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「菜の花の名所」「甚兵衛公園」(成田市)
 本日二つ目にご紹介するのは、近隣市「成田市」の「菜の花の名所」「甚兵衛公園」です。

 「菜の花」は、「アブラナ」または「セイヨウアブラナ」の別名のほか、「アブラナ科アブラナ属」の「花」です。
 「菜の花」は「食用」、「観賞用」、「修景用」に用いられます。
 「春」に、一面に広がる「菜の花畑」は壮観で、代表的な「春」の「風物詩」でもあります。

 「成田市」にある「甚兵衛公園」(2011年2月16日のブログ参照)は、義民「佐倉宗吾」のために掟(おきて)を破り「渡し舟」に出し、送り届けた後、「印旛沼」に身を投じたといわれる「渡し守」「甚兵衛」の名前が由来となっている「公園」で、「千葉県立印旛手賀沼自然公園」の一部です。

 「宗吾霊堂」(2010年12月23日のブログ参照)に祀られています「佐倉宗吾」こと「佐倉惣五郎(木内惣五郎)」は、「藩主」「堀田氏」による苛政を直訴するべく「江戸」へと向かい、この渡しで「舟」を乗りました。
 「渡し守」「甚兵衛」が、禁を破って「惣五郎」を「印旛沼」対岸の「吉高」まで送り届けたという伝承が「甚兵衛公園」に残っています。
 現在「印旛沼」の畔(ほとり)には、「甚兵衛」の「供養塔」と「石碑」があります。

 「甚兵衛公園」は、季節ごとに咲く「花」が見事なことで知られており、「春」には「菜の花」、「秋」には「秋桜」があたり一面に咲き乱れます。
 特に「菜の花」は、「黄色一杯」の「花畑」が広がり、満開になると「黄金色の絨毯(じゅうたん)」を敷き詰めたように綺麗に咲いています。

 また「甚兵衛公園」には、50本余りの「紅白梅」の「木」が植えられています。
 今年は「寒波」の影響で2月中はまだ蕾(つぼみ)で、これから見頃を迎えると思われますが、「黄色」・「白色」・「紅色」といった色とりどりの「梅の花」を楽しむことができるようです。

 四季折々の「花」が咲き誇る「公園」「甚兵衛公園」。
 「菜の花」や「梅の花」を愛でに「成田市」に訪れてみませんか?

 「甚兵衛公園」詳細

 所在地  甚兵衛公園 成田市北須賀1626

 問合わせ 成田市観光プロモーション課 0476-20-1540

 備考
 「甚兵衛公園」周辺には、「佐倉宗吾」の「旧宅」があり、「原生林」も広がっていて、「散策」に適しています。
 また「甚兵衛公園」の「松の木」は「日本の名松100選」に昭和58年(1983年)5月に指定されています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=974 |
| 地域情報::成田 | 11:31 AM |
「祭頭祭(さいとうさい)」「鹿島神宮」(鹿嶋市)
 本日ご案内するのは、近隣市「鹿嶋市」「鹿島神宮」とその周辺で来週の3月9日(金)に行われます「祭頭祭(さいとうさい)」です。

 「祭頭祭」を行う「鹿島神宮」(2010年11月8日・9日・10日のブログ参照)の「創建」は、神武天皇即位年の皇紀元年(紀元前660年)といわれています。
 武神の「武甕槌大神(たけみかずちのおおかみ)」を「御祭神」としており、そのため「鹿島神宮」周辺は「武芸」が盛んとなり「剣聖」・「塚原卜伝(つかはらぼくでん)」(2011年11月29日のブログ参照)を生んでいます。
 「鹿島神宮」は「皇室」・「公家」・「武士」に関わらず長く尊崇され続け、現代に至っています。
 「鹿島神宮」「本殿」は、「国」の「重要文化財」になっており、「宝物館」には「茨城県」唯一の「国宝」である「直刀」「ふつのみたまのつりぎ」が展示されており、そのほか「国」・「県」指定の「文化財」が多く所蔵しています。
 「鹿島神宮」境内の「鹿園」には「奈良」「春日大社」から譲り受けた「鹿」がいます。
 ちなみに「Jリーグ」の「鹿島アントラーズ」のチーム名「鹿の枝角(antlerアントラー)」は、ここの「鹿」にちなんでいます。

 「祭頭祭」は「鹿島神宮」の「祭典」で、「鹿島立ち」にちなむ重要な「祭」です。
 「祭頭祭」は、奈良時代の防人の出発(「鹿島立ち」)と、帰還の様子に由来する「祭」とされており、「鹿島神宮」の年間80回以上もある「行事」でも、もっとも規模の大きな「祭典」だそうです。

