の「故事」によって「安産」、「縁結び」の「神」を仰がれています。

 「鹿島神宮」「文化財」ですが、「布津御霊劔(フツノミタマノツルギ)」と称される「長大」な「直刀」が「国宝」に指定されているほか、「鹿島神宮」「境内」は「国」の「史跡」に指定され、「本殿」・「本殿」・「楼門」など「社殿」7棟が、「国」の「重要文化財」に指定されており、そのほか「鹿島神宮」は、「鹿」を「神使」とすることでも知られています。
 「鹿島神宮」は、古くから「朝廷」から「蝦夷(エゾ)」に対する「平定神」として、また「藤原氏」から「氏神」として崇敬され、その「神威」は中世の「武家の世」に移って以後も続き、「歴代」の「武家政権」からは「武神」として崇敬され、現代も「鹿島神宮」は「武道」で篤く信仰されています。

 「鹿島神宮」では80以上もの「年中行事」の中では「祭頭祭」(2016年3月8日・2015年3月8日・2014年3月5日・2013年3月6日・2012年3月2日・2011年3月6日のブログ参照)、「神幸祭」(2012年8月26日のブログ参照)、また12年に一度「午年」ごとに行われる「式年大祭御船祭」(2014年8月31日のブログ参照)が特に「有名」で、2014年9月1日(月)には、「3日間」に渡って「御船祭」が催行されています。
 (「式年大祭御船祭」「前日」8月31日(日)午後には、「御座船清祓式」(2014年8月29日のブログ参照)が執り行われました。)

 「白馬祭(オウメサイ)」ですが、「鹿島神宮」で執り行われている「神事」で、「鹿島神宮」に祀る「神様」の「お目覚め」の「祭事」です。
 「白馬祭」は、「新年」に「白馬」を見ると一年間の「邪気」を祓うといわれる「信仰」と、「皇祖」以下「祖霊」や、「諸神」をまつる「祭儀」となっています。
 「白馬祭」では、「蹄」の「音」高く「鹿島神宮」「神殿」の前を駆け抜け、「白馬祭」が始まると、「蹄」の「音」が「鹿島神宮」「境内」に響き渡るそうです。
 また「白馬祭」ですが、「鹿島神宮」「境内」に「神馬」が疾走する、「勇壮」な「鹿島立ち」の「神事」であり、「白馬祭」は「日本三大白馬祭」のひとつに数えられ、約750年の「歴史」を持つ「祭事」でもあります。

 「白馬祭」「当日」ですが、「時間」になると「鹿島神宮」「楼門」の方から、「鹿島神宮」「拝殿」の方(馬のいる「稲荷社」の方)に「神職」が「御神馬(ゴシンメ)」(白馬)を迎えに行き、「鹿島神宮」に「御神馬」(白馬)が入場します。
 「御神馬」(白馬)が入場すると、「鹿島神宮」「拝殿」前の「広場」にて、「宮司(グウジ)」が「祝詞(ノリト)」を読み上げ、「広場」では、「御神馬」(白馬)がグルグルと歩くそうです。
 また「白馬祭」「当日」、「鹿島神宮」から「甘酒」と、「七草粥」の「振る舞い」も行われるそうです。

 「関東屈指」の「名社」「鹿島神宮」で開催される「御神馬」(白馬)を見ることで、1年の「邪気」が祓われるという「神事」「白馬祭(オウメサイ)」。
 この機会に「鹿嶋市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「白馬祭(オウメサイ)」詳細

 開催日時 1月7日(土) 18時〜20時

 開催会場 鹿島神宮 茨城県鹿嶋市宮中2306-1

 問合わせ 鹿島神宮 0299-82-1209

 備考
 「白馬祭(オウメサイ)」では、「御神馬」(白馬)が歩くところに「ハンカチ」(小石)等を置き、「御神馬」(白馬)に踏ませるそうです。
 「白馬祭」の「御神馬」(白馬)に踏まれた「ハンカチ」、「小石」を持つと「心願」が叶うと伝えられており、「ハンカチ」、「小石」は、「恋愛成就」の「お守り」となる「民間信仰」もあるそうです。

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| 地域情報::鹿島 | 10:12 AM |

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