 「祭頭祭」の「起源」は、奈良時代の天武朝とも平安時代ともいわれますが、文献に出てくるのは、建仁4年(1204年)とされ、この時は「片野」の「長保寺」と「平井」の「宝持院」が「祭」の「世話役」を勤めているそうです。
 「祭頭祭」は、明治までの「神仏習合」の時代には2月15日の「釈迦入滅」の「常楽会」(涅槃会)と習合していました。
 その名残から今でも男子の「大総督」を「新発意」というそうです。
 また、勇壮な「棒祭り」から「いくさの神」としての「鹿島神宮」の「神徳」と重ねて「悪路王退治の余風(昔からの風習)」という解釈がされていた時代もあるそうです。
 昭和初期には、「戦争」に出兵する「兵士」を鼓舞(こぶ)する「防人の祭り」とされていました。
 しかし「祭頭祭」は本来、地元に密着した「五穀豊穣」・「天下泰平」を祈る「記念祭」の一種であり、「祭り」が終わると「鹿行地方(ろっこうちほう)」では「農作業」が本格化します。

 「祭頭祭」は、朝10時から前年の「春季祭」で卜定された左方・右方両当番字の「大総督」が「狩衣装」で「家族」や「役員」に護られながら「社殿」にあがり「神事」が執行されます。
 「祭頭祭」のあと、「大総督」や両字の人々は、「本陣」に定めた「ホテル」などで休憩のあと、正午前から巡行を始めます。
 「行列」の先頭ですが、「囃し人」の一人が、「天下泰平 春季祭」などと書いた「軍配団扇(ぐんばいうちわ)」を振り回しながら進み、「大総督」が続きます。
 「大総督」は、「甲冑(かっちゅう)」に身を固め、「大黒頭巾(だいこくずきん)」を被った「人」に肩車されて巡航します。
 続いて「役員」や「家族」、「神職」が進み、「囃し人」がそれに続き、総勢1000人以上(両方)にもなるという「大行列」になるそうです。

 「囃し人」は、「赤」・「青」・「黄色」などの色とりどりの「衣装」を着て、色鮮やかな「襷(たすき)」を数本かけ、「キャラクター人形」・「般若(はんにゃ)」・「おかめ・ひょっとこ」の「面」、「鈴」などで飾り付けられています。
 「囃し人」は、10〜20人の「班」に分かれ、「太鼓」を腰に付けて叩く「人」の周りを囲んで「鹿島神宮祭頭歌」を歌いながら長さが六尺(1.8m)の「樫(かし)の棒」を組んだりほぐしたりします。
 また「各班」には、「企業」などが奉納した「馬簾(ばれん)」が煽ります。

 「囃し」が終わると「本陣」で休息後、「狩衣」の「大総督」や「役員」、「家族」は、18時から「春季祭」に参列します。
 「春季祭」では来年の当番字が卜定されます。
 卜定された2字(あざ)は、「物申神職」(1年間祭事を担当する神職)により、
 「来(きた)る○○年春季祭当番、神慮を以て卜定候字、左方の大頭、大字、・・・。
 右方の大頭、大字、・・・。」
 と読み上げられるそうです。

 卜定された「字」は、「鹿島神宮」の「大神」により「神」を来臨さしめ、「降神祭」により「鹿島神宮」の「分霊」を1年間「字」に合祀され、「見そなわし」(神が見守り)、「安寧」(おだやかで平和)と「弥栄」(いよいよの繁栄)をもたらされるといいます。
 なお、「祭頭囃し」の奉納は、この1年の「報祭」(祈願成就のお礼の祭り)であるといわれています。

 「鹿島神宮」に伝わる「伝統行事」「祭頭祭」。
 「鹿島神宮」で行われる規模の大きな「祭典」を見に「鹿嶋市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「祭頭祭(さいとうさい)」詳細

 開催日時 3月9日(金) 10時〜

 開催会場 鹿島神宮 鹿島神宮周辺 茨城県鹿嶋市宮中2306-1

 問合わせ 鹿島神宮社務所 0299-82-1209

 備考
 「祭頭祭」の「大総督」は、「神事」には「狩衣」を装着、「囃しの行列」では「甲冑」に身を固めます。
 「甲冑」の「重量」だけで約15kgもあり、「大総督」役や担ぐ「人」は大変だそうです。
 「祭頭祭」は、昭和51年に「国選択無形民族文化財」に指定されています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=973 |
| 地域情報::鹿島 | 08:45 AM |

 
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